清らかな音色



語るべき全てを語り終えたエリンは、ただ待っていた。
禊の場である湯殿。音もなく降る雪。
やがて、薄絹のような湯気の向こうから、硬い声が響いた。

「エリン」

呼ばれて、まっすぐに顔を上げる。
“霧の民”の証である、緑の目さえ伏せずに。

「“降臨の野(タハイ・アゼ)”で、わたくしの脇に立つが良い」

濡れた岩の上に立ったまま、エリンは動かなかった。
白い衣をまとい、冷ややかとも言える目を自分に向ける女性。
灯篭が、くすんだ黄金色を淡く照らし出している。

「そなたは何もせず、ただ見ておれば良い。その自由を与えよう。
 わたくしには、選びようのない自由を…。」

若き真王、セィミヤの言葉。それは、自分が望んだものであった筈だ。
リランを、王獣を戦いの道具にせずに済む。

だが、エリンの心は晴れなかった。わかっているのだ。
それだけでは、何の解決にもならないことは。

自分がリランを飛ばそうと、飛ばすまいと。
人に操られた獣は、“降臨の野(タハイ・アゼ)”を埋め尽くす。
真王が自ら神の座を降り、人に下らねば、武力を持って国を奪うと。
セィミヤが要求にどう答えようと、争いは起こり、血が流れる。
それでも、選ばねばならない。王である彼女に、選ばない自由はない。

「……話は済んだ。下がるが良い」

セィミヤは、エリンに背を向けた。
もう、振り返るつもりは無いのだろう。
王としての威厳と誇りだけに支えられた、自分と幾つも歳の違わぬ女性。
この国の全てが、その細い肩に圧し掛かっている。

自分もまた、“真王”に頼り、縋り、全てを押し付ける者の一人だ。
真実を語ることで、望みを叶えた。自分だけの、望みを。

「…………。」

無言のまま、エリンは岩の上に正座した。
胸に両の掌をあて、額を擦りつける、大公領での最敬礼。
そして静かに立ち上がり、リランに跨った。

飛び立つ時も、真王は空を見上げなかった。
水面に描かれた風紋の中で、石のように微動だにせず、禊の湯に身を浸す。

リランの背で、遠ざかる真王の姿を見つめてエリンは思った。
まるで、嵐に耐える小さな白い花のようだと。


   * * *


夜の闇に風を起こして、リランは王獣舎の外れに降りた。
見張りに見つからないよう、自分の横を歩かせる。
久しぶりに空を飛べて機嫌が良いのか、威嚇音を出すこともなかった。

まるで、昔に戻ったようだ。
自分の左手の指が揃っていた頃。リランとの特別な絆を信じていられた頃に…。

ふっと、エリンの口元が歪んだ。
ほんの数ヶ月前のことなのに、何年も昔に思える。

カザルムで学び、ユ−ヤンや学童達と笑っていた頃。
ジョウンと蜜蜂を追い、花の中で暮らしていた頃。
アケ村で、母と暮らしていた頃…。
王獣という生き物がいることすら知らず、闘蛇の七色に輝く鱗を飽きずに見つめていた自分。
……何もかもが、遠い夢のようだ。


  フッ フッ フッ


警戒するような息遣いが、エリンを現実に引き戻す。
無意識に、胸に下げた音無笛をたぐりよせていた。
青い硝子のようなリランの目。ぱちりぱちりと、規則正しい瞬き。

いきなり牙を剥き出して、笛を食い千切ろうとするかもしれない。
人の体が、命がどんなに脆いか、考えもせずに。
引き裂かれ、血溜りの中に倒れた自分が何故、動かなくなるのか。
リランには、けっして理解できないだろう…。


  フッ フッ フッ


獣に、弱みを見せてはならない。エリンは顔を上げ、真っ直ぐに歩く。
冷え切った右手の中の、小さく固い手触りを頼りに。


ようやく帰り着いた王獣舎の前では、ヌックとモックが待っていた。
抜け出した時と同じように、重い扉を開けてくれる。

「リラン、入って」

エリンの声に、だが銀色の巨体は動こうとしなかった。
見下ろす目。凍るような空気を、白く染める獣の呼吸。
雪の中を歩いた所為か、背中に滲む汗が冷たい。耳の奥がじいんと鳴る。
エリンは、手にしていた音無笛を持ち上げた。


「入りなさい。……早く!!」


ぷいと身体の向きを変え、リランは扉をくぐる。
エクとアルの姿を見ると、鳴き声を上げた。
それに答える、より低い音と高い音。竪琴に似た、音色。


  ロンロン ロロン ロン


檻に入ったリランを見届け、エリンは王獣舎の中を見回した。
イアルの姿はない。
一日、身体を休めた彼は、エリンが禊の場へ向かったのを見届け出て行ったのだろう。

戦うために。

傷を負った身で、たった一人になっても、真王を守ろうと。
最後まで“盾”であろうとしている。
それは既に、忠誠心でも義務感でもなく、彼自身の意志なのだ。
自由より、人並みの幸福より、剣を選んだ。

そして、今。真王もまた、戦おうとしている。
彼女の心を縛る“清らかな王”という檻を破るために。
婚約者であるダミヤと対決し、その罪を裁く決意を固めるために。
何も知らぬまま、神の末裔でいる安寧より、人の王として国を変える困難を選ぶのだ。

……では、私は?私は何をしているの?
   何かをしようとしているの…?

エリンは自身を省みる。

嫌なことから逃れるために、心地良くあるために。
他人に戦いを押し付けているだけではないか?
自分が拒んだ何かが、巡り巡って誰かを苦しめ、不幸にしているのではないか?
そんな気が、してならない。

………私は…、何を“選んだ”の…?

リランを、人が生み出した掟の中に縛りたくなかった。
自分が、掟に縛られたくなかった。
空を翔る王獣のように、自由でありたかった。

その代償に、命を失っても後悔はない。今も、その決意は変わらない。
思い定めていた筈なのに、心が揺らぐ。

エサル師や、カザルムの教導師達、生徒達までもを危険に曝して。
少女のようなあの女性(ひと)を、苦しめて…。

それでも、流されるのは嫌なのだ。他人の思惑に従わされるのは嫌なのだ。
生きて、幸せになってと言った母の最後の願いより、己の“心”だけが可愛いのだ。

エリンは、藁の上で膝を抱え込んだ。
小さなアルが近づいてきて、甘え声を出す。
いつもなら竪琴で答えるのに、手に取ることが出来ない。

清らかな音色だと、イアルは言った。
亡くなった父親の形見だった筈の竪琴を、勝手に作り変えてしまったエリンに。
今さらに、苦い痛みがせり上がり、口元を押さえる。

清らかさとは、弱さだ。
エリンは、思う。
この国のように、真王という御位のように。
代わりに傷つき、血塗れになる誰かの犠牲で守られている。
その犠牲すら知らずにいるからこそ、“清らか”でいられるのだ。

目の前に惨い傷を負った兵士の姿を突きつけることで、真王に訴えた大公の長男。
ならば、己の“心”の犠牲になっているのは誰なのだ…?


  シャシャシャシャ


甘え鳴きを続けるアルに、エリンはようやく竪琴に手を伸ばした。
目を閉じて、曲を奏でる。昨夜、イアルの求めに応じて弾いた曲だ。
だが指先が震え、旋律が乱れる。惑い、迷う音。

エリンには、自分が奏でるその音色が“清らか”だとは思えなかった。


   * * *


“降臨の野(タハイ・アゼ)”は、裏切りに裏切りが連なり、血みどろの戦場と化していた。
真王の命令に背いた“堅き盾(セ・ザン)”。
大公に…、父と兄に背いた弟。
最初から、何もかも仕組まれていたのだ。
エリンが最後まで王獣を使うことを拒んだとしても、全てが手の内に転がるように。

「これが“人間”というものだ!!我々神に連なる者の手のひらで、動くのが定め…。
 清らかな真王こそが、この国の要。
 “大公領民(ワジャク)”ごときに、この国を救うことなど出来ない!!」

イアルに押さえつけられたまま、あざ笑うかのように叫ぶダミヤ。
ギラギラとした目は、真っ青な顔で立ち竦むセィミヤだけを見つめている。
王祖ジェになぞらえた、“清らかな女”を。
ぞっとするような悪寒を覚え、エリンは視線を転じる。
だが、目の前の光景に、セィミヤ同様立ち竦んだ。
それは彼女達が生まれて初めて見る、この国の、人間の、戦わされる獣の“現実”だった。

闘蛇と闘蛇がぶつかり、喰らい合うように牙を剥く。
跳ね飛ばされた人間が、大地に叩きつけられた次の瞬間に踏み潰される。
悲鳴と咆哮。肉の塊が転がり、荒野が赤く染まる。混ざり合う、人と獣の血。

「誰か…」

か細い、声。咽(むせ)るような、闘蛇の甘い匂い。エリンは眩暈を感じた。
真王の御座船が襲撃されたのを、丘の上から見ていた。
その時と似ていて、違う。まるで、違う。

「シュナンを、誰かシュナンを助けて!!」

セィミヤの悲痛な声。それは、イアルに言っているのだろうか?
それとも、自分を裏切った兵士達に?どちらにしても、この距離では間に合わない。
闘蛇の大群は、既にシュナンの背後に迫っている。

だが、リランならば…。

エリンは、手袋の中の指の欠けた手を握り締めた。
引き攣れた傷が、痛む。

できない、と。エリンは思った。
誓ったではないか。けっして、リランを戦いの道具にはしないと。
真王も、許してくださった筈だ。禊の場で、言ったではないか。


 『そなたは何もせず、ただ見ておれば良い。その自由を与えよう』


だから、見ているだけでいい。
ここで何もせず、ただ、見ているだけで…。

血が、凍るように冷たくなった。心臓が軋みを上げる。
禊の場へ向かう途中、現れた霧の民の男は何と言った?
それに、自分は何と答えた?


 『私は、ずっと見守っていた。ソヨンが死んだ時も、ずっと見ていた…』


その声が、どれ程の痛みに満ちていようと。
自分と同じ緑の目が、深い悲しみに沈んでいようと。
吐き捨てた言葉を止めることなど、出来なかった。


 『見ていた、“だけ”…?』


鋭い怒りと、冷え切った侮蔑。
そこに居るのがアケ村の人々でも、祖父でも、同じように睨んだろう。
母を、自分を見捨てた人間を…。


「シュナンを助けて、誰か…!!」


打たれたように、肩が震える。
真王の声は、愛する者を目の前で失おうとする者のそれだ。
シュナンが次の大公だから、政略結婚の相手だからでは、ない。
今、この瞬間、彼女の頭には国の未来も、自分の立場も、誇りさえも無いのだ。
侍女達がその肩を、衣を抑えていなければ、自らが飛び出しかねない程に。

牙を剥く闘蛇の群れの中に、取り残された人。
踏みにじられ、喰われるのを待つばかりの、ちっぽけな人間。
為す術もなく、消えていく命。


 『お母さん、お母さん、お母さん…!!!』


あの日の恐怖。悲しみ。そして、母への想い。
まざまざと蘇る記憶に、エリンは喘いだ。
全身から汗が吹き出る。脚の震えが止まらない。


 『お母さん、死なないで!!わたしを置いて行かないで!!一人にしないで!!!
  お母さん、お母さん…ッ!!!』



……エリン!!

はッと、目を見開いた。母の声を聞いた気がした。
だが、目の前に居るのはダミヤを羽交い絞めているイアルだ。
獲物の首筋に剣を押し当てながら、真っ直ぐにエリンを見つめている。
感情を削ぎ落とした、意志だけが在る眸。


 『ためらうな』


落ち着いた静かな声が、蘇る。
リランの心に近づこうとする彼女の、その背を押した言葉が。

何故、ためらっている?
取り残されたあの人を救うために、リランを飛ばすことを。
己に問う。そうだ、自分はずっと問い続けていた。“何故?”と。

何故、“王獣規範”に従わねばならないのか?
何故、獣を野にあるように育ててはならないのか?
何故、獣と意志を通じてはならないのか?

掟、掟、掟…。
蜘蛛の糸のように張り巡らされた、心を縛る音無笛。
母が、そして彼女が嫌い続けたもの。

何故…?
もう一度、己に問う。己が答える。
“降臨の野(タハイ・アゼ)”で、奇跡を演じるためにリランを飛ばさない。
そう決めたからだ。……人である、自分が。
けれど。


 『命を救うためには、ためらってはいけない時がある』


ぷつりと、何かが解けた気がした。
黒に近い鳶色の目が、頷いたように見える。
気がつけば、エリンは半狂乱のセィミヤの前に進み出ていた。

「私が、まいります。
 大切な命、私が救えるなら」

けっして、それを命じなかった彼女は、呆然と目を見開いた。
涙に濡れた黄金色の眸。踵を返す背に、二つの声が届く。
一つはダミヤの乾いた笑い声。そして、もう一つは。

「ありがとう、エリン。ありがとう…!!」

余りにも素朴な、感謝の言葉。
人が人に奏でる音の中で、これほどに美しい響きがあることを知らなかった。
……いいや、違う。


 『お母さんを助けてくれて、ありがとう』


ずっと、奏でたかった。自分が、誰かに。


   * * *


翼の一振りで風を起こし、二振りで身体が浮き上がる。
手綱を握り締め、エリンは心で呼びかけた。


……リラン、私はあなたを使う。
   脅迫されたからでも、命令されたからでもない。私の意志で、あなたを使う。
   けれど、あなたが私に従うのは、私が命じるから。音無笛を吹かれるのが嫌だから。
   それが私とあなた。人と獣との関係…。


エリンは音無笛を握りしめた。
リランが、その動作をじっと見つめている。
天敵を近くにした興奮で、赤く染まりつつある目で。

救ったつもりで、愛したつもりで。縛り、犠牲にしていた命。
冷たく乾いた風の中に、涙が引き千切られていく。


……終わったら、音無笛を捨てるから。
   自由におなり、リラン…。私から、自由に。


そうして己を縛り、己が縛った全てから解き放たれた時、奏でる音色は
“清らか”であろうとなかろうと、自分だけの音色に違いない。
残してきた竪琴を思い浮かべたエリンは、微かに笑う。

風の彼方に、母の指笛を聞いた気がした。



                                   − 終 −


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(以下、反転にてつぶやいております。※長いのでご注意ください)

アニメ終盤の第47話「清らかな夜」から第49話「決戦」までのあれこれ。
好みで色々変えておりますし、原作からのイメージも混在しています。

アニメ版ではソフトに修正されていますが、原作で読むエリンちゃんは、
大変に我の強い女性です。
はっきり言ってエゴイストだし、そんな自分を自覚している。
けれど、願っていることと、実際に取る(取れる)行動は矛盾してしまう。
そのことに傷つきながら生きている。若くして、挫折まみれの人生です。
私が「獣の奏者」に惹かれる大きな理由なのですが、正直、アニメには
向かないし、どうするのかと思った矢先、大変わかりやすく表現されて
「なるほど!!」と思いました。
第22話「竪琴の響き」でのイアルのセリフですね。
なので、エリンちゃんはリランで人助けするとき、絶対思い出すんだ!!
…と、期待してたら見事に2度ともスル−されました。
悔しいので自分で書いてやる!!
……書き始めは、ただそれだけの話だったりします。

書いていてつくづく思いましたが、エリンちゃんとセィミヤさんは、
とてもよく似ています。
「この世がどれほど穢れていようと、私“だけ”は、そんなモノに関わり無く
 気高く生きたいの!!」
と、激しく自己主張し、譲らないあたりが。…いや、笑い事じゃなくて。
あと、当人の認識に関わらず、一方的に“清らか”認定されてるところ。
政治的意図もあるけれど、ダミヤ様は取り付かれたように本気だった…。

そんな彼女達の伴侶となる男性が、争いや権力のど真ん中にいて、
自身が血に塗れているのを自覚しているのは象徴的です。
あと、守ろうとはしているけど、醜い現実を隠そうとしないこととか、決定は
彼女任せにして放置しがちなところとか。(笑)
アニメでも原作の「V・W」でも、気が合う…というか、ある種の信頼関係が
築かれているシュナンとイアル。
真面目で苦労人で我の強い嫁に手を焼いていて…。
それはそれは親近感が育まれることでしょう。
嫁同士は、立場とか思惑とか色々あって、何というか微妙でしたけど。

真面目な話。エリンちゃんもまた、この世界の認識とは違う理由と必要とで
王獣(リラン)を“清らか”な存在にしてしまい、それに縛られている気がして
なりません。
人は、縛られている何かが、自分を捧げるに足る価値があると信じている
時が最も幸せなのだと思います。
それが人であれ、国であれ、名誉であれ、仕事であれ、獣であれ。
価値を見失えば、迷い、苦しみ、絶望する。
人の言う自由は、せいぜいが自分を縛る何かを選べるかどうかの自由。
それすら選べなかったり裏切られたりする人間から見れば、生存と繁殖の
本能だけに従う自然界の生き物は、“清らか”以外のなにものでもないの
かもしれません。
別に、王獣でなくともね。