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2015.1. 掲載
変な日本語
言葉は生き物です。新しい言葉が使われ始めたときは、そのころの大人たちが「変な言葉だ」と眉をひそめたとしても、みんなが普通に使うようになれば、誰も変だとは思わなくなり、とうとう辞書に載ったりするのです。
例えば、最近では、「全然大丈夫です」というような言い方があたりまえになってきました。でも、少し前までの常識では、「全然」の後には「~ない」という打ち消しの言葉がくることになっていて、「全然大丈夫」などという言い方は間違いとされていたのです。それが今では「俗語」などという注釈付きながら辞書にも載るようになってきました。この言い方は、今後も広まっていき、誰も変に思わなくなるかもしれません。
こうした変化を嘆かわしいと思う教養人も多いようです。でも、この例でいえば、もっと前には「全然」という言葉は「全く」と言うのと同じことで、明治時代の書物では、「生徒が全然悪いです」(夏目漱石「坊っちゃん」)などという使われ方をされていました。それがいつの間にか打ち消しのことば専用の修飾語になっていったのです。
明らかに間違った言葉が何人もの間で使われることもあります。みんなが間違って言っていると、そのうちそれが正しい言葉だと思われ、かえって元の正しい言い方が間違いだと思われてしまうことさえあります。
例えば、神社にお参りをするときに手を打ちますが、これを「柏手」(かしわで)と言います。これはいかにも由緒正しい言葉のようですが、もともとは「拍手」(はくしゅ)と言っていたのを、誰かが字を間違えて「柏手」とし、それが広まったものだと言います。今だと、拍手というと歌手などのステージを前にしているようで、神社では柏手の方がぴったりくるように思いますね。
こうなると、何が正しい言葉かという判断が難しくなってきます。結局は、その時々の多数の人たちが使っている言葉、使っても変だと思われることのない言葉が正しい言葉だと言うほかないようです。
でも、間違った言葉が多数派にならなければやはりただの間違いですし、間違いとまでは思われなくても、やはり「変な言葉だ」と思われてしまうでしょう。このような言葉を使うと、その人の常識を疑われますし、会社の文書などの場合は、その会社の信用にも関わってきます。
これから、私が見つけた「変な言葉」をいくつか紹介します。明らかな間違いも混じっていますが、私だけが変だと思っている言葉もあるかもしれません。皆さんは、どこが変なのか、考えてください。書いた人(しゃべった人)は、どれもちゃんとした大人のはずです。でも、あなたも気を付けていると、他にもたくさん変な言葉が見つかると思いますよ。
「この出口は20時から明朝5時まで閉鎖します。」(大阪市営地下鉄東梅田駅の、何か月も貼ってある貼り紙。1997年)
「明朝」というのは、今日という特定の日の次の朝のことですね。一般的に「次の日の朝」と言うときは、「翌朝」と言わなければなりません。
(名門ホテルの廃業の記事で)「建物は未使用のまま残される」(日経アーキテクチュア1999.5.31号)
これはちょっと解説が必要です。昔からあるホテルが、採算が取れなくて廃業するが、その建物は取りこわしもせず使用もせず残されるということです。では、それまで何十年も使われてきた建物のことを、「未使用のまま」と言えるのでしょうか。「未使用」という言葉は、漢文として読むと「未だ使用せず」ということになるので、やはり「一度も使われていない状態」を表すときに使うのが適切でしょう。この記事の場合は「使われないまま残される」と言うべきでしょう。
「年は争えない」(1999.6.6.朝日新聞日曜版)
これは、「年には勝てない」と「血は争えない」という二つの慣用句がごっちゃになったものと思われます。こういう「ごちゃまぜ」は、格好をつけて作文しようとするとよく起こることです。
「イトカワは衝突した天体の破片が寄せ集まってできた・・・」(2014.6.24.朝日新聞)
これも、「寄り集まって」(自動詞)と「寄せ集めて」(他動詞)がまざったもので、この場合は「寄り集まって」が正解です。
「旧図書館では、蔵書が収まりきれなくなった」(日経アーキテクチュア 2006-11-27)
これも上と同様の、他動詞と自動詞の問題ですが、ちょっと複雑です。「別にいいじゃないか」と思われるかもしれませんが、やっぱり変なのです。
この文の主語は「蔵書」で、述語が「収まりきれなくなった」であることは明らかです。「収まりきれなくなった」は、「収まりきることができなくなった」ということです。つまり、「蔵書」が、自ら旧図書館に収まりきろうと思っても、それができなくなった、ということになります。何か「蔵書」が意思を持っているように感じられるので、この文はおかしい、と思われるのです。
主語を変え、述語も他動詞に変えて、「旧図書館では、蔵書を収めきれなくなった」とすれば、このような変な感じはなくなります。この場合の主語は、図書館の関係者ということになりますが、あえて言う必要はないので省略しています。ちなみに、英語の場合はこんなときに”they”という主語を使いますが、日本語では省略するのが普通です。
「閉まっているドアから乗車すると大変危険です」(東京・営団地下鉄のアナウンス 2000年)
初めて聞いたときは、閉まっているドアからどうやって乗るのかな、と思いました。駅員さんが言いたかったのは、ドアが閉まるときに無理に乗っては危険です、ということのようです。それなら、「閉まりかけている…」と言った方がいいでしょう。
「走っている」という場合は、まさに足を動かして走っている動作を表しますが、「閉まっている」という場合は、ドアが閉じている状態を表すのが普通ですね。英語なら ”closing”で「閉まりかけている」、”closed” で「閉まった状態の」という区別がつくのですが、日本語の場合は、動詞によっては言い方を変えないといけない場合があります。
「まもなく、当駅どまりが参ります」(同じく営団地下鉄のアナウンス 2000年)
「当駅どまり」って何でしょう。どんな物が来るのでしょう。といっても電車に決まってますね。だったらなぜ、「当駅どまりの電車」と言わないのでしょう。
多分、この会社の人たちは、普段から、その駅が終着駅となる電車を「当駅どまり」と呼んでいたのでしょう。会社の中ではそれで通用するものだから、お客さんたちにもそれで通用すると思ったのでしょう。確かに「意味不明」という訳ではありませんが、考えてみると変な言葉です。
「賃金不払い残業は、明確な労働基準法違反です」(2003.5「連合」のポスター)
「明確」とは、「明らかで確実なこと。はっきりしていること」と辞書(「広辞苑」第6版 岩波書店)にあります。この説明をあてはめるだけでは、上の文章は間違っていないように思われます。でも、普通、明確という言葉は、「明確な指示」というように、よい意味(肯定的)に使われるものです。上の例の場合は、違反が明らかなのですから、明確というのはふさわしくありません。
こんな時に使う言葉としては、「明白」があります。時代劇などでは、これを強調して、「貴殿の罪状は明々白々」と言ったりします。同じ辞書では、「明白」は「明らかで疑う余地のないこと。」となっており、「明確」と区別がつきにくいのですが、このような間違いを防ぐには、本をたくさん読んで、言語感覚を磨くしかないのかもしれません。
「スヌーピーの絵の赤いハンカチの落し物が届いています。落とした人は、本部席まで取りに来ましょう」(2003.9.28 兵庫県西宮市立某小学校の運動会での放送)
「~しましょう」という言い方は、本来は「私が行きましょう」というように、自分の意思を表明するときの言葉でした。それが、「私」が「あなた」(または「あなた方」)と一緒に何かをしたいときに、誘うための言葉としても使われるようになりました。この場合は、英語の”Let’s ~”と同じ意味ですが、生い立ちは違います。”Let’s”は”Let us”の短縮形で、直訳すれば「私たちに~させなさい」ということになります。
さて、この「~しましょう」が、さらに使い道を広げて、人に何かをさせるときにも使われるようになりました。本来は「~しなさい」と言っていた場合でも、それでは命令しているようできつく感じられるような場合、やわらかくするために「~しましょう」が使われるようになったようです。特に、大勢の人に呼びかける場合や、おとながよその子どもに指示する場合などによく使われます。小学生の教科書にも、「次の計算をしましょう」などと書かれていると思います。
でも、このように人に何かをしてもらいたいときでも、「~しましょう」言うと、言葉の裏に「私もするからあなたもしてください」という意味が隠れているように思います。これは、上に書いた「~しましょう」という言葉の生い立ちによるものでしょう。
ここで、はじめの運動会の放送を考えて見ましょう。ハンカチを落としたのは、だれだか分かりませんね。「私とあなた」ではなく、「大勢の人」でもない「だれか一人」のために、取りに来るように伝えているわけです。こんなときに、「~しましょう」と言うのはあまり聞いたことがありません。変だ、と感じる人が多いと思います。
はじめに書いたように言葉は生き物です。「~しましょう」という言葉も、さらに意味を広げて、運動会の放送も変だと感じなくなる時代が来るかもしれません。でも、今のところはやはり変だし、先生が率先して言葉の使い方を変えていくのはどうかと思います。
「寺社仏閣」(2008.5.14付け 大阪府メールマガジン「維新通信」知事コメント)
これは明らかな間違いです。「仏閣」というのは仏様のための建物、つまり寺のことです。だから寺と仏閣がかぶっているということになります。寺と神社のことをまとめて言う場合、正しくは「神社仏閣」または「寺社」です。
「災害が来ても大丈夫!」(2008.12 「将来ビジョン・大阪」(大阪府HP)
災害が来るということは、人身や財産に被害が生じることになります。大丈夫と言っている場合ではないでしょう。
このコピーを考えた人は、「地震や台風が来ても被害が出ない、強い街をつくろう」と言いたかったのだと思います。「地震が来ても大丈夫」や「台風が来ても大丈夫」なら文章としては問題ありませんが(実際には、どんな地震が来ても大丈夫な街などあり得ないので、そんな街を目指すのは行政の方向性としては問題があると思いますが)、地震や台風、津波などをひっくるめた言葉として「災害」を使ったところに問題があります。地震などは自然現象ですが、災害の「災」はわざわい、「害」は損ねるという意味で、人間社会に被害が出ている状況をいう言葉です。
ではどう言えばよいか。自然現象という意味では「天変地異」ぐらいしか思いつきませんが、これではいかにも時代がかっています。言葉の上でも、行政目標としても妥当なものとして、「災害を最小限にくいとめられる街に!」ではどうでしょうか。
「わたしども日本人」(2008.9.29 麻生首相所信表明演説)
「わたしども」というのはよく使われる言葉ですが、他の人たちに対して、「自分たち」のことをへりくだって言うのに使います。他の会社の人に向かって、自分の会社のことを言ったりするときによく使います。では、「わたしども日本人」と言った場合、誰が誰に対してへりくだっているのでしょうか。
このフレーズが使える場面は、日本人が外国人に応対しているときだけだと思います。でも、所信表明演説というのは、首相が、国民の代表である議員に対して行うもので、双方とも日本人です。「わたしども政府の人間」というのであればわかりますが、「日本人」全体を道連れにしてへりくだる必要はありません。
多分、「わたしたち」というよりも謙虚な態度に見えると思って使った言葉でしょうが、へりくだるのは自分たちだけにしたほうが賢明です。
「スイッチをつける、スイッチを消す」(2009.5.13 NHK教育テレビ「3か月トピック英語」字幕。”turn it on”,”turn it off”の訳語。
普通の感覚では、スイッチは「入れたり、切ったり」するものでしょう。その結果、灯りが「ついたり、消えたり」するのです。みだしの表現では、電気工事でスイッチを取り付けたり、魔法でスイッチを消し去ったりするみたいです。
教育テレビの、それも語学の番組がこんなことでは、変な日本語がまかり通るのを応援しているようなものです。
「甚だ如何の事と被存申候(はなはだ いかんのことと ぞんじられもうしそうろう)」
(原本翻刻「南方二書」 南方熊楠顕彰会学術部編 2006年)
書いた人は南方熊楠。植物学・民俗学など多くの分野で活躍した、博覧強記の大学者です。1911年(明治44年)に、自然保護に協力してもらうために別の学者に送った手紙の中に、この文を見つけました。上にあげた本には、活字だけでなく、手紙そのものの写真も掲載されているので、南方先生本人が間違えたことが確認できました。もっとも、手紙の末尾に、「時間がなくて読み返しができません。誤字があったらお許しを」という意味の言葉が書かれており、読み返されていたら私の「発見」もなかったことでしょう。
正しくは、「甚だ遺憾のことと~」です。他の部分では「遺憾」という語も使っているのに、なぜか1か所だけ、「如何」と書いてしまったようです。
どちらも「いかん」と読むので混同しやすく、最近はワープロの変換ミスでよく見かける間違いですが、明治の大学者でも間違えていたとは思っていませんでした。
如何は「いかに」が変化した訓読みで、「心境は如何」(どのようか)、「理由の如何を問わず」(どうなのか)など、やや古めかしい言い方に使われます。
遺憾は音読みで、憾(うらみ)を遺(のこ)す、つまり「残念」「心残り」というのが本来の意味ですが、最近では、相手を非難したり、ごめんなさいという代わりに使ったりと、責任の所在をあいまいにする使い方が多いようです。
ちなみに、「実力を遺憾なく発揮する」と書くべきときに、「如何なく~」と間違えている文章をよく見かけます。どちらも今ではあまり使わない語なので、間違えて変換されても気づかないのでしょう。機械は自動的に漢字に変換してくれますが、その結果が正しいかどうか判断するのは人間です。自分で判断できないような言葉は、使わない方が無難ですね。
皆さんはどこがどう変なのか分かりましたか。「当駅どまり」など、変とは言えないと思われるものもあるかと思いますが、私はやはり正しくない言葉だと思います。でも、なんとも思わない人が多数派なのでしょうか。
最近気になるのは、「予想」という言葉の使われ方です。立派な考古学者が、「この遺跡で人々はこのように暮らしていたと予想されます」と言ったりします。予想というのはまだ起こっていないことを「予め(あらかじめ)」想像することで、過去のことは「想像する」と言えばいいことです。
やはり、言葉は生き物といっても、今あげたような変な言葉が、大きな顔で定着するのは、面白くないことだと、今の私は思います。しかし、こう思う人はだんだん減っていくでしょう。そして、今の私が変だと思う言葉を変だと思わない人々にとっても、やっぱり「変だ」と思ってしまうような新しい言葉がまた生まれます。こうして言葉は「進化」していくのでしょう。