月夜見 〜 TUKUYOMI 〜
       ※月夜見・月読(つくよみ):月の神・月 (広辞苑参照)



朝から降り続いていた雨が、ようやく上がった。
友枝町をあげてのお祭り…なでしこ祭…の本番を明日に控え
胸をなでおろして床に入った者も多いだろう。
いや、期待と興奮に胸を躍らせ、なかなか寝つけずにいるのかもしれない。

あふれる撫子の花、華やかな飾りつけ、点された色とりどりの電飾。
友枝町の中心である商店街は、明日の準備のために、まだにぎわっている。

しかし、友枝町の端に位置する大邸宅…大道寺邸…は、手入れの行き届いた庭園に囲まれ
しんと静まりかえっていた。
広大な敷地に、瀟洒な白亜の邸宅。
この日本離れした豪邸に、一週間の予定で滞在している異国の少年…李 小狼は
床にも入らず途切れた雨雲から顔を見せる月を、じっと眺めていた。

彼の心にあるのは、期待でも興奮でもなく、決意と、そして痛み。

………他に方法が無いのなら…。
     そうしなければ、ならないのなら。

自らに言い聞かせるように、繰り返す。
しかし、その度に震える少女の声が、彼の心を揺さぶった。

『最後の審判の時、≪好き≫っていう気持ちがなくなった世界をみたの。
 …すごく、さみしい世界だった…。もう、あんなのいやだ。
 あんな悲しいのは、絶対いやだよ…』

胸を、太い針で突き刺されたような痛みに、じっと耐える。
昼間、雨の向こうに走り去っていった小さな後姿を、ただ、見送った時のように。
追うことは、できなかった。電話をかけることも。
恐らくは、明日も…。視線を合わせることさえ、出来るかどうか自信がない。

………それでも…。
     おれは、さくらの傍から離れまい。≪その瞬間≫までは、けっして。

だが、さくらがカードを封印する≪その瞬間≫に、果たして自分は存在していられる
のだろうか?
どれだけ想う心が強くとも、小狼は己の魔力(ちから)を過信してはいなかった。
たった1枚で、クロウカード52枚に匹敵する魔力を持つというカードを相手に
自信など持てよう筈もない。

いや、それよりも。
想いが消える、ということは、いちばん大事なひとの記憶が、全て消えてしまうという
ことなのか?
記憶はそのままに、そのひとを想う時の、この気持ちだけが抜け落ちてしまうのか?
そうなってしまった時、想いを失った者は…。
自分は、自分でいられるのか…?

強くなりたいと、小狼は思い続けていた。魔力でも、武術でも。
周囲の期待に応えるために。また、自分自身のために。
だが今は、誰よりも大事なひとのために、この胸の痛みに負けない自信(ちから)が
欲しかった。
彼が床にも着かず、客用寝室のバルコニーで月の光を浴びているのは、自らの源と
なる魔力を感じていたかったからかもしれない。


…ふと、鳥の羽ばたきが、聞こえたような気がした。


青白い月に、小さな影が浮かぶ。
白い布に落とされた一滴の墨のように、見る見るうちに拡がっていく影は、やがて
≪翼を持った人≫の形を成した。
人目を避けるために、かなりの高さを飛んで来たのだろう。また、≪人間≫ではなく、
≪生物≫ですらない彼には、大道寺邸を護る数々のセキュリティも役には立たない。
小狼の視界から月を覆い尽くして、翼ある者はふわりとバルコニーに降り立った。

「月(ユエ)…」

小狼は、呟いた。
クロウカード…今は、さくらカードか…の、守護者。
白い翼と銀の髪を持つ、美しい青年の姿をした…人ではない、存在。
水と風を司り、陰に属する。月をシンボルとするに相応しい、その怜悧な面(おもて)には、
何の表情も浮かんではいない。
しかし、紫水晶(アメジスト)を思わせる眸から放たれる視線は、鋭く少年を一瞥した。

「≪無≫のカードのことは、主から聞いている。」

何の前置きも無く、ユエは言った。

「だが、今日ここに来たのは、そのことではない」

その双眸が、鋭さを増して小狼を射る。

「何故、泣かせた?」

昼間、さくらがユエに話したのは、クロウの生まれ変わりである柊沢エリオルからの
電話の内容。
52枚のクロウカードの、プラスの力とのバランスをとるために創られた、マイナスの力。
≪無≫のカード。
友枝町を住民もろとも消し去ろうとしているその力を再び封印し、さくらカードにする
ためには、強い魔力を持つ者の≪一番大事な想い≫を犠牲にしなければならないと。

『なぜ、おまえばかりつらい目に合うんだ…』

公園の樹木の葉陰で雨をしのぎながら、そう憤りを口にしたユエに、さくらは言った。

『私だけじゃないです。みんな、同じです。
 …きっと、小狼くんだって…』

雨音に消え入るような、小さな呟き。
数日前に香港から戻ってきた、クロウの血を引く少年。その名が出たときに、ユエは
主の涙の本当の理由を悟った。

『何か方法がある筈だ。一番大事な想いをなくさずにすむ方法が。
 おまえなら、できる。大丈夫だ』
 
『…ありがとう…』

さくらは微笑んだが、それはユエの目には痛々しく映った。
その言葉は、きっとこの少年の口から聞きたかったことなのだろう。
それが判らない筈は無いのに、そうしなかった少年を彼は問いただしに来たのだ。
我ながら、いらぬおせっかいだと思う。
だが、雪兎は主と約束したのだ。

………もし、その人がさくらちゃんを泣かせたら、ぼくがやっつけるからね。


小狼は、唇を噛んで視線を落としたまま、何も言わない。
主を泣かせたことが、この少年の本意でないことも、判っている。
雪兎の目を通し、彼もまたこの少年を、ずっと見ていたのだから。

この少年の優しさは、主の兄である桃矢に似ている。
不器用で、言葉が足らず、誤解されやすい。
そして、大事な者を悲しませないために、何も言わずに自らを犠牲にしようとするのだ。
雪兎を救うために、自らの魔力を差し出したように…。

ふと、ユエは思い当たった。
主は、なんと言った?クロウの生まれ変わりは、なんと言ったと?
≪無≫のカードを封印するために、引き換えにしなければならないもの、それは…。

………魔力の強い者の、そのとき一番大事にしている、想い…。

「おまえ、まさか…?」

はっと、小狼は顔を上げた。
淡い紫の眸と、鳶色の眸が、静寂を隔ててぶつかり合う。
ユエは、己の考えが誤ってはいないことを見て取った。

「…主は……、喜ばないぞ」

本当は、主が≪悲しむ≫と言いかけたのだが、少年が苦しむのが判っていたので
言葉を選んだ。

「それでも…!」

小狼は言った。

「おれは、あいつを守りたい…!!」

まっすぐな、目だった。

どうしてなのだろう。主も、この少年も、ユエをとても優しくさせる。
とても…守ってやりたくさせる。
こんな気持ちは、以前には感じたことはなかった。

クロウといた頃は…安心できて、甘えて。
ずっと一緒にいたかった。彼がこの世を去ったとき、もうニ度と目覚めなくていいと思った。
…けれど。

何故、クロウがあの少女を新たな主に選んだのか。
にもかかわらず何故、カードの捕獲者が二人いたのか。今なら、判る。
いや、もうずっと以前から、判っていた…。

ユエは、静かに言った。

「主を守りたいのは、おまえだけではない。私も、ケルベロスも、カード達も。
 皆、彼女を大事に思っている」

………そして、おまえのことも…。

心の中で、呟く。

………おまえは、主の≪一番大事な者≫だから…。

その言葉が、主の口から少年に届けられることを願って。

「…え…?」

小狼は、首を傾げるようにユエを見た。
“聞こえた”というわけではないが、何か感じたのだろう。同じ月の魔力を持つせいか。
不思議そうに目を瞠ったその顔は、月の光の中であどけなく、幼く見えた。

しかし次の瞬間には、いつもの表情(かお)に戻る。
強い意志を秘めた、まっすぐな眸。
己のすべてで、一番大事なものを守ろうとする者の顔に。

………だからこそ……。

ふわりと翼をはばたかせ、ユエは飛び立った。

「おまえたちなら…大丈夫だ」



翼ある者が去ったバルコニーには、月の光を弾いてきらめく白い羽毛が舞っていた。
さくらの≪翔(フライ)≫と同様に、魔力によって創られた羽根は、バルコニーの手すりに
触れた瞬間に消えてしまう。
まるで雪のように、儚く。

小狼は手を伸ばし、そのひとひらを掬い取った。
月の魔力のせいか、羽毛は彼の手の中で銀の光を放ちつつ、その姿を留める。

柔らかな光を両手に押し包み、小狼は呟いた。
今、ユエが言った言葉。
少女の、無敵の呪文。

欠けてはまた満ちる、月のように。
たとえ姿は見えなくとも、宙(そら)に在りつづける月のように。

もし、この想いが消えてしまっても
きっと、また。

必ず。


「…絶対に、大丈夫だ…」


                                   − 終 −


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忘れもしない2000年夏。
イマイチな舞台演劇を見た後の気分直しにと、ぶらりと入った映画館でたまたま選んだのが
「封印されたカ−ド」でした。
それまでに原作コミックスは読んでいて面白いと思ってはいたものの、マイナ−嗜好の自分が
こんなメジャ−な作品に転がり落ちるとは思いもしませんでした。
…人生ってわからないものです。
その数ヵ月後。このテキストを皮切りに現在に至る投稿マニア生活が始まりました。(汗)

さて、「封印されたカ−ド」三連作の一つ目。
小狼君とユエさん。
私はこの取り合わせが好きなようです。
同じ月の力を源とする二人には、何処か通じるところがあるように思えるからかもしれません。

(初出00.11 「友枝小学校へようこそ!」様は、既に閉鎖しておられます。)