奇跡の魔法 〜 キセキ ノ チカラ 〜



「…でも、さくらさん…さくらさん!?」

エリオルの緊迫した声に、歌帆は尋ねた。

「切れたの?」

エリオルは、静かに受話器を置いた。
その顔はカーテンの引かれた部屋の中で、暗く沈んでいる。

「ああ…。僕に気付いて、電話線を無くした様だ。思った以上の力だ…」

その重い口調に、彼女は思わず問うた。

「この結末がどうなるか、知っているの?エリオル…」

「…いいや…」

目の前の少年は指を組み、頭を椅子にもたせかけた。
気配を消しつつ、魔力で日本にいるさくらと電話を繋いだのだ。
少し、疲れているのだろう。

ここは、ロンドン郊外にあるエリオルの屋敷。
友枝町にあったそれよりも更に古く、重々しい石造りの邸宅は、やはり生前の
クロウ・リードの住まいであった。
午前10時の夏の庭には花々が咲き乱れ、明るい日差しに溢れているというのに、
光を遮られた居間はしんと静まりかえっている。

やがてエリオルは、ゆっくりとその身を起こした。

「ルビー、すまないが旅行の支度を」

「エリオル、日本に行くの?」

「今からでは、行っても間に合わないのでは?」

エリオルの守護者、秋月 奈久留ことルビー・ムーンと、スッピーことスピネル・サン。
彼等もまた、主のただならぬ様子に不安気な目を向けている。

「かもしれない。だが、行かなくては。
 …これは、私に責任のあることなのだから」

エリオルを引き止めることは出来ないと、その場の誰もが知っていた。
だが、彼が日本で目にするものは…?
消滅した友枝町か、それとも≪いちばん大事な想い≫を失ったさくらの姿か…。

「私も行くわ」

ふいに、重い沈黙が破られた。まるで、ほんのそこまで出かけるかのような、
さりげない口調。

「歌帆…」

「一緒に行くわ、エリオル」

もう一度、にっこりと微笑んで言う歌帆に、エリオルは微笑を返し、肯いた。


   * * *


今は、夏のバカンスだ。急に、日本までの飛行機のチケットを確保することは難しい。
それでもその日の夕方には、キャンセル待ちの順番が回ってきた。
しかし、彼等三人とバスケットに隠れた一匹が搭乗手続きをすませた頃、異変は始まった。

「…霧…?」

≪霧の都ロンドン≫と呼ばれるものの、夏に霧が発生することなど滅多にない。
ましてや、飛行機が飛べなくなるような濃霧になど。

「…これも、≪無≫の力なの?」

「おそらく…。電話から、私の気配を捕らえたのだろう。どんどん力が増している。
 さくらさんは、かなりの数のカードを奪われてしまったようだ」
 
そう応えるエリオルの顔には、血の気がなかった。

そのまま、彼等はヒースロー空港で24時間以上も足止めされたままだ。
さくらとの連絡は、全くとれない。

今、イギリスは夜の9時。サマータイムで時差が8時間ある日本では、既に日付が
変わり、夜が明けようとしている頃だろう。

「あ−っ、もう!イライラするなあ!!」

朝からずっと空港の待合室に閉じ込められ、奈久留はついにしびれを切らしたようだ。

「わたしちょっと、様子みてくるね!!」

言い残すと、可愛いチェック柄のワンピースのスカートを翻し、カウンターの方へ
行ってしまう。
陽気で、にぎやかなことの好きな奈久留には、この張り詰めた空気が耐えられない
のだろう。
しかし、走り去る瞬間に、ちらりと歌帆にすがるような視線を向けた。
自分では、エリオルを力づけることは出来ないことを。それが出来るのは、たった一人
であることを。奈久留…ルビー・ムーンは、知っていた。

「…エリオル…」

歌帆は、そっと隣に座る少年に声をかける。
昨日は空港近くのホテルに泊まったが、ほとんど眠ってはいないようだ。
食事もロクに摂ってはいない。
友枝町のことも、さくらのことも心配だが、歌帆にはまずエリオルのことが心配で
ならなかった。

不世出の魔術師。その生まれ変わりに相応しい魔力と知識の持ち主。
魔力によって成長を止めていたという彼自身の実際の年齢は判らないが、少なくとも今、
その身体は子供だ。
中国風の白いツーピースの彼女と、きっちりしたサマーウールのスーツを着たエリオル。
二人は、他人の目には似ていない姉弟のように映るだろう。

彼女の気遣わし気な視線を感じ、エリオルは顔を上げる。
しかし、その口からは子供のものではない、苦い自嘲の言葉が漏れた。

「予想できないことが起こるのは、楽しいことだと思っていました。自惚れですね…。
 今、僕はさくらさんに何もしてあげられないことが、こんなにも苦しい」

歌帆は、知っている。
エリオルにとって…いや、エリオルの中のクロウ・リードにとって、木之本 桜は
≪娘≫なのだ。
生前のクロウ・リードが得ることが出来なかった、家族。
血の替わりに、魔力とカードで繋がれた絆。
それが、今、さくらを苦しめている。
エリオルにとっては、やり切れない思いだろう。

「僕が創ったカードのせいで…」

「違うわ」

歌帆は、静かに言った。エリオルが、言葉を止める。

「あなたじゃないわ。創ったのは、クロウ・リードよ」

淡い褐色の眸が金色の光を帯びて、真っ直ぐにエリオルを見つめる。

「あなたは、確かにクロウ・リードの記憶を持った、彼の生まれ変わりだわ。
 でも、それでも、あなたはクロウ・リードではないわ」
 
幾度となく、繰り返される言葉。
そう、エリオル自身も口にしたことだ。彼の中にクロウを求めるユエのために。
柊沢エリオルは、クロウ・リードではない、と。

「クロウ・リードから受け継いだ記憶が完全ではないことも、
 今、友枝町で起こっていることも、あなたのせいじゃない」
 
誰よりも、クロウ・リードから逃れたかったのはエリオル自身。
だから、柊沢エリオルだけの守護者を創った。自分とクロウを区切るために。
クロウが彼の記憶に残した遺言を果たしたのも、早くそれから解放されたかったから。

それなのに、ふと気がつくとエリオルとクロウが混同する。
たとえば、李家のあの少年を≪私の血縁≫と呼ぶように。
さくらに対してのそれと同じに、少年…李 小狼にもまた、自分との繋がりを求めている。
だからこそ、クロウの予想に反する筈の、≪娘≫と≪血縁≫の間に生まれた想いを
見守ったのだ。

だがそれは、エリオル自身の孤独から生まれた願いでもあることを、
彼は気づいているのだろうか…?

だから、彼女は繰り返す。何度でも何度でも。

「あなたは、エリオルよ…。私の≪いちばん好きな人≫よ」

そう彼に告げた日のことを覚えている。
彼は、とっくに気づいていた筈だ。
だけど、やっぱりどきどきした。

ずっと知っていた。ずっと判っていた。
いつか出会う、≪いちばんの人≫。

初めて出会った瞬間に、判った。あなただと。
それでもやっぱり、どきどきした。

「さくらちゃんは、きっと大丈夫」

微笑を浮かべ、言った。
その確信を込めた言葉に、エリオルが不思議そうに目で問う。
晴れた夜の空のような、澄んだ藍色。彼女の、いちばん好きな色。

「だって、李君が一緒にいるんでしょう?
 今、さくらちゃんは、いちばん好きな人と一緒にいるから。
 それは女の子にとって、何よりも凄い魔法(ちから)になるから」
 
あの子達に、初めて会った日のことも覚えている。
ふんわりした、かわいい女の子と、怖い顔でこちらを睨む、凛々しい男の子。
その日、エリオルに手紙を書いた。

『クロウ・リードの予想とは、違うことが起こりそうよ。でも、それが何かはヒミツ。
 あなたが自分の目で確かめてね』
 
この世の中に、偶然なんてない。
そうなりたい気持ち、なろうとする気持ちが未来を動かす。

好きという気持ち。大切なひとを守りたいという気持ち。

だから、≪今≫が未来を決める。偶然じゃない、必然を創る。
いつでも、≪今≫が未来を創る。

「…だから、ぜったい、大丈夫だよ」

さくらの、無敵の呪文。
だいじょうぶって思うから、きっと未来は大丈夫。
信じる心が力をくれる。
冷たい小さな手を、両手でつつみ、ぎゅうっと握る。

この魔法(ちから)、あなたに届け。


……その時…。
遥か東の国では、昇る朝日の最初の光が、消えかけた街を照らそうとしていた…。


エリオルが、はっと何かに気づいたように顔を上げる。

「魔力の気配が…消えた」

その言葉が終らぬうちに、まるで溶けるように霧が晴れてゆく。
≪無≫のカードの封印に成功したのだろう。
安堵と、それ以上の不安にエリオルの胸は絞めつけられた。

「さくらさん…」

その時、空港のガラス窓に青い式服を着た、髪を伸ばした男の姿が映った。
彼の前世の姿。
まるで、鏡の中の己の姿を見るような、既視感。
立ちすくむエリオルに向かって、彼はにっこりと微笑むと、頭を下げた。

『申し訳ありませんでした』

そう、謝っているかのように。

ふいに、エリオルの脳裏にさくらの輝くような笑顔が映し出された。
エリオルは、思い出した。クロウ・リードは知っていたのだ。
さくらなら≪無≫のカードを…あの子を、≪孤独≫から救うことが出来ると。
それでも、さくらの≪大事な想い≫は失われず、その笑顔は損なわれないということも。

だが、それがどのようにしてなのかまでは、神ならぬクロウ・リードには判らなかった。
だからこそ、無用な混乱を招かないようにと来世の自分に対し、カードと共に記憶の
封印をおこなった。
…浮世離れしたクロウは、そのことで来世の自分がどんなに苦しむか、
全く思い至らなかったのだ…。

「…まったく、我ながら…」

エリオルは苦笑を浮かべた。

「やっかいな性格ですね」

「そうね。それでも、大好きよ」

エリオルは顔を上げ、彼の≪いちばん大事なひと≫に優しく微笑んだ。

「私もですよ、歌帆」


奈久留が、こちらに向かって走って来た。

「エリオル――、飛行機、飛べるって――!」

「ああ、判った」

手続きのために、カウンターへ向かうエリオル。
それを見送る歌帆の傍らに置かれたバスケットから、ぴょこんとスピネルが顔を覗かせた。

「ありがとうございました」

翠の眸に感謝の色を浮かべて、羽根の生えた黒い子猫は言った。

「あら、何のお礼?」

「エリオルを支えて下さって…。あんな彼を見たのは、初めてでした」

「盗み聞きは、よくないわね」

そう応える彼女の口調は、まるで小学生を叱る先生だ。

「…出るに出られなかったんですけれど。
 お二人とも私のことなど、すっかり忘れていたようですし」
 
「ん〜、そうね」

少し考えて、きっぱりと言いきった歌帆にスピネルは苦笑する。
まったく、エリオルにはお似合いな人ですねと。

「…思うのですが」

「なあに?」

「いちばん好きな人と一緒にいること。
 それは男の子にとっても、凄い魔法(ちから)になるのではないでしょうか?」
 
結局のところ、奇跡はひとりの魔法(ちから)では起こせないのだから。

「…だと、素敵ね」

…ひとりでは、恋ができないのと同じように…。


     さあ、日本へ

     懐かしいあの街へ行きましょう

     かわいい恋人達に会いに

     奇跡の魔法(ちから)を確かめに


                                   − 終 −


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「封印されたカ−ド」三連作のニつ目。
クロウ・リ−ドの生まれ変わりである柊沢エリオル君。
『何故、クロウ・リ−ドは≪無≫を創り、そして放置していたのか?』
私なりに考えてみた結果がこのテキストです。
今はエリオルである彼の傍にルビ−やスッピ−だけでなく歌帆さんが居て、本当に良かった。
でなかったら今度は、≪エリオルカ−ド≫をわんさか創ったかもしれませんからね。
なお、エリオル君が小狼君を『私の血縁』と呼ぶのは原作だけで、アニメにはないセリフです。

(初出00.12 「友枝小学校へようこそ!」様は、既に閉鎖しておられます。)