天の雫 地の泉



「今一度、申してみよ」

謁見の間に響く声は、固く強張っていた。
僅かな灯りに照らされた水面が、襞となって揺れている。
その向こうで、剥き出しの床に平伏した男は、静かに繰り返した。

「本日をもって盾たる身を返上したく、真王(ヨジェ)陛下のお許しを願う次第です」

今度こそ、聞き違えようがなかった。目の前の男は、己の元を去りたいと言っているのだ。
絹の衣の上に置かれたセィミヤの手が、強く握り締められた。


   * * *


“降臨の野(タハイ・アゼ)の再臨”……と、人々が呼ぶ出来事からニヶ月。
今も彼女の耳を離れない声が、瞼に焼き付いて消せない顔がある。

セィミヤ、と。己の名を呼ぶ優しげな声。
女のように白く、優美な手に握られた短剣。


  『そうはさせないよ、セィミヤ……』


幼子を甘やかすような口調は、聞き慣れたものだった。
だからだろう。その時、彼女の口をついたのは、物心ついた頃からの呼び方だった。


  『……おじさま』


漆黒の鎧を身に付けた背が、彼女を後ろに押しやった。
朝日を浴びてきらめく刃は、前に立つシュナンを狙うものだった筈だ。
だが熱を帯びた目は、まばたきすら忘れて彼女だけを見つめている。
シュナンの腰に剣はなかった。やめて、と。心が上げた悲鳴は、声にならない。

その時、一陣の風が舞ったように見えた。
“神速”の名に相応しい速さで、シュナンとダミヤの間に飛び込んだイアルが
剣を大きく横になぎ払ったのだ。

セィミヤが我に返った時には、ダミヤは既にこと切れていた。
血で黒く染まった大地に、青い衣に、最後の雪が静かに降り積もる。


  『わたしの可愛いセィミヤ』


忘れられないのは、花のように鮮やかで毒のように甘い声。
虚ろに見開かれた、彼女と同じ淡褐色に近い色の目。
そして、もう一つ。
ダミヤの遺体を見下ろすイアルの、表情のない冷たい横顔。

祖母を謀殺した男が垣間見せた狂気よりも
獣と人とが繰り広げた地獄のような殺し合いよりも
自分とシュナンを護ってくれた筈の男を、セィミヤは恐ろしいと思ったのだ。

怒りも欲もなく、淡々と人を斬る。
そんな人間が、僅かな空気を隔てて存在しているということに。


真王と新大公を救ったイアルは、謀反人の疑いを解かれ、“堅き盾(セ・ザン)”の
隊長として復職した。
ダミヤの手勢にすり替えられていたとはいえ、唯一の身を護る術であった彼等に
“降臨の野”で裏切られた記憶が生々しいセィミヤは、真王の命に背いた護衛士
など無用だと思ったが、貴族等の説得に折れたのだ。
侍従を通して真王の命を受けたイアルは、速やかに逃亡または投獄されていた
元の仲間を集めると共に、若い護衛士を抜擢し、“堅き盾”を再編した。

短い間にそれを為した手腕は、先の功と併せて褒め称えられるべきものだ。
数日前、婚姻の儀のために王宮入りしたシュナンは、イアルの姿を認めると、
にこやかにそう告げていた。
だが、彼女はあれ以来イアルと直に言葉を交わすことはなく、また警備に立つ
護衛士等の顔をまともに見ることもなかった。


そんな折の謁見の申し出は、婚儀の際の警備か、昨日早速生じた大公配下の
兵士との小競り合いの件だろう。
どちらも真王として、知らずには済ませられない話である。
だからこそ、胸の奥の嫌悪を押さえ、人払いをした上での謁見の願いに応じたのだ。

だが、イアルが口にしたのは、セィミヤの予想もしない言葉だった。


   * * *


彼女が謁見の場に選んだ部屋は、“水の間”と呼ばれている。
即位して間もなく、まだ大公軍が祖母を殺したと思い込んでいた頃に、シュナンの
訪問を受けたのと同じ場所だ。
ここは本来、戦場から戻った火急の使者……血の穢れを纏う者……との間を水を
満たした堀で隔てることで、真王の清浄さを保つためのものだ。
同時に、この間を使うことは相手に『お前は穢れているのだ』と告げるに等しく、
真王にとって友好的ではない相手との謁見にも使われる。
シュナンがそうであったように、この間の意味を良く知る筈のイアルは、平伏の姿勢
を崩すことなく、彼女の言葉を待っていた。

セィミヤには、自覚があった。
己を護る要である筈のイアルを避け、軽んじたのは自分だと。
彼を疎ましく思い、遠ざけようとしていたのだと。
にも関わらず、イアルの言葉を聞いたセィミヤが感じたのは、怒りだった。


……そなたは、わたくしを見捨てるのか!?
   これ以上、わたくしには仕えられぬと言うのか!?
   わたくしを王とは認めぬのか……!?


口にすれば、己の未熟さと力の無さを認めたも同じだ。唇を引き結び、険を含んだ目
で男を見下ろす。
指先で衣に皺を刻み怒りをやり過ごした後、セィミヤの中に残ったのは、冷ややかな
確信だった。


……結局、この者にとっての“真王(ヨジェ)”は、お祖母さま一人なのだ…。


かつて、身を挺して暗殺者の矢から祖母を救った男。
祖母もまた、イアルをことのほか信頼し、隊長に取り立てた。
彼が警護に立つ時は、よく笑みを浮かべて話しかけていたのを覚えている。
孫の自分に対するのとは少し違った、深い慈愛をその顔に浮かべて。


……だから、おじさまを……わたくしの唯一の肉親を手に掛けたのだ。
   あれは、わたくしを護る為などではない。
   この者にとっては、主君の仇を討ったに過ぎないのだ……。


今も瞼の裏に浮かぶ。
虚ろに濁ったダミヤの金色の目と、それを見下ろすイアルの黒い鋼のような目。


  『“神速のイアル”ともあろう者が、武人でもないダミヤ様を生かして取り押さえる
   ことが出来なかった筈があろうか』
  『最初から、隙あらば斬り捨てるつもりで潜んでいたのだろう』
  『前真王陛下を弑(しい)した大罪人とはいえ、王族に連なる方の血を流すとは、
   畏れ多いことを……』



嫌でも耳に入ってくる、王宮の貴族達の囁き。それらが彼女の心を一層、頑なにする。
セィミヤにも、わかってはいた。
あの時、あの場でダミヤを斬り捨てたイアルの判断は正しかったと。
争いを忌み血を穢れとする“清き真王”である彼女には、どれ程の大罪人であっても
ダミヤを死罪にすることは出来ないのだから。
ましてや王族の血を引くダミヤへの最も厳しい処遇は、せいぜい国外追放だ。
しかし、彼に従った者の多さを考えれば、それが将来に禍根を残すのは明白だった。
何もかもを理解していながら尚、目の前で地に伏したダミヤの顔が忘れられない。
彼女の名を呼ぶ声が、頭から離れないのだ。

祖母を殺したことや、自分を箱庭に閉じ込めて人形のように愛そうとしたことが事実で
あったとしても、祖母を亡くした彼女と共に泣いてくれたのも、笑顔を取り戻させようと
心を砕いてくれたことも、彼女にとっては真実だったのだから。
幼い頃から父のようであり兄のようでもあった肉親を、一度は伴侶にと選んだ相手を
手に掛けた男を忌まずにいることなど出来はしない。

だから、これは自分にとって良いことなのだと、セィミヤは己に言い聞かせた。
これでもう、この男の顔を見なくて済む。あの光景を思い出して、背筋の凍るような
想いをせずに済むではないか。
握り締めた手の力を抜いたセィミヤは、長すぎる沈黙の果てにようやく言葉を発した。

「そなたに聞きたい」

それでも声は固く、堀を満たした水の上を滑っていく。イアルの背が、主の問いに応じ
て上げられた。
感情を浮かべない男の顔から僅かに視線を逸らせて、セィミヤは後を続ける。

「盾を辞してどう生きる。
 市井の中で妻を娶り子を為して、静かな暮らしを望むか」

特に、深い意味があっての問いではなかった。漠然と、緑の目を持つ娘のことが
頭に浮かんだからかもしれない。
幾つか言葉を交わした後、適当な労いと共に去らせれば良い。そのための場繋ぎ
のつもりだった。

「……それを望むには、余りに人を殺めすぎておりましょう」

たぷんと、男と己とを隔てる水が揺れた。
安易な問いかけへの返答は、その佇まいに相応しく淡々としている。
だが、言葉の意味する事実に、セィミヤははっと息を呑んだ。

男が手に掛けたのは、ダミヤだけではない。
“神速のイアル”は誰よりも多くの刺客を倒して来たのだ。そのほとんどが大公領の
人間であったことが、昨日の小競り合いの一因でもあったのだと聞いている。
それを告げたシュナンの、苦渋に満ちた声音を思い出した瞬間、セィミヤは御座に
置いた身体を震わせた。

見えたような、気がした。かつて、水の向こう側に立っていた者達。
シュナンが彼女に引き合わせた、戦で傷を負った大公領の兵士。
腕を、脚を、目や耳を失い、顔を焼け爛れさせて。
生涯癒えぬ傷を負ったまま、この先を生きていかねばならない者達の姿が。


  『あなたさまは、これまで誰に護られてきたと思っておられるのですか!?』
  『その目で、御覧になる勇気がおありでしょうか。
   この国を護ってきた者達が、どのような姿をしているかを……』


目の前の男も、大公領の兵士と同じだ。
その傷が、目に見えるものではないというだけで、気づこうとさえしなかった。
僅かな空気を隔てて彼は、……彼等はずっと傍にいたのに。

「わかった」

己は何もわかっていないのだと思い知った上で、セィミヤは言う。
もうそれしか、告げるべき言葉はないのだと悟って。

「そなたの任を解く。これまでの盾としての勤め、大儀であった」

イアルは再び、深く平伏した。
セィミヤは御座から立ち上がり、衣擦れの音を立てながら退室する。
最後に垣間見た姿は、深い森のような静けさを湛え、伏したまま微動だにしない。
その様は、かつて禊の湯殿に現れた緑の目の娘に、どこか似ている気がした。


   * * *


普段は深い森の奥に住まう真王が、王都に最も近い宮に姿を見せることは珍しい。
婚儀の準備や真王領の統治状況を調べていたシュナンとその配下は、何事かと
仕事の手を止めた。

「何でもないわ、シュナン。
 ただ少し、王都の様子を見たいと思っただけなのです」

セィミヤの言葉に、古くから王宮に仕える者達が露骨に落胆して見せる。
彼等は、婚姻前から我が物顔でのし歩く大公等を真王が諌めに来たと期待した
のだろう。そんな貴族達を無視して、シュナンはセィミヤを王都の大通りを望む
窓へと誘った。
王冠の上から薄いヴェールを被り、金褐色の髪を隠した彼女を、遠目から真王と
見分けるのは難しいだろう。
それでも背後に控える護衛士…“堅き盾”は、もう少し下がるようにと忠告した。
頷き、二歩下がったセィミヤに、シュナンは僅かに驚きの目を向ける。
彼女が小さく、ありがとうと言ったからだ。
まだ若い護衛士は、それこそ仰天した様子だったが、年嵩の護衛士の咳払いで
動揺を押し殺した。

シュナンは笑みを浮かべ、彼女が見ているものと同じものを見ようとする。
そろそろ日が傾き始め、王宮に出入りする職人や下働きの者達が家路を急いでいた。
若い緑の匂いを含んだ風は、雨が近いのか濃く湿りを帯びている。
宮から通りへと流れていく人々を金色の目で追いながら、囁くような声が呟いた。

「わたくしは、なれるのかしら……。この国を守る盾に」

シュナンは隣に立つ白い横顔を見つめる。
今日、イアルがセィミヤから“堅き盾(セ・ザン)”を退く許しを得たことは知っていた。
それより前に、王宮入りした彼は内々に本人から聞かされてもいたのだ。
むろん引きとめようとしたが、イアルの意志は固かった。また、こうも言っていた。
自分はもう、居ない方が良いのだと。

「貴女は、一人ではありません」

か細い肩に寄り添うようにして、シュナンもまた低く囁く。
護衛士達が気配を消したまま、数歩後ろに下がった。

降り始めた雨が、密やかな音を立てて薄絹のように眼下を覆う。
それぞれの暮らしへと、足早に戻っていく人々。深笠や雨避けの布を被った中に、
きっと紛れているのだろう。
誰からの賞賛も褒賞も拒み、独り静かに王宮を去る男の背も。


やわらかな天からの雫は緑を潤し、蕾を膨らませていく。
花々が咲き揃う頃に花嫁となる娘は、花婿となる青年の胸に身を預けて目を閉じた。



                                   − 終 −


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(以下、下の方でつぶやいております。)













ほぼ一年前(汗)に書いた「天の翼 地の絆」の対として思いついたのが
セィミヤとイアル…という取り合わせです。
イアルがセィミヤをどう思っていたかは、様々な意味でとても心配していたし
気遣ってもいたことがわかるのですが、ではセィミヤがイアルをどう見ていた
かは、さっぱり分からないないままでした。
エリンがイアルと通じて、自分を騙そうとしているんじゃないか、とか疑って
ましたしねぇ…。
だからといって、ハルミヤ真王を見て育っているので、
 『護衛士なんか空気と同じ』
というのとも違うようです。

深窓のお姫様ですから仕方のないこととはいえ、この時期はまだまだ未熟な
お嬢ちゃん女王です。
それではいけないと自覚しつつも、一朝一夕に成長できるものでもありません。
本来は聡明なので、自分基準の考え方や感情に振り回されなくなったら賢君に
なるんだろうな。
原作W(完結編)でも中々の為政者ぶりを見せておられますし。
でも、それまではシュナンが苦労するんだ…。

原作V(探求編)でも少し書かれていますが、イアルが“盾”を辞めた事情には
セィミヤ真王が絡んでいたようです。
まあ、大半は彼自身の意志だと思いますけれど。
アニメ版では、セィミヤさんを妹に置き換えていたような節があるので(頭の中
を読まれていたら不敬罪:笑)自分を見ると辛いことを思い出すだろうから……
と思ってシュナンの王宮入りを契機に退いたのかなぁとか。
退職後は、ひっそり竪琴(原作では指物師なので箪笥とか)を作って余生(!)
を送るつもりでいたらしく、エリンが押し掛け女房しなければ、本当にそうなって
いた可能性大です。まだ二十代なのに。
それでもエリンには敵わなかったようで、色々となし崩しに押し切られたんだ
ろうなぁ〜やるなぁ、エリン……とか思いながら原作V(探求編)を読んでいた
私でした。