日本書紀での「襲」などの使用状況(固有名詞を除く) | 2015.4. 掲載 | |||
文字 | 古事記の該当箇所 | |||
襲 | 神武即位前紀己未年2月 | 皇軍、葛の網を結きて、(土蜘蛛を)掩襲ひ殺しつ | 打ち殺しつ | |
神武即位前紀 戊午年8月 | (兄猾が)即ち兵を起こして(神武を)襲はむとす | 待ち撃たむ | ||
崇神紀10年9月 | 各道を分りて、夫は山背より、婦は大坂より、共に入りて帝京を襲はむと欲す。 | 軍を興して待ち遮り、…相挑みき | ||
景行紀12年10月 | 因りて猛き卒を簡びて、兵の椎を授けて、山を穿ち草を排ひて、石室の土蜘蛛を襲ひて、稻葉の川上に破りて、悉に其の黨を殺す。 | |||
神功紀 49年3月 | 将に新羅を襲はむとす | |||
安康即位前紀 | 爰に太子、穴穗皇子を襲はむとして、密に兵を設けたまふ。 | 軽の太子畏みて…兵を備へ作りたまひき | ||
欽明紀5年3月 | 臣 嘗聞きき、新羅、春秋毎に、多く兵甲を聚めて、安羅と荷山を襲はむと欲す。或は聞きき、當に加羅を襲ふべしと。 | |||
欽明紀7年7月 | (良駒を)襲養ふこと年兼ぬ。 | |||
敏達紀4年是年 | 卜者に命して、海部王の家地と絲井王の家地を占ふ。卜へるに便ち襲吉し。 | |||
推古紀31年是年 | 唯將軍等、始めて任那に到りて議り、新羅を襲はむとす。 | |||
孝徳紀2年8月 | 其の王の名を假借りて伴造とし、其の祖の名に襲據りて臣・連とす。 | |||
天武即位前紀 | 乃ち近江を襲はむことを規る。 | |||
天武即位前紀 | 時に近江、山部王・蘇賀臣果安・巨勢臣比等に命せて、數萬の衆を率て、不破を襲はむとして、犬上川の濱に軍す。 | |||
天武即位前紀 | 乙未に、小隅亦進みて、莿萩野の營を襲はむとして急に到る。 | |||
天武即位前紀 | 是を以て、進み襲ふこと得ず。 | |||
圧 | 神武即位前紀 戊午年4月 | 若かじ、退き還りて弱きことを示して、~祇を禮び祭ひて、背に日~の威を負ひたてまつりて、影の隨に壓ひ躡みなむには。 | 日を背に負ひて撃たむ | |
神武即位前紀 戊午年8月 | (兄猾は)乃ち自機を蹈みて圧れ死ぬ | 押機に打たれて死にき | ||
神武即位前紀 戊午年11月 | 兄磯城忿りて曰はく、「天壓~至しつと聞きて、吾が慨憤みつつある時に、奈何ぞ烏鳥の若此惡しく鳴く」といひて。壓、此をば飫蒭と云ふ。(略)時に弟磯城惵然ぢて改容りて曰はく「臣、天壓~至りますと聞きて、旦夕に畏ぢ懼る。(略)」 | |||
允恭紀2年2月 | 且曰はく「壓乞、戸母、其の蘭一莖」といふ。壓乞、此をば異提と云ふ。戸母、此をば覩自と云ふ。 (岩波文庫注:イデは、人を誘う語。圧は、無理におさえつける意。圧乞は、強く人に物を乞う意か。) |
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掩 | 神武即位前紀己未年2月 | 皇軍、葛の網を結きて、(土蜘蛛を)掩襲ひ殺しつ | 打ち殺しつ | |
神武即位前紀己未年3月 | 然して後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。 | |||
雄略紀9年5月 | 逆節を掩ひ討ちて、四海を折衝く。 | |||
継体紀21年6月 | 磐井、火・豐、二つの國に掩ひ據りて、使修職らず。 | 天皇の命に従はずして、禮無きこと多かりき | ||
継体紀21年6月 | 筑紫の磐井、反き掩ひて、西の戎之地を有つ。 | |||
皇極紀 2年11月 | 蘇我臣入鹿、(中略)山背大兄王等を斑鳩に掩はしむ | |||
引用文献: | 日本書紀 第1刷 坂本太郎他校注 岩波文庫 1994年 | |||
古事記 34版 武田祐吉訳註 角川文庫 1970年 | ||||