さくらとメガネと小狼と 光が、近づいてくる。 そう思った。 鋭くも眩(まば)ゆくもない ふんわりとやわらかな、あたたかさ。 陽だまりのような、ともし火のような。 真円を描く…、光。 「……さくら」 呟いた自分の声で、李 小狼は目を覚ました。 次の瞬間、来客を告げる呼び出し音にソファ−の上で跳ね起きる。 手から滑り落ちた魔術書が、絨毯の上にパサリと落ちた。 いつの間にか、うたた寝をしていたらしい。 本を拾い上げながら、壁に掛けられた時計の針を読む。 午後2時、ちょうど。 やはり、さくらが訪ねて来たのだ。 魔力に反応しそうな物には厳重な封印を施したし、冷蔵庫には今朝早くに作ったマンゴ− プリンが冷やしてある。 昨日、香港から届いたお茶も、茶器と一緒に準備してあった。 湯を注ぐと茶葉が解け牡丹の花と蝶が現われる細工茶は、きっと彼女を喜ばせるだろう。 テ−ブルには、さくらの訪問の目的である数学の教科書と参考書。 サイドボ−ドの上には、数年前にさくらから贈られたピンク色のくまのぬいぐるみ。 桜の刺繍をあしらったスリッパも、玄関先に揃えられている。 頭の中で確認し、頷きながら小狼はドアを開けた。 感じたとおり、さくらが立っている。 大きめのバックに、可愛らしいアイビ−風のワンピ−スと半袖のジャケット。 似合いすぎるほど似合っているところをみると、大道寺知世の手によるものだろう。 カ−ドキャプタ−としての活躍の機会も減った今、彼女はさくら専属のドレスメ−カ−兼 スタイリストとして自らの才能と情熱を燃やしている。 もちろん、一着完成するごとのビデオ撮影がお約束であることも変わりはなかった。 …ともあれ、ドアを開けた小狼はさくらの顔を見て首を傾げた。 いつもなら即座にふんわりとした笑顔で、 『こんにちわ!』とか『おじゃまします!!』とか、明るい声で告げる筈のさくらが、ぽかんと 口を開いたままで玄関先に固まっているのだ。 「どうした?」 尋ねた小狼に、さくらは翠の眸をまんまるにして、言った。 「小狼くん…。眼鏡、してたの?」 光沢のあるオリ−ブグリ−ンの細いフレームで縁取られた、世界。 その真ん中で彼を見つめる、眸。 しまった、と。 小狼は思った。 * * * 「小狼くんが眼鏡かけてるとこ、初めて見た…。 今まで、学校にはしてきたことないよね?」 小狼の背中を追ってリビングに続く廊下を歩きながら、さくらが尋ねる。 それに対する彼の返事は、必要最小限に短く簡潔だ。 「ああ…。パソコンを使う時と、魔術書を読む時だけな」 小狼が眼鏡をかけるようになったのは、つい半年ほど前からだ。 ここ暫くの道士としての仕事と日本での学業との両立の無理がたたったのだろう。 乱視が進んでしまったのだ。 とはいっても、学校を含めた普段の生活に不自由があるほどではない。 だから、幾つかの理由もあって、小狼はさくらの前で眼鏡をかけたことがなかった。 今日も、さくらが来るのを待つ間、つい香港から届いたばかりの魔術書を読みふけり、 眼鏡をかけたまま転寝していたのを忘れて玄関へ出てしまったのだ。 そんな自分の迂闊さが、未熟さと直結しているように思えてしまう。 「そうなんだ〜。でも、すっごく似合ってるよ」 さくらの口調には、屈託が無い。本気でそう思っているのだろう。 それが伝わるにもかかわらず、小狼はぼそりと言った。 「……おまえって、昔から眼鏡好きだよな…」 けれど、それは≪独り言≫にしては大きすぎる声で。 彼のすぐ後ろにいるさくらには、しっかり聞こえてしまっている。 「えっ、そうかな?」 さくらの性格について、≪ふんわり≫や≪天然≫を通り越して、≪無神経≫を疑いたく なるのはこんな時だ。 小狼は不機嫌そうに眼鏡を外し、リビングのテーブルに置いた。 不機嫌の本当の原因は、迂闊さの上塗りをしている自分自身にだったかもしれないが…。 すると、ようやく思い当たったのだろう。 さくらは言った。 「もしかして小狼くん、雪兎さんのこと言ってるの?」 「……………。」 この場合、無言は肯定を意味してしまうのだが、小狼は何も言わなかった。 仮に内心で、 『それだけじゃないぞ。他にも柊沢とかいただろう!?』 と思っていたとしても、とても口に出来るものではない。 さくらは足元に置いた大きめのト−トバックから、くまのぬいぐるみを取り出した。 青みがかった濃いグレ−のそれは、小狼からさくらに贈られたものだ。 両手でそっと抱いたぬいぐるみを見つめながら、さくらは言った。 「……あのね。今になって思い出すとね、わたし、雪兎さんに初めて会った時、 『お父さんみたいに優しそうで、素敵なひとだなぁ〜』 って、思ったの。そういえばエリオルくんと初めて会った時も、そう思ったかなぁ…。 だってお父さんも、雪兎さんも、エリオルくんも。 眼鏡の中の眸が、いつも優しそうに笑ってるから」 さくらの父・木之本藤隆は、小狼の目から見ても理想の父親だった。 柔らかな物腰で、子どもに対しても丁寧で、いつも微笑みを浮かべていて…。 雪兎との共通点が多いのは納得できるが、柊沢が似ているのは外面だけに思える。 そんな風に考え込んでいる小狼をちらりと見やり、さくらはぬいぐるみを抱いたまま サイドボ−ドに近づいた。 彼女が小狼の部屋に来る時は、グレ−のくまを連れてくるのが習慣になっていた。 落ち着いた色合いで統一されたリビングの中で、ぽつんと座っているピンクのくまに 会わせるために。 「でも、初めて会った頃の小狼くんは怒ってばっかりで。わたしのこと怖い目で睨んでて。 お父さんとも雪兎さんともエリオルくんとも、他の誰とも全然違ったけど…。 でも、本当は誰よりも優しくて素敵だってわかったから。 眼鏡かけてなくても、ちゃんと好きになったでしょ?」 二匹のくまがびったりと寄り添い、その小さな手が重なるように座らせてから、さくらは 小狼を振り向いた。 くすぐった気な表情を浮かべて、翠の眸がふんわりと笑う。 やわらかな真円の光が、見えたような気がした。 「……おれを≪優しい≫とか言うのは、さくらだけだぞ」 派手に赤面することは無いものの、小狼はむすっとした声で答える。 それでもテ−ブルに置いた眼鏡を手に取って、無造作に掛けた。 薄いレンズ一枚を隔てるだけで、相手と自分との間に距離を保てる気がするのだ。 パソコンを使う時と、魔術書を読む時。 それ以外で、李一族として公式の場に立つ時に小狼が眼鏡をかける理由の一つだ。 もう一つの理由は、レンズとフレ−ムを通した鏡の中の自分が、ほんの少し大人びて 見える気がするから…。 どちらの理由も己の若輩ぶりを示すだけなのだと知っているから、眼鏡を掛けている時の 小狼は、普段にもまして言葉が少なくなる。 「……でも…。わたしのせい、かなぁ?」 光に影が差したような声に、小狼ははっと顔を上げた。 レンズ越しのさくらは俯いている。 肩に届くまで伸びた髪で表情を隠しながら、とぼとぼとした足取りでテ−ブルに戻る。 「小狼くんの目が、悪くなっちゃったのって。 日本の学校で、香港より余計に勉強しなくちゃいけなくて。それから魔術の修行もして。 パソコン使ってお仕事もして…。何でも一人でしなくちゃいけなくて。 ずっと無理をしているから、目が悪くなっちゃったんだよね」 小狼がさくらの前で眼鏡をかけるのを避けた一番の理由は、それだった。 彼女なら、そんな風に考えてしまうのではないか、という気がして。 「……さくら」 違う、そうじゃない。 こんなのは、彼女がいたからやりとげられたことと比較すれば、少しも大したことじゃない。 けれど言いかけた言葉を遮るように、小狼の隣に座ったさくらは、ますますうつむいてしまう。 膝の上に置いたバックの中身だけを見つめて、教科書やノ−トやペンケ−スを取り出しては、 黙々とテ−ブルに並べていく。 「わたしも、もっと頑張らなくっちゃ。 学校のお勉強も、魔法も。ちゃんと、小狼くんの隣に立っていられるように。 ……それで、もしも」 と、ふいに言葉を切ったさくらは、顔を上げた。 さくらを覗き込む姿勢になっていた小狼と、間近で視線が合う。 フレ−ムとレンズの中に、さくらの顔がくっきりと映った。 「わたしが眼鏡をかけるようになっちゃったら、小狼くんはどう思う?」 「……は?」 唐突な質問に、小狼は面食らった。 「……どう、って?」 今までの会話の流れから、何故いきなりそんな話になるのだろう? さっぱりわからないままの小狼に、さくらは眉を寄せて唇の両端を下げる。 それだけで、真円の光が半円になってしまう気がした。 「眼鏡をかけたわたしだと、好きじゃなくなっちゃう…?」 不安そうに言って、また顔をうつむける。 必要なものはテ−ブルの上に全部揃っている筈なのに、さくらの手は落ち着き無く バックの底をかき回していた。 「そんなこと…っ!!……あ、あるわけ、ないだろ…」 自分が発した第一声が大きすぎた気がして、後は呟くほどの小声になった。 けれど、さくらが放つ光…。魔力でも気配でもない。存在そのものが持つオ−ラのような それが、まばたき一つのうちに満ちていくのが小狼にはわかった。 「よかったぁ〜」 さくらが、顔を上げる。 その上には、光沢のある淡いピンクのフレ−ムがちょこんと乗っていた。 翠の眸を引き立てるように、なお一層大きく見せるように。 はにかんだような笑みが浮かぶ。 …その瞬間、小狼の脳裏に『眼鏡っ娘』という言葉が浮かんだかどうか。 そもそも、そんな言葉があること自体を知っていたかどうかも定かではないが…。 小狼が動揺を抑えるのに、相当の精神力を必要としたのは確かである。 それでも止められたのは赤面することだけで、表情が固まるのはどうしようもなかった。 「最近ね、ケ−タイの画面とかがチラチラして見にくかったから…。 昨日、眼医者さんに行ったら、勉強する時だけかけた方がいいですよって言われて。 フレ−ムは知世ちゃんに選んでもらったの。 そしたら、今朝はこのお洋服も届けてくれたんだよ」 小狼を驚かせることに成功したさくらは、レンズの向こうの眸をきらきらさせて報告する。 「そ、うか…。」 辛うじて答えつつ、小狼は思った。 なるほど、さくらの今日の衣装は眼鏡を引き立てることを意図したデザインだったのだ。 テスト前に徹夜も辞さないとは、さすが大道寺というべきか…。 「くまさんの他にもう一つ、小狼くんとお揃いだね」 さくらの言う≪もう一つのお揃い≫は、単に≪眼鏡をしている≫ことだけなのだろう。 だが、テ−ブルに置かれたピンク色の眼鏡ケ−スにデザインされたロゴは、小狼の眼鏡と 同じブランドだ。 偶然…で、あるはずがない。 李家の公式の場には、大道寺知世のメル友である従妹の苺鈴の姿もあるのだから。 サイドボ−ドに並んだぬいぐるみを見つめて、さくらはにっこり笑う。 黒いボタンでできた4つの眸も、彼等をじっと見つめ返していた。 * * * …さて。 香港から魔術書と共に送られて来た細工茶は、ガラスのティ−サ−バ−の中で見事に 花開いてさくらを喜ばせた。 果肉から作ったマンゴ−プリンも、美味しい〜!!と、大感激された。 そんな風に気分を切り替えた後、数日後に迫ったテスト勉強となったのだが…。 「…そういえば。わたし、どうしてもわからないことがあるの」 ふと、さくらが漏らした言葉に小狼は顔を上げた。 とたんにグリ−ンのフレ−ム越しに、ピンクのフレ−ムの中で一際大きく見える翠の眸と ぶつかって、どぎまぎする。 さくらが眼鏡をかけたままであるから、何となく小狼も眼鏡をかけたままなのだ。 「…な、なんだ?」 今度のテスト範囲の数学なら、何でも教えてやれる自信が小狼にはあった。 しかし、さくらが口にしたのは、幼い頃から文武両道に秀で、冷静沈着と湛えられた 李家の御曹司にとっても、まだ未知の謎であった。 「……えっとね…。キス、って。二人とも眼鏡したままだと、ぶつかっちゃわない?」 数秒後 真円の光が満ちる空間に かつん と 眼鏡のフレ−ムがぶつかる小さな音がした − 終 − ≪TextTop≫ ≪Top≫ *************************************** メガネ小狼くんは時々イラストなどでお見かけしますが、メガネさくらちゃんって見ない なぁ〜と思った…。ただそれだけの思いつきネタだったり。(汗) でも藤隆さんはメガネしてて、桃矢兄ちゃんはメガネしてないですから、遺伝的にみて さくらちゃんが将来『眼鏡っ娘』になってもおかしくはないんですよね。 眼鏡カップルのSSも良いかも〜♪ ちなみに 『さくらちゃんはメガネスキ−である』というのが、一部Fanの通説(というより ネタか?)のよう。どっちかというと、ファザコンの延長のような気がしますが、さて? 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