先 触



21時を過ぎたファミレスは、週末ということもあって大勢の客で賑わっていた。
家族連れやカップル、学生のグル−プ、仕事の打ち合わせをするビジネスマン。
明るい照明の下では様々な人間が、食べることと喋ることに忙しく口を動かしている。

壁際に座る弥子もまた、食べることと喋ること。そして笑うことに忙しかった。
情報誌の編集部に勤める母は、泊りがけの取材。
家政婦の美和子も休みだったので、久しぶりに父と二人だけで食事に来ていた。

一級建築士である父は、一人娘の弥子に普段から甘い。
食事に行くと、好きなものを何でも頼んでいいと言ってくれる。
いつもなら真っ青になって止める母もおらず、華奢な外見に見合わない彼女の食欲は
全メニュ−制覇を達成する勢いだ。
それに、このファミレスはドリンクバ−が充実している。
今日の目当ての期間限定シチリア産100%ブラッドオレンジジュ−スは、これで38杯目だ。
グラスに並々と注がれた、トマトジュ−スと見まごうほどの鮮やかな赤。
すっきりした甘さと酸味とのバランスが絶妙で、いくら飲んでも飽きることが無い。

「あ−、もう。どうしてドリンクバ−のグラスって、こんなに小さいんだろ?
 バケツだって全然OKなぐらいなのに〜」

豪快なセリフをつぶやきながら席へ戻る弥子だったが、その視線には落ち着きがない。

「新メニュ−は真っ先に押さえたけど、やっぱり定番メニュ−も捨てがたいよね〜。
 あとはデザ−トメニュ−を一通り…。ああ、あのケ−キも美味しそう〜vv」

ウェイトレスが運ぶ料理に目を奪われた弥子は、ふいに通路の角から現われた人影に
グラスを庇って身体を竦めた。

……ぶつかるッ…!!

きつく目を閉じて両足を踏ん張り、次に来る衝撃に備える。
何としても、ジュ−スをこぼすことだけは避けなければ…!

ふわりと、何かが髪に触れた。服の袖か、指先かもしれない。
鼻先をかすめる煙草の香り。
…感じたのは、それだけだった。

「余所見して歩いてっと、危ね−よ」

竦んだままの弥子の頭上に降ってくる、抑揚のない声。

「すっ、すみませんでした!!」

向き直ると同時に、弥子は頭を60度の角度に下げる。
歩きながら半分に減らしていたのが幸いし、ジュ−スがこぼれていないのにホッとした。
お気に入りのカ−ディガンとマフラ−はともかく、相手の服を汚さずにすんだのだ。
それに、こんな絶品ジュ−ス。床に飲ませるなんて、もったいない。

「…ん」

間延びした一音を返して、煙草の香りが遠ざかる。
顔を上げた時にはもう、相手は弥子に背を向けていた。
皺だらけのくたびれたス−ツで、予想通り背が高い。
肩を斜めに傾けたダルそうな雰囲気の割に、軽く受け流すように弥子を避けた。

……どんなお仕事の人だろ…?

顔を見ておけばよかったな、と。なんとなく思った。
見たからといって、何がどうなるわけでもないのだが。

「弥子」

父の声に、弥子はくるりと振り返る。
テ−ブルの上には、追加で頼んだ明太子パスタと季節のフル−ツパフェが待っていた。

「今行く〜♪」

ジュ−スのグラスを手に、弥子は満面の笑顔を浮かべる。
周囲からは顰蹙を買う食欲を笑って見ていてくれるのは、大好きな“お父さん”だけなのだ。


   * * *


壁際の禁煙席から通路に隔てられた、奥まった喫煙席。
少し離れているが、少女の甲高い声は竹田の耳まで良く届いた。

「ん−、美味しい!ここのパフェはフル−ツも缶詰や冷凍じゃなくて、フレッシュなのが売りだし。
 アイスのクオリティも高いし!!」

湯気を立てるパスタを横に、少女はまず、フル−ツパフェを攻略しはじめる。
一口ごとに感想を述べながら食べる様を、竹田は瞬きすら忘れて見つめていた。
彼女の周囲だけがスポットライトで照らされたように、明るく輝いている。
少なくとも彼の目には、そう映っていた。

今までにも、竹田は何人もの表情に魅せられてきた。
結婚式の打ち合わせをする青年の、婚約者を見つめる蕩けそうな顔。
息子の一流大学合格を祝う両親の、誇らしげな顔。
愛らしい孫から誕生日のプレゼントを渡された祖父の、愛しげな顔…。

幸せに満ち足りた眩いほどの笑顔が、彼を惹きつけるのだ。
その表情が怒りと悲しみに塗り潰される様を、間近で見たくて堪らなくなる衝動を伴って。

警察官にあるまじき歪んだ欲望から目を背けようとしたことも、
押さえ切れず犯した罪に苦しんだこともあったが、それも過去の話だ。
認めてしまえば楽になる。己の手で己の人生を悦びで満たすことが出来る。
こんな簡単なことに気づかない人間が、世の中には多すぎるのだ。

「……竹田さん?」

正面から呼ばれて、我に返った。
声に混じる訝(いぶか)しさがわかるのは、感情表現の乏しい部下とコンビを組んで
もうじき4年になるからだろう。

そういえば、前の“加工”はこの男と組んで間もない頃だった。
思い出しながら、携帯の着信に席を立っていた笹塚に、竹田は柔和な笑顔を見せる。
それは彼にとって演技ではなく、ごく自然なことだった。

「……すまんな、少しぼんやりしていたようだ。
 報告書はこんなもんだろう。お前は仕事が早くて助かるよ」

ある程度まとめた内容に、今日の聞き込みでの修整を書き込んだ下書きを示し、
親子ほどに歳の離れた部下を褒める。
笹塚は無表情のまま、竹田の前に座った。

「それじゃ明日、出しときます」
「ああ、頼む」

事務的な会話の合間にも、竹田の目は少女へと引き寄せられてしまう。
2分と経たずにパフェを平らげた少女は、今度はパスタを幸せそうに頬張っていた。
だが、その笑顔はピンクの制服を着たウェイトレスの背中に遮られてしまう。
竹田は内心で舌打ちをした。

「おまたせしました。ビ−フシチュ−のオムライスに、クラブハウスサンドイッチ、豚の角煮丼、
 半熟卵のシ−ザ−サラダ、蟹とレタスの炒飯…」

果てしないメニュ−の羅列に、残り少なくなったコ−ヒ−へと視線を戻した竹田は、ぎくりとした。
彼の視線を追ったのだろう。笹塚が少女の方を眺めているのだ。
上司としての贔屓目を抜きにしても、笹塚は刑事としての勘が良い。
前の“加工”の時も、それ以前に竹田が関わった未解決事件との関連を指摘した程だ。
彼は目の前の男の横顔を固唾を呑んで見つめた。

「…苺のパンケ−キ、レアチ−ズタルト、クリ−ム白玉あんみつ、抹茶と和三盆のム−ス、
 タピオカ入り杏仁豆腐、マンゴ−プリン…」

追加注文の読み上げは、ようやくデザ−ト類に入ったようだ。
深い溜息を一つ吐いて、鋭さの欠けた無気力な目が戻ってくる。
どうやら余りの注文量に呆れただけらしい。
笹塚の位置からもウェイトレスが邪魔になり、少女の姿は見えていない筈だった。

「お前もそんなものばかり吸っていないで、少しは食った方がいい。
 今夜も酒とツマミを晩メシ代わりにするつもりか?そのうち本当に身体を壊すぞ」

席を立ったついでに、レジの横にある自販機で買ってきたのだろう。
本日3箱目の煙草の封を切る笹塚に、コンビを組んで何百回目かわからない苦言を呈する。
笹塚は何時ものように、軽く肩を竦めただけだった。

殺害手口と被害者に共通点が見当たらないことを理由に、竹田が笹塚の指摘を否定したときも、
色素の薄い眸には不満の色は浮かばなかった。
上司に背いて事件を追う情熱があれば、竹田は今頃、笹塚の手で逮捕されていたかもしれない。

薄っぺらな笑顔のウェイトレスが、コ−ヒ−サ−バ−を手に近づいてくる。
このファミレスにはドリンクバ−があるのだが、コ−ヒ−だけは店員のサ−ビスとなっていた。
笹塚は緩慢だが用心深い動きで資料を片付け、3杯目のコ−ヒ−が注がれるのを無表情に
眺めている。

彼も、かつては家族と友人に囲まれ、順風満帆な未来を約束された青年だったのだ。
10年前、捜査資料として預かったまま返さなかった写真を、竹田は今も持っている。
真っ直ぐにこちらを見て笑う青年と、澱んだ視線を投げかけてくる部下とを見比べることで、
言い知れぬ悦びを味わうのだ。
この数年、新しい“加工”の欲求に駆られなかったのは、笹塚が傍に居たからだろう。
打ちのめされ、追い詰められたままで10年を生きることなど、並の人間に出来はしないのだ。

だが、今は…。

テ−ブル一杯の料理とデザ−トを嬉しそうに食べる少女に、竹田はそっと視線を送る。
一点の曇りもないあの笑顔は、どんなふうに変わるのか。想像するだけでゾクゾクした。

同時に竹田は少女の向かいに座る、父親らしき男の観察も怠らない。
娘と共に車で来ているのだろう。アルコ−ルの類を口にせず、何杯目かのコ−ヒ−を前に
少女の食いっぷりに目を細めている。

彼女を目の前の男以上に素晴らしい表情にするためには、自宅を突き止める必要があった。


   * * *


私服警察官として、笹塚の3倍の経験を持つ上司は、ファミレスが気に入っているらしい。
捜査の合間の昼飯や打ち合わせに良く利用する。
空々しく明るい雰囲気は苦手だが、喫煙席が分けられていることは笹塚には有難い。

店に入ると、竹田はできるだけ店内を広く見渡せる席を選ぶ。
そこでテーブルを埋める家族連れを嬉し気に眺めているのだ。
竹田もまた、家族を亡くして独りだと知っている笹塚は、上司の密かな楽しみに
口を挟む気はなかった。

だが、今日の竹田の様子は少しおかしい。
短いやりとりの間に何度も注意がそれるかと思えば、じっとこちらを見る。

……疲れてんだろうな。竹田さんも歳だし。

口にも表情にも出さず、笹塚はまたぼんやりしだした上司の顔を紫煙越しに眺めていた。
数日前に確保した殺人犯の自供の裏づけに、一日中都内を走り回ったのだ。
定年まで10年を切った竹田には、労働基準法を無視した捜査一課の激務は堪えるのだろう。

……遠回りだが、竹田さんを送ってくか。それから警視庁に車を戻すとなると…。
   “酒”が手に入るのは日付が変わる頃だな。

煙と共に溜息を吐く彼に、当の上司が声を掛ける。

「笹塚、ここで直帰して構わんぞ。車は私が戻しておこう」

それまでの心ここに在らずの様子とは一変した、しっかりした口調だ。
煙草を手に動きを止める笹塚に、見慣れた柔和な表情が声を落とす。

「お前は今夜、行きたいところがあるんだろう?」

相手を観察し洞察することに関しては、竹田の方が上手だった。
体力的な衰えは否めないが、犯人の自供や関係者の証言を引き出す巧みさは
警視庁一と定評のある大先輩から学ぶことは多い。

笹塚は、ポケットの中の携帯を握りしめる。
馴染みの情報屋と交わした会話は、短く簡潔だった。


   『とびっきりの“酒”が入ったんですけど、今晩いかがです?』
   『……了解。ボトルキープで頼む』


同じようなやりとりを数え切れないほど交わしたが、情報屋が提供する“酒”が笹塚にとって
役立つものであったことは少ない。
それでも、他のあらゆるものへの情熱と引き換えに、ただ一点にのみ絞られた意志だけで
呼吸を続けているのが今の己なのだ。

笹塚は、まだ半分残った煙草を灰皿に押し付けた。
10年前、彼の両親と妹が惨殺された事件を担当した竹田は、それが未解決のままであることに
責任を感じているのだろう。
笹塚の行動を黙認し、時には協力もしてくれる。
だが、笹塚が法を犯したとき、例えそれが辞表を出した後だとしても、上司である竹田は
責任を問われるだろう。

……誰も、巻き込むべきじゃない。

僅かに残る人間らしい感情が、心の底で低く囁く。
だが、それよりも遥かに強い意志が、己の偽善を嘲笑うのだ。

……誰を巻き込もうと、構わない。

そう決めた筈ではなかったか、と。

顔を上げた笹塚の前には、痛ましいものを見る目があった。
それは、錯覚かもしれない。竹田はただ、彼の表情を食い入るように見つめるだけだ。
気だるい身体を椅子から引き剥がし、笹塚は席を立った。

「……じゃあ、お先に。支払いは済ませときます」
「ああ、すまんね。私ももうじき出るよ」

レジの前では、丁度5〜6人のグル−プが一人づつの支払いを始めていた。
順番を待ちながら何気なく振り返ると、テーブルに頬杖を付いた竹田は、また
あらぬ方向を眺めている。

……大丈夫かよ、竹田さん…。

思わず席に戻ろうとした笹塚は、竹田の視線を追って足を止めた。
次から次へとテーブルに料理を並べている父娘連れ。
竹田が見ていたのは、いつも同じ方向(モノ)だったのだ。

この位置からは後ろ姿しか見えないが、明るい色の髪は、さっきぶつかりかけた少女のようだ。
鉛筆のように細い手足、ぎょっとするほど短いスカート、甲高い声。
いかにも今時の中高生だが、言葉遣いや礼儀はきちんとしていた。
結局、顔はロクに見ていないが、指先にはふわふわした髪の感触が残っている。

竹田はまだ、少女を見つめていた。
あんな娘が、あるいは孫がいたらと。そう思っているのだろうか。

…ふと、何の脈絡もなく幾つかの顔が浮かんだ。

養子に出した我が子を誘拐した、若い母親。
一方的に想いを寄せた女性を、数年に渡り監禁した男。
「欲しい」ものを次々と強盗という手段で手に入れた大学生。

笹塚が手錠をかけ、取り調べた連中だ。
年齢も罪状もまちまちで、何の共通点もない。
…ない、筈だ。


……罪悪感の欠片もなく所有欲だけを剥き出した、あの目…。


「お客様?」


レジ係の声に、我に帰った。

「……奥の喫煙席で…。まだ連れは残ってるけど、支払いは先に済ませとく」
「はい、かしこまりました」

釣りを受け取って顔を上げると、こちらに気づいた竹田が軽く手を挙げている。
いつもどおり穏やかな笑みを浮かべて。
捜査一課の最古参で、若手の面倒見が良く、誰からも“親父さん”と慕われる人格者。

笹塚は小さく頷いて、照明の下の色鮮やかな空間を後にした。



   明るい色の髪
   甲高い少女の声
   何かに憑かれたような、竹田の顔



笹塚が、それ等の記憶の断片を引き出すのは、数週間後のことだった。



                                   − 終 −


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(以下、下の方でつぶやいております。)












謎喰い魔人のネウロを引き寄せ、女子高生探偵が誕生するきっかけとなった
弥子ちゃんのお父さんの殺人事件。
竹田が弥子ちゃんを“見初めた”夜のファミレスに、笹塚さんも居合わせていた
可能性はありそうです。
この事件に関連する話は、また違う形でも書いてみたいと思っています。
明るい話には、なりようもありませんが…。(涙)

「原作設定」枠では原作のエピソ−ドとエピソ−ドの間や、背景などに勝手な妄想を
巡らせた話を書いていく予定です。
笹塚さんと弥子ちゃんの登場率が高くなりそうですが、では「笹ヤコ」なのかと
いうと、そうであるような、ないような…。(汗)