天鵞絨の箱 18歳の誕生日に、手のひらに乗る小さな包みを差し出された。 目を丸くするさくらに、小狼は早口で言う。 「新しいのは箱だけで、中は古いものだが…。 さくらに、持っていて欲しい」 まだ小学生の頃から、とても落ち着いていて口数の少ない少年だった。 特に最近は、すっかり“大人”の雰囲気を漂わせていた彼が、こんなにも緊張した様子を 見せるのは珍しい。 「でも」 と、さくらが言う。 小狼が独り暮らしをしているマンションで、手料理を並べたテ−ブルを前に。 翠の眸いっぱいの困惑を浮かべて。 「今日は、小狼くんのお誕生日なのに…。 わたしが小狼くんからプレゼントをもらうのって、ヘンじゃない?」 「ヘンじゃない」 小狼が、即座に返す。 不思議そうに首を傾げたさくらから、ふっと目を逸らしたが、一瞬後には真顔になる。 鳶色の眸が、鋭いほどの光を帯びてさくらを映した。 「これを受け取ってもらうのが、俺の“願い”だから。 開けてみて、嫌なら返してくれて構わない」 生真面目な、低い声。 さくらはもう一度、小狼の手のひらを見つめた。 細いリボンと薄紅色の包装紙で飾られた、小さな包みを。 さくらが、小狼へのバ−スデ−プレゼントに悩むのは、毎年恒例のことだった。 だが、今年は悩むよりも前に、本人からリクエストがあったのだ。 『誕生日の当日に、1つだけ“願い”をきいてくれないか?』 小狼からの申し出に、さくらは当然の疑問を投げかける。 『“願い”って、どんな?』 『それは…、当日までの秘密…。』 彼にしては珍しく、歯切れの悪い物言いだ。 一体、どんな“願い”なのか。想像もつかないでいる彼女の不安を感じ取ったのか、 小狼は苦笑して言い添えた。 『心配しなくても、そんな難しいことじゃな……くも、ないか。 聞いた後で、嫌なら断ってくれていいから』 わけがわからず、さくらは益々混乱した。 『でもでも、聞いた後で断ったら、プレゼントが無くなっちゃわない?』 内容不明では、彼女が“断る前提”で考えてしまうのも無理からぬ話だろう。 小狼は、少し顔を曇らせた。 だが、すぐに表情をあらため声を落とす。背を屈め、さくらの耳元で囁くように。 『その時は…、そうだな。 代わりの“願い”で、さくらから俺にキスしてもらおうか』 『ほ…、ほええぇ〜っ!?(/////)』 真っ赤になって叫ぶさくらに、小狼が笑う。 小学生の頃には決して見せなかった、悪戯っぽい顔で。 時々、こんな風にからかわれるのが悔しくて、さくらはむくれた顔のまま宣言した。 『わかった!じゃあ、お誕生日に小狼くんの“お願い”を聞くから。 でも、イヤだったら、キッパリことわっちゃうんだからね!!』 ゆっくりと瞬きをした後で、小狼は頷いた。 それが、1ヶ月前の話だ。 小狼の“願い”のことは、知世にだけ相談していた。 人の心を察することに長けた親友は、『まあ』と呟くと、少しの間を置いて微笑んだ。 『大丈夫ですわ。 李君が、さくらちゃんの嫌がるようなことを“願う”筈がありませんもの』 ……知世の言葉を思い出し、さくらは包みを受け取った。 大きさに比べて、重い。 リボンを外し、透かしの入った包装紙を解くと、中に入っていたのは小箱だ。 淡いピンク色の天鵞絨(ビロ−ド)が張られ、上蓋には桜の花の刺繍が施してある。 箱だけでも、充分に高価なものだとわかる。 そして今のさくらには、箱の持つ“月の気配”を感じ取れた。 これは、小狼の魔力(ちから)だ。 中にあるものを外に逃がさないための、小さな結界。 小狼が、じっと見つめている。 さくらは息を詰めるようにして、小箱の蓋を開けた。 * * * 香港島・九龍半島のビクトリア・ピ−ク中腹に建つ、李家本邸。 中国風と英国風が入り混じった内装の一室に、彼女は立っていた。 仙女を思わせる、古風な衣装。高く結い上げた黒髪。 現当主、李 夜蘭(リ イェラン)。 世界屈指の名家、東洋最古の道士一族に君臨する彼女は、白い手の上に 小さな箱を乗せている。 漆黒の眸に映る、濃緑色の天鵞絨(ビロ−ド)に施された牡丹の刺繍。 小箱の中身は、無い。 中央の窪みに収められていた指輪は、今は息子の手にあるのだ。 いや、今頃は息子が選んだ娘の指に。 瑠璃、琥珀、瑪瑙、水晶、黒真珠、そして翡翠。 純度の高い銀に様々な宝石をあしらったそれは、代々、李家の女主人…当主の妻となる 女性が持つものだ。 幾世代にも渡って女達の指を飾り、彼女等の、李家の行く末を見守ってきた。 けっして平坦ではない道を、共に歩む女性(ひと)を“護れ”と。 幾世代もの当主が込めた、祈りにも似た魔力(ちから)を秘めて。 ……どうか私と共に、あの子達を見守ってくださいな…。 30数年前、この箱に収めた指輪を彼女に贈った夫に、夜蘭は語りかける。 記憶の中の面影は、息子に生き写しだった。 そういえば、いつも物静かで落ち着いていた彼が、あの時は凄まじく緊張していた。 指輪を渡すという行為は一族に関わる重大事なのに、呆れるほど今更なことを口走っていた。 あの声を、今も覚えている。 夜蘭は紅を差した唇の端を微かに上げた。 『……返事は、別に、今すぐでなくても…。 よく考えた後で、構わないから』 * * * 「……返事は、別に、今すぐでなくても…。 よく考えた後で、構わないから」 表情を固まらせている彼女に、小狼はしどろもどろに言った。 年代ものであり、同時に強い魔力を秘めている指輪の意味は、流石に“ふんわり”した さくらでもわかるのだろう。 この指輪は、小狼個人の気持ちであると同時に、李家そのものでもあるのだ。 まだ高校生で、数ヶ月前に17歳になったばかりの彼女には、重すぎたのかもしれない。 時期を待ち、十分に考えたつもりの行動が、とんでもない先走りに思えて小狼は焦った。 「小狼くん」 彼女の声。 次の言葉を聞くまでの数瞬は、どんな魔物と対峙する時よりも緊張した。 さくらが顔を上げる。大きな翠の眸が、息を詰める小狼を映す。 花弁のような唇が、ゆっくりと動いた。 「……これ、はめてくれる?」 目の前に差し出された左手に、小狼は大きく息を吐く。 それから、香港で暮す長姉と義兄の話を思い出し、その場に片膝を付いた。 知世を通してサイズを確認し、直させていたので、指輪はぴったりと薬指に収まる。 その指に口付けて顔を上げると、さくらの顔は小箱を飾る花の刺繍より赤くなっていた。 * * * 「お父さんとお兄ちゃんに、何て言おう…?」 立派過ぎて緊張するからと、小箱…リングケ−スに戻した指輪を眺めながら、 さくらは声を弾ませた。 「俺の方から挨拶に行くから…。 お父さんの都合を聞いておいてくれるか?」 単純に喜んでいるさくらだが、小狼には現実が一気に圧し掛かってくる気がする。 日本では、男が女性の家を訪問し、彼女の父親と向き合って『お嬢さんを僕にください!!』 とか言うのが礼儀だそうだ。 「うん!もう夏休みだし、お父さんとお兄ちゃんと、両方がお休みの日をきいておくね」 いや、兄貴は別に…と、出かけた言葉を飲み込んだ。 遅かれ早かれ、報告は避けられない。 穏やかな藤隆なら、『君にお義父(とう)さんと呼ばれる筋合いはないッ!!』と 背を向けられることはないだろうが、あの兄貴は…。 いや、さくらのためなら1発や2発、殴られてやろう。小狼は心に誓う。 「あと、知世ちゃんと、ケロちゃんと、雪兎さんと、ユエさんと、カ−ドさん達と。 観月先生と、エリオルくんと…」 たくさんの名前を並べるさくらに、小狼は目を細める。 自分の幸せを報告したい人…人間以外も…を、大勢持つ彼女を。 天鵞絨(ビロ−ド)の小箱の中では、宝石達が静かに煌めいている。 何時の時代も、若い魔術師達の最も幸福な瞬間に立ち会う指輪。 その幸せが、永く続くように。 幾世代もの幾人もの願いの中に、また一つ、強い想いが加わった。 『ぜったい、大丈夫だよ』 − 終 − ≪TextTop≫ ≪Top≫ *************************************** 一応、小狼君のお誕生日設定でありながら、実は誕生日とは余り関係のない話。 日本では男性は18歳で結婚できますが、小狼君はどうなんでしょうね? いずれ、小狼君が木之本家にご挨拶に行く話も書いてみたいです。 タイトルは『兄貴の一番長い日』に決定済。(←笑) |