さくらと小狼とつよいきもち



− 1 −

「………!!」

突然立ち上がった小狼に、気づいた者はいなかった。
レストハウスの中では、全てが静止している。
不安そうなクラスメイトの表情も、窓の外で吹き荒れる吹雪さえも、セピア色のフィルターを
被せた写真のようだ。
無音の世界で、自分の心臓だけがどくどくと響く。

……≪時(タイム)≫を使っているのか…!?

かつて、クロウカードの主の座を争っていた頃、彼が所有していたカード。
時間を操る強大な力と引き換えに、魔力を激しく消耗する。
小狼自身、数分使えば立っていることさえ出来なくなっていたのだ。
それを≪さくらカード≫に作り変え、発動させたのであれば…。

「くそ…っ」

唇を噛んで、小狼は走り出した。
祈るように両手を握り締めたまま、まばたきすらしない大道寺知世の横をすり抜け、
深刻な顔の先生達の間をくぐって、ドアを目指す。
≪時(タイム)≫が必要になるなんて、余程のことが起こったに違いない。
外の吹雪が止まった所為か、さくらとは違う魔力の気配も感じられる。
奇妙な事件ばかりが続いているのに、なぜ、さくらから目を離してしまったのか。
コースに誘われた時、頷いていれば良かったのだ。
傍にいさえすれば、何か出来たはずなのに…!!

ドアノブに手を掛けた瞬間、凍り付いていた空気がパキリと割れた。
戻って来る、周囲のざわめき。お喋りの声。床の軋み。
だが、小狼は構わずにノブを回す。

「だめだ、李!!外は吹雪が…」

寺田先生の声を無視してドアを開け放つ。
だが、飛び出そうとした次の瞬間、小狼はその場に立ち尽くした。

「え…っ?」

陽の光を受けて、キラキラと輝く雪原。雲ひとつない青空。
ドアの向こうにあるのは、絶好のスキー日和としか言いようのない光景だ。

「いったい、何があったのでしょう…?」

背後で不思議そうに呟く知世にだけ聞こえるように、小狼は呟いた。

「魔力の気配が…、消えた」

吹雪を起こしていた魔力だけではない。
さくらの星の力の気配も。



− 2 −

ベッドに横たわるさくらの顔は、紙のように真っ白だった。
いつもはピンク色の頬も、ひどく青ざめている。

あの後、柊沢エリオルと並んで山を降りてきたさくらは、倒れるように眠り込んだ。
そのまま夕方近くになっても、一向に目覚める気配がない。


 『吹雪の中で、急にさくらさんの姿が見えなくなってしまって…。
  晴れたと思ったら、雪の上に倒れていたんです。
  きっと、それで身体が冷え切ってしまったのでしょう。
  僕が、もっと気をつけていれば良かったのに…。』



皆の前で、うなだれて話す柊沢を、責める気持ちにはなれなかった。
もし、自分がその場にいたとしても、結果は同じだっただろう。
あれほどの吹雪を操る相手に、さくらの助けになれたとは思えない。

きつく握り締めていた手を解くと、小狼は掌をさくらの額の上に置いた。
“気”がずいぶん弱まっている。体温も低く、呼吸が浅い。深い眠りは、まるで冬眠のようだ。
冷たい額から手を離し、小狼は小さく息を吐いた。この症状は、魔力の酷使による消耗だ。
数日眠れば、自然に回復するだろう。
だが、それで安心というわけにはいかない。魔法とは無縁な世界では、さくらの状態は
普通ではないのだ。
現に先生達は、夜になっても目を覚まさないようなら、地元の病院に入院させるつもりで
いるらしい。


 『さくらちゃん、2学期から何度かお休みをされましたでしょう?
  先生方は、そのことも気にしておられるようなのです。どこか悪いのではないかと…。
  入院ということになれば、お父様やお兄様にもご心配をかけることになってしまいます。
  さくらちゃん、悲しまれますわ…。』



さっき、さくらの様子を尋ねた時、大道寺知世は沈んだ声で言った。
最初に≪火(ファイアリー)≫のカードをさくらカードに変えた時。
その後、何枚ものカードを一度にさくらカードに変えようと、無茶をした時。
さくらは翌日、起き上がることができなかった。
それまで学校を休むなど滅多になかったので、目立ったのだろう。家の者も、修学旅行先で
倒れたと知れば、深刻に思うに違いない。


 『それに、このまま入院してしまわれたら、さくらちゃん、せっかくの修学旅行が
  中途半端になってしまいます。
  あんなに楽しみにしてらっしゃったのに…。』


長い睫毛を伏せた知世は、心からさくらを心配していた。
だから、小狼は彼女に頼んだ。暫くの間、2人だけにして欲しいと。
何の説明もしなかったのに、知世は静かに微笑んだ。


 『李君に、お任せしますわ』


小狼は目を閉じ、さくらのベッドから離れる。そしてポケットから紙の束を取り出した。
普通の火では燃えない紙に、普通の水では消えない墨で描かれた文字と文様。
彼が魔力を込めた札だ。


 『今はまだ、経験が足りないだけ』


昨日、スキー初心者の小狼に、気に喰わないクラスメイトは言った。
手にした札を貼りながら思う。今の自分には、足りないものばかりだと。
やり場のない怒りを押さえつけるのにさえ、こんなに苦労するほど、未熟だ。
大声で叫びたい衝動を、必死で押し殺している。


 『お前は誰だ!?何のために、さくらを苦しめる!!
  コイツは、何も悪くない。魔力で何かをしようなんて、思ってない。
  いつだって、周りの人間とカード達のことを考えているだけなんだ…!!』



肩に入りすぎた力を抜くように、小狼は幾度も深く息を吐いた。
部屋の四隅に。ベッドの周囲に。カーペットの上に。手順に従い丁寧に札を貼っていく。
作業に集中することで、頭を冷静にするのだ。これから始める術のために。


この冬、偉(ウェイ)を通じて香港の李家から、小狼に届けられた包み。
一族でも、限られた高位の道士にしか許されない魔術書だ。
再三の願いを、やっと母…李家当主が聞き入れてくれたのだ。
以来、小狼は眠る間も惜しんで読み続けていた。
強力な結界をすり抜ける方法、二重三重の防御壁、攻撃魔法の相殺…。
『まだ早い』と言われたとおり、記された術の大半は、今の彼に使いこなせる代物ではない。
だから小狼は、今の自分が使える“かもしれない”ギリギリのレベルの術を捜しては、必死で
覚えた。これも、その一つだ。


札を貼り終え、玉から宝剣を取り出した小狼は、もう一度さくらを見つめる。
わかっていた。今からやろうとしていることは、自己満足でしかない。
自分の魔力では、さくらの負担を肩代わりすることも、分け持つことさえ及ばない。
今の小狼に出来ることは、助けというにはささやかすぎた。

けれど、それでも。

眉を寄せ、苦しそうな表情で眠る少女。
その寝顔を、少しでも安らかなものに変えられるなら。
悲しい顔を、させずにすむのなら。


「……玉帝有勅神硯四方 金木水火土雷風雷電神勅」


姿を見せない何者かへの怒りも、己の無力への苛立ちも、全てが薙(な)いでいく。
狙いを定め弓を引き絞るように、ただ一点へ集中していく意識。
今の自分の、全ての力。


「軽磨霹靂電光転          急々如律令!」



− 3 −

「さくらちゃん、目がさめたのですね!?」

ベッドの上で頭を起こしたさくらは、涙目の知世にしっかりと両手を握られ、首を傾げた。

「……ほえ、知世ちゃん…?」

白くてきれいな知世の手は、いつものように少しだけひんやりとしている。
起きたばかりで半分寝ぼけた頭のまま、さくらは目の前の親友に尋ねた。

「知世ちゃん、小狼くん、いなかった…?」

ほんの一瞬、驚いたように見開かれた眸が、すぐに優しく細められた。
さくらの肩に上着を掛けてくれながら、落ち着いた声で返事をする。

「いいえ。先生方がお見舞いは遠慮するように、おっしゃられましたから。
 李君が、何か…?」
「……えっと、ううん。何でもないんだけど…。
 なんだかね、すごく暗くて寒くて冷たかったのに、小狼くんが来てくれたら
 ぱあっと明るくなって、すごくあったかくなったみたいな……夢、かなぁ…?」

目覚めた瞬間には、あんなにもはっきりと『小狼くんがいた』と確信していたのに。
言葉にするほどイメージが曖昧になり、最後には自分でも、あれは夢だったのだと
さくらは思うようになった。
だが、黙って話を聞いていた知世は、ニッコリ笑ってさくらの疑問に答えたのだ。

「山から下りて来られた後、さくらちゃんを背負って部屋まで連れて来てくださったのは
 李君ですから。その時のことではありませんか?」
「ほっ、ほええぇ〜!!そ、そうだったよね。
 わたし、小狼くんにおんぶしてもらっちゃったんだ…。お、重たくなかったかな?
 後で、お礼言わなくちゃ。それに、また心配かけちゃったし…」

話しているうちに、すっかり目が覚めたのだろう。ベッドの上で叫んだり、頭を抱えたり、
ソワソワしたり。
そんなさくらちゃんも、超絶可愛いですわ〜!!と、ビデオを構えていなかった自分を
不覚に思いながら、知世は立ち上がった。

「それでは、私はさくらちゃんが目を覚まされたことを、先生方やクラスの皆さんに
 お知らせしてまいりますわ。
 それから、何か暖かい飲み物をいただいて来ますから、待っていてくださいね」
「うん、ありがとう知世ちゃん。……心配かけて、ごめんね」

ほんのりと桜色の頬。生き生きした翠の眸。
いつもどおりの元気なさくらを見つめ、知世は微笑みを浮かべる。

「いいえ、さくらちゃん。
 ……でも李君には、私からそうお伝えいたしますわね」
「うん…。あ、でもでも!!
 小狼くんには後で、わたしからちゃんと伝えたいから…。」

その瞬間、さくらの頬に赤味が増したのは、強めに設定した暖房の所為ばかりではないと
知世は思った。
思ったけれど、何も言わなかった。
これはさくらが、自分自身で気づかねばならないことなのだから。

「わかりましたわ」

微笑んだまま答えると、知世は静かにドアを閉める。
そして、くるりと振り向くと、深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」

だが、廊下の壁に背中を預けていた小狼は、素っ気無い口調で言う。

「……おれは別に、礼を言われるようなことは何もしていない。
 むしろ、礼を言わなければならないのは、こっちの方だ」

顔を上げ、怪訝な表情を浮かべた知世に、短く告げる。

「何も言わずにいてくれて、ありがとう」

知世は、目の前の少年を見つめた。
ずっと壁にもたれたままの姿勢や、いつもより青ざめて見える顔色。
そして小狼が部屋を訪れたことを、口止めされた意味を考える。
けれど、やはり何も言わなかった。
ただ静かに微笑んで、もう一度頭を下げる。
そして今度こそ、一刻も早く先生達に知らせようと廊下を急いだ。


   * * *


知世が廊下の角を曲がったとたん、小狼はその場に膝をついていた。
だが、すぐに立ち上がると、ふらつく足取りで歩き始める。
夕食までの僅かな時間、部屋で休むつもりなのだろう。
魔方陣の中に作り出された鏡には、血の気の無い顔に滲む脂汗さえ映し出されている。
人目を避けた裏庭で、その様子を眺めているのは柊沢エリオルだ。
無言のまま、夕暮れにとけてしまいそうな後ろ姿に、話し掛ける声。

「さっきの魔力の気配は、彼だったのですね」

透明な羽根をもった黒い子猫が、ふよふよと浮いている。
さくらの守護獣・ケルベロスと違い、主を手伝うために修学旅行にも付き添っている
スピネル・サンだ。

「ああ…。あれは回復魔法だよ。
 自分自身の生命力(エナジー)を相手に分け与える、とても高度な術だ。
 以前の僕でさえ、あの年齢では使えなかったレベルの魔術だよ」

心底感心したような主の言葉に、スピネルは眉を寄せる。
先がコイル状になった尻尾をぴんと立てて、話を本題に戻した。

「しかし、これで良かったのですか?
 彼をさくらさんから引き離すために、小細工をしたのでしょう?」

無人だったリフトの操作など、“小細工”の手伝いをしたスピネルが翠の眸で主を見つめる。
エリオルは薄く微笑んだ。
あの時、小狼がさくらに同行しないことも、小細工による計算済みだったのだ。
そのために昨日、エリオルはさくら達にスキー技術を見せびらかしたのだから。
これで彼は、自分の腕前がエリオルに劣らなくなるまで、さくらと一緒に滑る気にならない
だろうと踏んでいた。
負けず嫌いで、向上心が服を着ているような、李家の少年。そんな彼だからこそ、短期間で
驚くほどの成長を見せてくれるのだ。スキーでも、それ以外でも。

「今回は、さくらさんを消耗させすぎてしまったからね…。
 後で僕が、彼女の体力を回復させようかと思っていたくらいだ。
 彼がそれを代わりにやってくれるとは…。さくらさんとは別の楽しみが増えたよ」

エリオルは魔方陣を閉じながら、スピネルの問いに答えた。
だが、可愛い外見に似合わず気難しいところのある守護獣には、気に入らなかったらしい。
探るような声で再び問われた。

「楽しみ、ですか…。
 彼が将来、貴方が目をかける程の道士になるとでも?」

それは無理だと、スピネルは思っているようだ。そこそこの力はあっても、魔力の強さが
エリオルやさくらとは比べものにならないと。
だが、守護獣の考えなどお見通しのエリオルは、翡翠色の眸に告げる。

「彼は、≪時(タイム)≫の発動時、魔力の外にいた。
 そんなことの出来る者は、今の世界に10人といないだろう」

主の返事に意表を突かれたのか、小さな耳がぴくりと動く。
それでもまだ納得がいかないらしく、不満そうな顔だ。
杖を消し、魔術師からただの柊沢エリオルに戻る前に、付け足した。

「確かに、経験はまったく足りない。
 けれど、それを補って余りあるものが彼にはある。さくらさんと同じものがね」
「一体何なのですか、それは…?」

身を乗り出してくる子猫に、エリオルはいつものように笑って答えた。
もうじきわかるよ、と。



- 4 -

足が、鉛のように重かった。
地面がぐるぐると回っているように感じる。
そんな自分を励まして、小狼は廊下を歩き続けた。夕食までに、少しでも部屋で休んで
体力を回復させなければ。誰にも気づかれてはならないのだ。特に、さくらには。

初めて使った術は、成功だった。
ドア越しに聞こえたさくらの声は、すっかり元気を取り戻していたのだ。
何を言っていたのかは聞き取れなかったが、『ほえぇ〜!!』とか何とか、相変わらずだ。
思い出すと、体中が重く冷たい中、心だけが軽く暖かくなって、小狼は喰いしばっていた
口元を少し緩める。

魔力も、鍛錬も、経験も。何もかもが足りない、今の自分。
それでも、1月前には使えなかった呪文が、今は使える。
1年前にはわからなかった自分の気持ちが、今はわかる。

そうやって、少しでも。
少しづつでも、変わっていけるなら。

誰にも負けないためにではなく、誰かに勝るためにでもない。
たった1人の笑顔を守る。そのためだけにで、いい。


  明日は、今日よりも

  強くなりたいと、思った



                                   − 終 −


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久々に原作アニメベースで、第64話「さくらと吹雪のスキー教室」より。
本編を見ると、小狼君がさくらちゃんのお誘いを断ったのは、例によって告白が不発に
終わった昨夜の会話が気まずかったのが7割(さくらちゃんは全く気にしてません:笑)
エリオル君への対抗意識が3割ぐらいかなぁ〜という気がします。

さくらちゃんと小狼君の魔力って、強さというか容量でいったら圧倒的にさくらちゃん
なんだけど、その使い方…知識や技術は小狼君が上なんだろうなと思います。
さくらちゃんが北島○ヤで、小狼君が姫川○弓みたいな?(←ガラ○の仮面:汗)
もしくはさくらちゃんは海の中で大切に守られ育てられた大粒の真珠で、小狼君は
切磋琢磨されては輝きを増す小粒ながらクオリティの高いダイヤモンドみたいな。
さくらちゃんが努力も苦労もしていないと言うつもりはありませんが、全編を通して
“修行”って雰囲気が無かったのも確かです。実地でぶっつけ本番のスパルタ教育
だったからね…。
元々、魔力を持っていることの意味とか使う目的とかが根本的に違うから、2人を
比べること自体に意味がない気もします。
それを言うなら、クロウ・リードやエリオル君ともですけれど。

要するに、小狼君はさくらちゃんとは違う強さや凄さを持っているのだから、もっと
褒め讃え高く評価して〜!!という願望話です。
エリオル君、よほど気に入ったのか、後半になればなるほど熱心に小狼君を指導
してますしね。当人には、あんまり通じていませんでしたけど。(笑)