Sweet&Hot 『バレンタイン・デ−には、女性から男性にチョコレ−トを贈りましょう』 そんな奇妙なお祭りが日本で流行し、定着したのは、いつ頃からだろう? 少なくとも、自分が娘の年頃には、まだ一般的ではなかったように思う。 お菓子作りの本をキッチンのテーブル一杯に並べて、深刻な顔をしている娘を眺めながら 木之本藤隆は考えていた。 「おっ、これなんか美味そうやないか〜♪これにしたらどや?」 「でも、難しそうだよう〜。わたしに作れるかな……」 「お父はんに教えてもろたらええやないか。知世も手伝うてくれるやろ。 肝心の味見は、わいにまかしとき!」 さくらの頭上をふよふよと飛び回る、白い羽根を生やした黄色いぬいぐるみに 藤隆はアイロンがけの手を止めて苦笑する。 娘の『守護獣』であるという彼に初めて引き合わされた時は、普段ものに動じないと 言われている藤隆もさすがに驚いたが、今はこんな光景にも、すっかり慣れた。 「小狼くんが日本に帰ってきて初めてのバレンタインだし、今までは割れたり崩れたり するものは送れなかったし。だから……。 でも、やっぱりケーキはむずかしそうだよう〜。 チョコクッキーなら、わたしひとりでも作れるかなあ…」 「……さくら、一人で作るんか?」 「………だって………、小狼くんの分くらいは……」 「あ、そうか!わいらの分はいつも通り知世と一緒に作るんやな。そんなら安心や!」 「…ケロちゃん、今年はチョコいらないんだ…」 「そ、そ−いうイミとちゃう〜!」 「じゃ、ど−いうイミよ!?」 賑やかな声を耳に、アイロンの電源を切る。 綺麗にたたんだ洗濯物の山を積み終え、顔を上げた藤隆は、食卓に置かれた写真と 視線を合わせた。 半ば開いた、リビングとキッチンとの仕切り戸の向こう。 フォトフレ−ムの中の彼女は16歳の姿で、ちょっと小首を傾げるようにして こちらに向かって微笑んでいる。 ……思い出す。 今は亡き妻との、バレンタインデ−。 16歳の彼女と出会い、早すぎる、若すぎるとの反対を押し切って結婚した。 そして迎えた、初めての…… 『はい、藤隆さん。バレンタインのチョコレートよ』 甘い匂い。 やわらかな笑顔。 カップから立ち上る、白い湯気…。 ふいに、長い溜息が藤隆を回想から現実に引き戻した。 「…小狼くん、学校ですごく女の子に人気があるんだよ。 お兄ちゃんや雪兎さんも、毎年い〜っぱいチョコレートもらってたけど、きっと負けないくらい もらうんだろうな…。 お兄ちゃんへのチョコ、凄く凝ってて…。手作りのお菓子やケーキも、いっぱいあって。 やっぱり小狼くんも、そんなのもらうのかなぁ……」 「ほほう〜〜。 そんなにいっぱいもらえるんやったら、わいもちょっとは協力したらなアカンなぁ」 舌なめずりをするケロを、さくらが軽くにらむ。 「そんなのダメだよ! みんな小狼くんに食べてもらいたくて、一生懸命作るんだよ? お兄ちゃんだって、雪兎さんだって、ちゃんと自分で食べてるじゃない」 「ああ、そうや〜〜!兄ちゃんもゆきうさぎも、毎年あんなにチョコレ−トもろうとって ちょっともわいには分けてくれへんのや!! …って、問題はそことちゃうやろ!?」 びしっ!と一人ボケツッコミをこなしたケロは、さくらの前に近づくと、その小さな目で 大きな翠の眸を見つめた。 「…さくらは、それでええんか? 小僧が、他の女の子からチョコレートいっぱいもろうたりしても」 「それは……、だって…。 バレンタインデ−っていうのは、女のコにとってトクベツな日だから…。 好きっていう気持ちを、ただ受け取ってくれるだけで、すっごくうれしくなれるから。 わたしだって、そうだったもん」 ほんの数年前。 星形のチョコレ−トを受け取った藤隆が、ハ−ト形のは誰にあげるのかと尋ねると さくらは驚いて頬を紅く染めていた。 ニッコリ笑って受け取ってもらえた思い出は、今も大切に胸の中にあるのだろう。 …月城 雪兎が、さくらのもう一人の『守護者』だと知らされた時も、藤隆は驚いた。 それでも、日々は穏やかに過ぎていく。 実は人間ではないという青年も、息子の桃矢と同じ大学に通い、一緒にバイトをし よく夕食にやって来る。 何も、変らない……いや、元気のいい大阪弁の声が加わって、食卓は賑やかになった。 仕事が忙しい自分や、高校に入ってからバイトを始めた桃矢が家を空けがちのこの家で 小さな守護獣は、さくらの良い友達だったのだろう。 少し無愛想な、銀色の髪と紫の眸の守護者も、きっと。 「そやけど、さくらっちゅうカノジョがおるゆうのに…。 ええ気になって、浮気されてもしらへんで〜」 「……ケロちゃん、いつのまにチョコ嫌いになったのかなぁ……」 「ああ、そんな。さくらさまぁ〜〜」 情けない声を上げるケロに助け舟を出すように、藤隆はキッチンに声をかけた。 「さくらさん、ケルベロスさん。そろそろ、お茶にしましょうか?」 さくらの頬が、みるみる紅く染まる。 どうやら、父親が隣のリビングにいるのをすっかり忘れていたようだ。 * * * 中学2年生になった春から、さくらは髪を伸ばしはじめていた。 幾度か毛先をそろえながら、今はようやく肩に届くほどの長さになっている。 子供の頃からの髪形を変えたことと、香港から戻ってきた少年との間には 多分、何らかの関係があるのだろう。 離れ離れだった2年間、二人が電話や手紙でのやりとりを続けていたことも 幼いながら互いの気持ちが本物であることも、藤隆は知っている。 それでも…いや、だからこそ面白くないのだろうか。 『あのガキ』 と、桃矢は相変わらず彼を呼ぶ。 その度に、さくらはムキになって 『ガキじゃないよ!李 小狼くんって名前があるのに!!』 と、怒る。 藤隆は、それを笑って見ている。 時々、桃矢は藤隆に向かっても、こう言うのだ。 『父さんは、娘についた“虫”に甘すぎだ』 藤隆は、笑って答えた。 『その分、桃矢君は辛すぎるようですから、ちょうどいいでしょう』 「何を作るのか、決まりましたか?」 藤隆が持っていたものや、友達の大道寺知世や佐々木利佳から借りたものや。 積み上げられたお菓子作りを本に視線を向けて、藤隆は尋ねた。 ケロはといえば、おやつの手作りプリンを口に運ぶのに忙しい。 紅茶のカップを両手で抱えるようにして、藤隆の顔を見れずにいたさくらは小さく首を横に振ると 照れ隠しのように明るく話しかけてきた。 「ねえ、お父さん。 お母さんも毎年、バレンタインのチョコレートを作っていたんだよね?」 「ええ、そうですよ」 「お母さんがくれた中で、一番おいしかったのは、どんなチョコレートだった? …お母さん、あんまりお料理得意じゃなかったんでしょ?」 「そうですね。それでも毎年いっしょうけんめい作ってくれましたから。 でも、結婚して最初の年はテンパリング(※)が上手く出来なくて、大変だったみたいですよ。 そうこうしているうちに、僕が帰って来る時間になるしで、困ってしまったようですね」 「それで、お母さんどうしたの?」 「…どうしたと思います?」 藤隆の眸には何時になく、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。 『ほんとにほんとに、どうしようかっておもっちゃったの。 でも、今日はとってもさむくって、雪もふってきたから、ちょうどよかったわ』 * * * 「まあ、それでは李君への『さくらちゃん本命チョコ』は、バレンタイン当日に お作りになるのですね?」 天板の上に並んだ、綺麗に型抜きされた5組のチョコレ−トを前に、知世は言った。 ちょうどバレンタインの数日前に当る祝日が、木之本家恒例のバレンタイン・チョコ製作日だ。 「うん。…ごめんね、知世ちゃん。 せっかく、お手伝いに来てくれたのに」 申し訳なさそうなさくらに、知世はスミレ色の眸を丸くする。 「まあ、なにをおっしゃいますの!?むしろ、嬉しいですわ!!」 「ほえ?」 「毎年恒例となった、『さくらちゃん、バレンタイン・チョコを作るの巻』のための エプロンドレス・シリ−ズに加え、『さくらちゃん、李君に本命チョコを渡すの巻』のための まさに正真正銘、『勝負コスチュ−ム』まで作れるのですから!!」 「…と、知世ちゃん?」 ちなみに、現在さくらが着ているエプロンドレスは、ふんだんなフリルに加え、『これでもか!』 とばかりにピンクの星飾りを散りばめた一品である。 どうしてお菓子作りにこんなヒラヒラした服を着ているのかというと、それはやっぱり 『トクベツな日にはトクベツのお洋服を』だからだろう。 何かが違うと思いつつ、ビデオを片手に眸にも星を散りばめた友人に、相変わらず断ることの 出来ないさくらである。 「誰も居ないのを見計らった校舎の屋上…。 はたまた二人連れだった帰り道、夕暮れ時の人気のない公園で…とくれば、コスチュ−ムは もちろん制服がお約束。 そのシチュエ−ションも、少女漫画定番の学園ドラマチックで捨てがたくはありますが やはり、バレンタインは恋する乙女の一大イベント! わざわざ御自宅にまでお招きするとあれば!! ここは、やはり深紅のハ−トをモチ−フに…。それとも、さくらちゃんと李君になぞらえ お星様とお月様をテ−マにすべきか。 はたまた、近頃は可愛らしさの中にも、一段と美しさを増したさくらちゃんを引きたてるべく ぐっとシックなデザインも…。ああっ、迷いますわ〜〜♪」 あらぬ方向へと視線を泳がせる知世は、心だけがバレンタイン当日にタイムスリップしている ようだ。 さくらは、必死で両手をふった。 「と、知世ちゃん、いいってば! このお洋服もとっても素敵だし、それに、バレンタインまで三日しかないし…」 「ああ、確かにそうですわ! 急いでデザインを決めて、型紙を起こさねば!!今夜は徹夜ですわ〜♪♪」 「だ、だからね、知世ちゃん…」 お洋服は別に…と、続けようとしたさくらに、知世はニッコリと微笑んだ。 「まあ、そんなに御心配なさらなくてもバレンタイン当日の撮影などと、無粋な真似は いたしませんわv」 ……いや、別にそういう心配をしているわけでは……。 額に玉の汗を浮かべるさくらに、知世はさらに続けた。 「でも、試着の時には、ぜひぜひ撮影をお願いいたしますわ。 衣装に相応しい、キュ−トな決めポ−ズも考えておかなくては!!」 ビデオを手に、再び想像の世界に飛び立つ知世。 味見係としてキッチンに居座っていたケロが、きっぱりと言った。 「さくら、あきらめるんや。ああなったら、知世はもう止まらへんで」 「はううぅ〜〜」 星飾りのついたピンクのキャップをかぶった頭を、ガックリと落とすさくらであった。 * * * バレンタイン前夜。 藤隆から渡されたレシピのメモを見ながら、さくらは材料をチェックしていた。 「えっと、チョコレートと、牛乳と、生クリームと、シナモンと……」 キッチンのテ−ブルに並べて、買い忘れが無いか一つ一つ確認する。 と、その背後から声がかけられた。 「なにやってんだ、怪獣」 「こんばんは、さくらちゃん」 バイトから帰ってきた桃矢と雪兎に、さくらは慌てて材料を抱きかかえ、冷蔵庫にしまった。 「雪兎さんいらっしゃい!…お兄ちゃん、さくら怪獣じゃないってば!」 冷蔵庫に張りつくようにして睨みつけるさくらに、桃矢は憮然とした表情で背を向ける。 「俺、部屋に荷物置いてくるからな。ちゃんと夕メシの用意しとけよ、怪獣」 「…だから、さくら怪獣じゃないってば!!」 階段を上がる足音に、む〜〜っと唸り声を上げたさくらは、クスクス笑っている雪兎に気づいて 照れ笑いを浮かべた。 「…ゆ、雪兎さん。すぐに用意しますから、座ってて下さい!」 「僕も手伝うよ。いい匂いだね、今夜はビ−フシチュ−かな?」 「はい。あと、サラダもありますから」 暖め直しのために、火に鍋をかけるさくらに、雪兎は食器を出しながら尋ねた。 「明日はバレンタインだね。チョコレ−ト、今から作るの?」 言われたさくらは、頬を赤らめる。 「だ、だいじょうぶです。この前のお休みの日に、知世ちゃんと一緒に作りましたから。 あと、一つだけ明日に……」 「そうなんだ」 優しく微笑んだ雪兎は、同時に先刻の桃矢の不機嫌の理由に気づき、そのまま表情を苦笑に 変える。 さくらはお玉でシチュ−をかき混ぜる手を止めずに、雪兎に向かってくすぐったそうに言った。 「今年も、もしよかったら、もらってくれますか?」 「ありがとう、楽しみにしてるよ。…きっと、李君もね」 「………。(///かあああぁ////)」 完熟トマトになったさくらを見て、雪兎はちょっとだけ桃矢の気持ちがわかるような気がした。 「…おい」 桃矢の声とゴトリと重い音に振り向くと、キッチンカウンタ−に暗い色のボトルが置かれている。 「なに?お酒、ここで飲むの??」 さくらが不思議そうに問う。 去年、二十歳の誕生日を迎えているのだから、別に不思議ではない。 だが、今まで家では藤隆と一緒にビ−ルをあけるくらいで、食卓でこんな強そうなお酒を飲む ところなど見たことがなかったのだ。 冷蔵庫を開けてドレッシングを取り出す桃矢は、さくらに背を向けたまま、言った。 「…あれは、こいつをちょっと垂らすと美味くなるんだ。 2〜3滴でいいから、入れすぎるなよ。あいつはまだ、未成年(ガキ)なんだからな」 キョトンとしていたさくらは、兄の背中とボトルを見比べ、やがて嬉しそうに笑った。 「お兄ちゃん、ありがとう!」 夕食後、桃矢の部屋でレポ−トに取り組んでいた雪兎は、ふとペンを走らせる手を止めた。 「優しいね、と−や」 その言葉に、ふてくされたような声が返って来る。 「…いい酒だからな。封を開けたら、早く飲まなきゃもったいない。 ゆき、明日のバイトが終わったら、飲みに来いよ」 「ふふっ。さくらちゃんからのバレンタイン・チョコをおつまみにしようか?」 その味を想像したのか、桃矢は何とも複雑な顔をした。 「……悪酔いしそうだな」 * * * 2月14日。 大量のチョコレートを自宅のマンションに放り込むと、私服に着替えた小狼は木之本家に 向かった。 放課後、さくらの家に行く約束をしているのだ。 空には厚く雲がかかり、ちらほらと雪が降っている。 寒さが苦手な小狼は、半ば走るように道を急いだ。 それにしても、日本のこのイベントには困ったものだ。 マンションの郵便受にまでチョコレートらしき箱を見つけ、溜息をつく。 …数年前、彼も同じことをしているとあっては、尚更にその溜息は深くなる。 面と向かって差し出されれば、 『付き合っている子がいるから、受け取れない』 と断ることは出来る。 しかし知らないうちに机の中や下駄箱に入れられたものは、受け取るより他にどうしようもない。 それでもやっぱり、欲しいと思うのはたった一人からだけで。 俯き加減の上目づかいでのお誘いに、普段は謙虚な小狼も、期待はしているのだった。 木之本家の玄関の前に立つと、小狼は呼び鈴を押す前に必ず一つ、深呼吸をする。 いまだに相性の悪いさくらの兄とも、相性は悪くはないようだが立場上、緊張せざるを得ない さくらの父親とも、いきなり対面するのは心臓に負担がかかるからだ。 さて、意を決し、呼び鈴を鳴らした彼を出迎えたのは……。 「よお、小僧〜」 「…俺じゃなかったら、どうする気なんだ…」 後手でドアを閉めながら、小狼は声を低めた。 今やすっかり木之本家で気ままに振舞うことに慣れ切ったケロに、苦虫を噛み潰した表情だ。 「このわいが、そんな初歩的ミスなんかするかいな〜。 わいが出るんは、ゆきうさぎか、小僧が来た時だけや。 ちゃ〜んと魔力の気配でわかる。 このケルベロス様じきじきのお出迎えや、ありがた〜く思うんやな」 「…大道寺は、魔力がないから気配がわからないんだろ? じゃあ、俺が大道寺以外の誰か他の奴と一緒にドアの前に立っていたら、どうなる?」 小狼の指摘に、丸い後頭部に汗が浮かぶ。 「……そ、それは…」 「………。」 「人生いろいろや、うっしゃあ〜〜!!」 ど−ん!とポーズを決めるケロに、小狼は軽い眩暈を覚えた。 いずれ、このぬいぐるみはとんでもない墓穴を掘るに違いない。 一刻も早く大道寺トイズに、空を飛んで大阪弁で喋るハイテクぬいぐるみを開発してもらうべき だろう。 「…なにやってるの?」 いつまでたってもやってこない一人と一匹に様子を見に来たさくらは、玄関先で顎に手を当てて 考え込む小狼に首を傾げた。 * * * リビングには、あたたかな空気が満ちている。 暖房のせいばかりではない。 木之本家を訪れると、時折、感じることがある。 ふわふわとした、やわらかな、ひかり…のようなもの。 リビングに通された小狼は、窓際の一角を見つめた。 そこだけ空気の密度が、輝きが、違うのだ。 小狼は、それをさくらに言ったことはなかった。 悪いものではないし、怖がらせる必要もないからだ。 彼とは波長が合わないのか、ハッキリと相手の姿を見ることも、意思を伝え合うことも出来ない。 だが小狼には、それが『誰』であるのか、わかるような気がした。 だから、周りに誰もいないのを確認して、それが居る方向に軽く会釈をする。 食卓の上でいつも微笑んでいる、さくらによく似た女性の写真にするように。 出迎えがすむと、ケロはさっさと二階に上がっていった。 小狼が知世から預かっていた、新しいゲ−ムの試作品を受けとって。 大道寺知世という少女に対して素直に感謝して良いのかどうか、小狼はしばしば迷う。 ともあれ、うるさく騒ぐぬいぐるみもいないリビングには、キッチンから流れてくる甘い香りが 漂っていた。 ……間に合わなくて、今作っているんだろうか? 何かを焼いたりしている匂いとは、違うようだが…。 落ち着かない気分でそんなことを考えていると、やがてさくらはお盆の上にマグカップを 乗せてやって来た。 「はい!」 差し出されたマグカップの取っ手には、銀色のリボンが飾られている。 受け取った小狼は、そこから漂う香りに眸で問いかけた。 さくらが、小さく頷く。 「あのね…。これが、今年のバレンタイン・チョコなの」 カップの中身と、さくらのはにかんだ表情を交互に見つめた小狼は、やがてカップをしっかりと 両手で包んだ。 よくよく見れば、今、さくらが着ている服は恐らく、確実に、間違いなく。大道寺知世の作品だ。 珍しくシックな、光沢のあるチョコレ−ト・ブラウンのワンピ−ス。 襟ぐりや裾を飾る、ふわふわした白いボアのふちどりは、まるで生クリ−ムのよう。 そして、細いリボンの端につけられた星と月の飾り。 さくらが、何を作るか知っていてのデザインに違いない。 「…いただきます」 一口含むと、とろりと甘いぬくもりが喉を通りすぎる。 シナモンと、ほんの少し落とされたブランデーの香りが、ふわりと拡がった。 「すごく美味しい…!それに、あったまるよ」 笑みを浮かべる小狼に、ぱあっと花が咲いたような笑顔が返って来た。 「よかった!…あのね、このホット・チョコレートって、お母さんが結婚して初めて お父さんにあげたバレンタインのチョコレートだったんだって…」 やわらかなひかりが、一瞬、強く輝いて、すうっと消えた。 * * * 「木之本先生、バレンタインのチョコレートですか?」 「ええ、娘が作ってくれたんですよ」 大学の研究室で、助手が入れてくれたコーヒーを傍らに、藤隆はラッピングの銀色のリボンを 解いた。 中には、綺麗に型抜きされた二つのチョコレート。 三日月と、その欠けた隙間にちょうど収まる大きさのお星さま。 その上に添えられた、小さなカード。 『お父さん、ありがとう』 笑みを浮かべて、月のかけらを口にする。 チョコレートの甘さの中に、ほんのちょっぴり、ほろ苦さも混じっているように感じられた。 机の端に置かれたフォトフレームの中では、生まれたばかりのさくらを抱いた撫子が 彼に向かって微笑んでいる。 『だいすきよ、藤隆さん』 目には見えない白い翼が、その肩をふんわりと包んでいた。 − 終 − ※ テンパリング…チョコレ−トの温度調整作業。 チョコレ−トの中に含まれている融点の違ういくつかのタイプのカカオバタ− に合わせ、品質を落とさずにより扱いやすい状態にすること。 湯せん(適温の湯を張った中に食材の入ったボ−ルを入れることで暖める) でおこなうのが一般的。 ≪TextTop≫ ≪Top≫ *************************************** 「バレンタインにホット・チョコレート」って、傍にいなければ贈れないものですから 一緒にいられるようになって最初のバレンタインには、ちょうどいいかも〜♪ と思ったのですが…。 ホントに、思いつきはそれだけだったのですが。(//汗//) どこからみても、バレンタインネタにかこつけた「木之本家の日常」話です。 …相変わらず、かなりの勝手設定と私的希望が入っておりますが…。 尚、私が書くお話は大部分がアニメベ−スですので、藤隆さんには撫子さんは見えません。 魔力の増したさくらちゃんにも、撫子さんが分からないのは疑問に思うのですが さくらちゃんは感知性の魔力に恵まれていない(カードにもその手のものが無いし) ようです。 …その辺りは、考えすぎるとまたややこしくなりそうなので、保留ということで…。(汗) (初出02.2 「友枝小学校へようこそ!」様は、既に閉鎖しておられます。) |