漢字教育士ひろりんの書斎漢字の書架
2019.7.  掲載
2020.4.  改題

 「漢字分解字典」構想

 本稿は、2019年4月13日に、「関西漢字教育サポーターの会」例会において筆者が発表した内容を、増補修正してまとめなおしたものです。掲載当初は「漢字部品字典構想」としておりましたが、部品だけの字典かと誤解される恐れがあるので、改題しました。

 漢字は普通、いくつかの構成要素から成り立っている。一つの要素だけでそのまま一つの漢字になっている場合もあるが、その場合はその字が他の字の構成要素になっていることが多い。そして、それらの要素は、ある程度共通の意味や発音をあらわしている。したがって、構成要素を理解することにより、それらが集まってできた漢字の理解が助けられるのではないか。
 そんな思いから、構成要素から検索できる字書を構想した。従来の漢和辞典の多くも、部首という構成要素ごとに配列されているが、提案するのは部首だけでなく、声符その他を含む様々な構成要素から検索できるものである。(以下、「構成要素」という語を「部品」に置き換えて記述する。筆者は、「漢字の要素」という意味から「字素」という語を提唱したいと思っているが、もちろん馴染みがない語なので、とりあえずは「部品」を使用する。)

 まず、漢字を分解することにより理解が進むということを説明するための一例として、常用漢字のうち最も画数の多い「鬱」という字を取り上げる。これを部品に分解すれば次のとおりである。

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 これらの部品のうち、鍵となるのは「鬯」の部分である。この部品はこのまま一つの漢字で「チョウ」と読み、「香りをつける欝草を酒壺にひたしている形」であるという1)※の部分が鬱草、凵が器、匕は器の足である。「鬱鬯」という語もあり、神を招く儀礼の際に用いる「香り酒」のことをいう。鬱は鬯に缶(かめ)、冖(覆い)、彡(香りが立ち昇る様子)などを付加した字で、鬱鬯を作るときの様子を示している。鬱の字の本来の意味は「香り酒が醸されること」であるが、この字が現在、「鬱蒼」「鬱陶しい」「憂鬱」など、「ふさがっている」状況を示すのに使われるのは、「すべて、鬱鬯を作るときの固密鬱閉の義から引伸したものであろう。」という。(この段落、白川静「字統」をもとに記述)

 逆に、一つの部品に他の部品を付け加えて、別の字ができ上っていくさまを検証するのも興味深い。一例として、「戈」という字を部品としてできている漢字を見てみよう。

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*「字統」では、成(城・盛)は戈に、威・滅・減(咸)・歳はいずれも戉に従うとされているが、古代文字を見る限り戌に従っていると見える(歳を除く)。白川氏は戉に従うとされた根拠を書いておられないので、ここでは戌に従うものとした。また、歳(甲骨文tosikoukotu.png(1743 byte) )は、字統では戉と歩の会意文字とされているが、後世の字形から「歩」の部分を除けば戌の形になり、また説文解字も戌声とするので、ここでは同じく戌に従うものとした。

*蔑はMS明朝の書体では戌に従うと見えるが、他のフォントでは戍に従う形のものもある(HG教科書体betukyoukasyo.png(1549 byte) )。字統によれば、蔑は、戦いに勝った後に敵の巫女を伐り殺すことであり、甲骨文btukoukotu.png(1408 byte)はその様子を映している。となると「人が戈を担ぐ」とは無関係となり、むしろ「伐」と同様、戈に従うと考えるべきかもしれない。

*「戔」はもともと戈を突き合わせて「たたかう」意味であったが、(甲骨文senkoukotu.png(1737 byte) )、のちには「うすい、すくない」意味をあらわす部品(意符兼声符)として多くの漢字(残・浅・桟・銭・践・賤・箋・盞・餞など)に使われている。この間の意味の変化の原因については調査中である。


 部品は、現代日本の明朝体の漢字から取り上げ、漢字に詳しくない人でも検索できるようにする。この段階では意味のあるまとまりであるかどうかは考慮せず、いくつかの漢字に共通して用いられる「かたち」については、極力拾い上げるようにする。

 現在使われている部品が全く同じ形であっても、もとをただせば違う成り立ちのものが沢山あり、これらを区別しなければ漢字の成り立ちを誤る。このため、一つの形の部品を成り立ちごとに分けて説明する場合も生じる(「同じ形で別の部品」参照)。このことにより、今まで成り立ちが理解できなかった漢字(例えば「なぜ『若』や『夢』に『くさかんむり』がついているのか」)についても、納得のいく答えが得られるようにしたい。

 親字の範囲は常用漢字までを原則とする。それ以外の字(JIS第3・第4水準など)になると、形声文字が多くて面白みが低下するだろう。しかし部品として使われる漢字で常用漢字ではないもの、漢字ではないが部品であるものも、当然親字として掲げる必要がある。
 親字の配列については、常用漢字と、それ以外の部品等は分けて配列しないと混乱するだろう。常用漢字の部分は、普通の辞書のように部首別に配列してもいいだろう。部品として載せるものは画数順に掲載するしかないだろう。
 常用漢字の検索は、常用漢字表のとおりに一覧表を作れば足りるだろう。問題は部品の検索の方法である。例えば、「大漢和辞典デジタル版」(大修館書店)には部品からの検索機能があるが、対象となる部品は300足らずしかなく、筆者の構想ではもっと多くの部品が必要と思われるが、そうなってくると検索ページでその部品を探すのが面倒になってくる。ではどうすればよいか。
 後述するように、この字書はデジタル版で構想しているので、例えば部品としての「莫」について知りたい場合、常用漢字の「幕」などから部品の「莫」にリンクできるようにしておけば、問題はないであろう。考えてみれば、デジタル版では、内容の掲載順などに悩む必要はないのかもしれない。初めから順番に「読む」人のために、目次さえ備えておけばよいだろう。

 具体的に、「漢字分解字典」の本文をどのような記述にするか。現段階で考えているサンプルは次のとおりである。

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 左端が親字であり、次にその古い字体を掲げ、その成り立ちを解説する。次にその親字を部品とする漢字を列挙し、その字から、それを親字として掲げるページへのリンクを張る(紺色の線)。「東」のように、現代では同じ形になっているが本来は別の形の部品がある場合は、別形の部品と、それを使う字を列挙して、同様にリンクを張る。
 このように、リンクを活用することで、一つの部品から次々と関係する文字を調べることができ、「ネットサーフィン」ならぬ「漢字サーフィン」が楽しめるのではないか。

 しかしながら、今後実際に編纂していくには、いくつもの課題が待ち受けている。

1 字源について、誰の説に従うか
 本稿の記述は、白川静「字統」をベースとしたが、私自身、白川氏の説に納得のいかない部分もある。なるべく多くの学説を学び、自己の説を確立するのが本筋であろうが、浅学菲才の筆者には望むべくもない。「異説がある場合は併記する」ぐらいが限界であろうが、異説の数も多く、すべてを調べきることはできそうにない。
2 著作権の問題
 少々の引用なら出典を示せば問題ないだろうが、例えば全面的に字統を引き写すとなると著作権に抵触する恐れもある。世に出す方法にもよるだろうが、著作権者と協議が必要になるかもしれない。
3 形状の問題
 既に書いたとおり、リンク機能を使わなければこの字書を使う楽しさは味わえないので、紙ベースではなく、ウェブまたは電子ファイルで提供する必要があると思われる。またその方が、出版社の意向や自費出版の場合の費用などを気にする必要がないので、実現性は高まると思われる。ただしウェブの場合、サーバーを有料で借りる必要があるかもしれない(現在のこのサイトは、プロバイダー契約により無償で使用できているが、容量に限度がある)。
4 銭になるのか
 膨大な労力を必要とするだろうから、なにがしかの収入につながることが励みとなる。しかし、例えばウェブで課金するとなるとその方面の技術も必要となり、また契約してくれる人がどの程度いるのかも心もとない。「営利目的」ということになれば、著作権の問題もシビアなものになるだろう。無償で広く使っていただいたほうが励みになるかもしれない。
5 役に立つのか
 こういう形の漢字字書は今までになく、漢字の成り立ちを易しく理解するには最適の形式であると自負している。似たような部品を使う字を苦労して丸暗記するより、ずっと楽しく漢字を理解できるのではないか。そう思えばこそこの構想をまとめている。
 この字書の主たるユーザーとしては、小中学校で漢字を教える先生を想定している。生徒に漢字を教える前に、この字書で成り立ちを理解して、生徒にわかりやすく教えていただきたいと願っている。しかし現在の「詰め込み」と言われるほどの教育内容の過密さを筆者はよく知らず、独りよがりの理想を追求しているのかもしれない。

 あくまで現時点では「構想」であり、老後のライフワークとして、時間をかけて楽しみながら進めていきたいと思っている。いつ完成するか、あるいは完成しないのか、何もお約束はできませんが、もしご意見やアドバイスがあれば、是非お聞かせください
 


注1)「鬯」は、「鬱」という字のよく知られた暗記法、「リンカーンはアメリカンコーヒーを3杯飲んだ」(林缶ワ※コヒ彡)の「アメリカンコーヒー」にあたる部分だが、実はコーヒーではなく酒に関する字だというのは面白い偶然である。     戻る



参考・引用資料

新訂字統  普及版第5刷 白川静著、平凡社 2011年

大漢和辞典 デジタル版 ver.1.0 大修館書店 2018年

説文解字  後漢・許慎撰、100年:下記「説文解字注」より

説文解字注  清・段玉裁注、1815年:影印本第4次印刷 浙江古籍出版社 2010年

画像引用元

甲骨文、金文、小篆  漢字古今字資料庫(台湾・中央研究院ウェブサイト)