漢字教育士ひろりんの書斎日本語の本棚
2015.1.   掲載
2017.4. 一部追記

 壁と塀

 ネットのニュースで、このような見出しを見つけた。
 「東本願寺別邸の壁に落書き容疑 米国籍の男を現行犯逮捕」(2014年4月27日23時52分、朝日新聞デジタル)
 記事の中でも、「京都・東本願寺の別邸で国の名勝に指定されている渉成(しょうせい)園の外壁」と書かれているが、もう1か所では同じものについて「土塀」と記している。

 掲載されている写真を見ると、どう見ても土でできた「塀」である。渉成園は名前のとおり庭園であり、その外周を取り囲んでいる塀の外側に落書きされたという事件を伝える記事である。それなのになぜ「壁」と書かれたのか。

 壁と塀の違いなど、いまさら説明するまでもないと思うが、広辞苑(第6版:岩波書店)では次のとおりである。
  壁:家の四方を囲い、または室と室の隔てとするもの。(以下略)
  塀:家や敷地などの境界とするかこい。(以下略)

 すなわち、壁とは屋内と屋外を区切るもの、または室同士を隔てるもの(間仕切壁)であり、庭などの空地を隔てて敷地を囲むものを塀(または垣、かこい)という。

 かつて筆者の商売道具であった「建築基準法」の「建築物」の定義(第2条第1号)にはこうある。
 土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくはを有するもの(これに類する構造のものを含む。)、これに付属する門若しくは、〈中略〉をいい、建築設備を含むものとする。
 もちろんこの法律に壁や塀の定義はないが、上記の記事のように塀のことを壁と言ったりしては、建築物の定義も何が何だかわからなくなってしまう。

 朝日新聞は、なぜこんな初歩的な間違いを犯したのか。気になって、翌28日付けの各紙を調べてみた(いずれも大阪本社版朝刊)。
   ・朝日 見出し:「壁」、記事:「外壁」「土塀」
   ・読売 見出し:「外壁」、記事:「外壁」2か所
   ・毎日 見出し:「壁」、記事:「外壁」3か所
   ・産経 見出し:「壁」、記事:「外壁」2か所
   ・日経 記事なし
 ご覧のとおり、各紙とも「壁」または「外壁」で、「塀」と書いているのは上述の朝日の1か所のみである。これはどうしたことか。

 以下は推測である。が、多分当たっているだろう。
 京都府警の担当者が、事件を報道陣に発表する際に、壁あるいは外壁と表現した。たまたま、その担当者が、壁と塀の区別がつかないほど粗雑な言語感覚の持ち主だったのだろう。1)そして各紙の記者が発表どおりに記事を作った。

 経緯が上記のとおりだったとしても、府警の担当者はあまり責められない。言語表現を仕事としているわけではないからである。むしろ、発表を受けた新聞記者が、原文を精査することなくそのまま記事にしたことが問題である。「記者」というぐらいだから、文章を書くプロとして、日本語表現にも責任を持ってもらいたい。粗雑な情報を受け取っても、それを練り上げて上質な情報として読者に提供することが、記者の使命であると考える。


余談
 塀の落書きについて、既視感があったので調べてみると、2013年11月26日に、法隆寺の重要文化財である「西院大垣」に落書きが彫られていたとの記事があった。こちらは各社とも「塀」と表現しており、警察の発表も適切だったのだろう。


【2017.4.1.追記】
 米国のトランプ大統領が「メキシコ国境に『fence じゃなくてwall』を作る」と叫んでいるのを聞いて、本稿に追記が必要だと感じた。
 この"wall"は各メディアとも「壁」と訳していて、私も違和感を持たない。
 wallを英和辞典で引くと、本稿でいう「壁」のほかに、「(石・煉瓦などの)塀、城壁、(知的・社会的な)隔て」などの意味が掲げられている。そういえば中国の万里の長城のことも"the Great Wall of China"というし、マザーグースのハンプティ・ダンプティが腰かけているwallも、挿絵では町を取り巻く城壁のようである。
 なぜこのような"wall"を壁と呼んでも違和感を生じないか。一つには、城壁・障壁・牆壁などの語に「壁」の字が使われていることがあるだろう。これらは漢語であり、「かべ」という日本語と正確に語意が一致する保証はないが、漢字で壁と書くことから、これらの構造物を「かべ」と呼ぶのに慣れてきたのかもしれない。
 ちなみに、豊臣秀吉が京都の町の周りに築いたものは「お土居」と呼ばれた。この構造物は当時の語感では「かべ」と呼ぶようなものではなかったのだろう。
 本稿でいう「塀」については、これを和英辞典で引いても"wall"か"fence"である。つまり、塀そのものに一対一で対応する英単語はない。"fence"をまた英和辞典で調べると、「木材・金属などで作った柵」とある。したがって、本稿のような土を固めて作った塀は"wall"と呼ぶしかない。念のために英語版の京都のガイドブックを調べると、たとえば龍安寺石庭の「油土塀」は"earthen wall"と書かれている(Judith Clancy著 ”KYOTO GARDENS” TUTTLE出版 93ページ)。
 土でできた塀は英語で"wall"⇒ "wall"は日本語に直訳すれば「壁」⇒したがって塀も壁 という連想で塀のことを壁と呼ぶ日本人が増えているとしたら、日本語にとって悲しむべき事態である。


注1)【2017.4.1.追記】「建築大辞典」(第2版 1993年、彰国社)で「かべ」を調べると、3番目の意味として、「岡山・福岡・大分・宮崎・鹿児島各県の民家において垣根または塀」とあった。京都府警の担当者は、たまたまこれらの県の出身者だったのかもしれない。     戻る