逢 魔



病室の隅にある、小さな棚。
白一色の部屋を彩っていた菓子の山は、跡形もなく消え失せている。
今日の午後、訪れた女子高生が残らず食べ尽くしたのだ。

あれほど美味そうに喰ってもらえれば、同僚からの見舞いの品々も本望だろう。
華奢な見た目にそぐわない喰いっぷりを思い出し、笹塚はベッドの上で目を細めた。

彼の代わりに大量の食物を胃に収めた女子高生の名は、桂木弥子。
世間では“探偵”として有名だが、少々(?)食い意地が張っているだけの普通の女の子だ。
たまった見舞い品を理由に彼女を呼び出したのも、危ないことに首を突っ込まないよう
釘を刺すのが目的だった。

言っても無駄なのはわかっているが、言わずに後悔するよりマシだ。
同僚から入ってくる話によれば、“電子ドラック”の件で、あちこちに出没しているらしい。
暫く前には、探偵事務所に鉄球が突っ込む事件があった。
その犯人も、まだ捕まっていないと聞いている。

病室に現れた桂木弥子は、以前と変わらず元気そうに見えた。
事情聴取で丼タワ−を築いたという食欲も健在で、目を輝かせて菓子の箱に頬擦りする。
だが、笹塚が探偵業の話をふると、たちまち顔を曇らせた。

……恐らく、助手と何かあったのだろう。

彼女の様子から、笹塚はそう推測する。
溜息を一つ吐いて、禁煙パイポを口から離した。
電動式のベッドをゆっくりと倒し、部屋の明かりを消す。
まだ高校生の補導も出来ない時間だが、他にすることが無かったのだ。

絵石家邸で重傷を負った笹塚の入院は、1ヶ月になろうとしていた。
消毒薬の臭いも、すっかり鼻に馴染んでいる。

煙草も携帯も没収され、絶対安静を言い渡された彼には、考える時間だけがあった。
だが、笹塚の人生の大部分は、考えても仕方の無いことで占められている。
“女子高生探偵”の存在も、その一つだ。

打算と現実、警察官としての信念、個人的な事情から来る罪悪感、手前勝手な感傷…。
何を優先させるべきなのか。
その時々で行き当たりばったりなまま、今まで来てしまった気がする。

自分でも、わかってはいるのだ。選択肢が2つあることは。
どんな手段を使ってでも、あの子に探偵を辞めさせるか。
でなければ、あの子の探偵としての能力と知名度を、徹底的に利用するか…。

そこで彼の思考は、出口を見失う。
いや、出口を見つけること自体を放棄してしまうのだ。

堂々巡りに疲れて、笹塚は目を開けた。日付は変わっているのだろうが、朝はまだ遠い。
闇の中、ヤニ汚れの無い天井が青白く見えた。
ベッドに横たわったまま首だけを動かすと、少し間を置いて呟く。


「………………驚いた」


溜息に紛れた低い声に、ト−ンの高い答えが返る。

「とても“驚いた”ようには見えませんが。
 相変わらずのご様子で何よりです、笹塚刑事」

窓際に佇む、背の高いシルエット。闇に慣れた目が、その姿を捕らえる。
鮮やかな青いス−ツ、胸元の白いスカ−フ。
前髪を黒に、毛先を緑に染めた金の髪。
見間違いようのない派手な風貌。“女子高生探偵・桂木弥子”の助手だ。

「……面会は、10時からなんだけど…。」

ゆっくりと肘を引きつけ、上体を起こしながら口にする。
深夜にも関わらず、やたら爽やかな声での返事があった。

「どこから入ったのか…とは、お尋ねにならないのですか?」

助手の後ろで、白いカ−テンが夜風にゆれる。ガラス窓が半分開いているのだ。
笹塚は無作法な見舞い客に溜息を吐く。

「まあ、見ればだいたいわかるし。
 そういえば、窓閉め忘れたかな−……とか、思ったから」

この病室が何階にあるかは、面倒だからツッコまない。
助手の男は、つまらなそうに小首を傾げた。
毛先についた飾りが、チリリと音を立てる。

笹塚はベッド脇のテ−ブルに片手を伸ばした。
煙草が欲しいところだが、やむを得ず禁煙パイポを咥える。

「………あんた、確か…」

味気ない呼吸に眉を寄せ、一旦言葉を切った。
複雑な顔で大福を頬張っていた少女。
昼間、菓子と果物を食べる間に、あの子は何度も繰り返していた。


  『事務所は、………に任せてますから』
  『“電子ドラッグ”の件は、………の方が熱心みたいで』


そう…、確か。最初に会った時にも名乗った筈だ。
喫茶店で起こった毒物による殺人事件の現場。
彼と、彼の上司だった男の前で。


  『僕は助手です!!この“名探偵”桂木弥子先生の!!』
  『先生の推理を“代弁”させていただく、僕は……』



「……脳噛…、ネウロ」



口にした瞬間、助手の顔から愛想が消えた。
大きく吊り上がる唇の両端。三日月の形に歪む目元。
“笑い”を模(かたど)った表情は、能面のようだ。

「取るに足らない助手である僕の名前まで覚えていただけるとは…。
 光栄の極みです、笹塚刑事」

よく通る声が、鼓膜の奥で反響する。笹塚は無意識に腹に力を込めた。
くっつきかけた肋骨が悲鳴を上げて、彼の意識を揺さぶる。
プラスチックの細い管が、微かに震えた。

「………で、何の用?」

笹塚の問いに、助手は再び無意味な愛想を纏(まと)う。
いつも通り、慇懃無礼の見本のような口ぶりで捲くし立てた。

「昼間は意地汚くて遠慮の無い先生が、大変お世話になったとか…。
 是非、僕からもお礼に伺わねばと思いまして。
 それにしても食べ物で釣るとは、さすがは笹塚刑事。良くわかっていらっしゃる。
 先生も、それはそれは喜んでおられて…。
 すっかり忘れられた僕は、1人淋しく事件の調査をしていた次第です」
「……もしかしね−でも、あんた。俺に怒ってんの…?」

意外なような、納得するような…。奇妙な感慨を抱きながら、笹塚は言った。
助手の顔が、わざとらしく驚いた表情をつくる。
黒い手袋を嵌めた手が、ひらひらと蝶のように舞った。

「“怒る”だなんて、とんでもない誤解です…!!
 いつもコッソリ現場に入れていただいたり、事件の情報を提供していただいたり。
 先生も僕も、笹塚刑事には心から感謝していますのに。
 今回も先生に、貴重な情報を吹き込んでいただいたようですね。
 おかげさまで、タダでさえ怠惰で愚鈍で不精な先生は
 『今回の事件は、“名探偵・桂木弥子”の活躍すべきステ−ジでは無いッ!!』
 …などと、ワケのわからないことをおっしゃる始末で」

………しっかり怒ってんじゃね−か…。

笹塚はツッコむ代わりに溜息を吐いた。
恐らく、警視庁でもヒグチを中心に、“電子ドラッグ”の対策を進めていると話したことが
気に入らないのだろう。
あの子自身、“探偵”に疲れていたように見えたから、この件から手を引かせるために
後押しを狙ったのも確かだが…。
その間にも、小姑のような厭味の羅列は延々と続いている。

「笹塚刑事にとっては、それこそ願ったり叶ったりなのでしょうけれど。
 貴方は先生が“探偵”であることに、以前から否定的でしたから。
 それを知っていてフラフラやって来たということは、先生も食べ物に釣られたというより
 笹塚刑事に釣られたところもあるのでしょうねぇ…。
 まったく、どんな“天才”にもスランプはあるというのに。
 ましてや先生のような“大天才”ともなれば、迷いも底無しの地獄の泥沼のように深くて
 当然だというのに…。
 知ったような口で、先生の輝かしい才能を台無しにしようとする輩が世間に多いのは
 本当に嘆かわしいことです」

心底哀しげな息を吐いて、助手はようやく言葉を切った。
右手でパイポを持った笹塚は、ゆっくりと口を開く。

「……あのさ、前から気になってたんだけど」

どこかしら楽しそうに見える助手の顔を。緑の目を。
ぼんやりと眺めながら、後を続ける。


「何度も会ってる筈なのに。
 俺、あんたの名前と顔、なかなか覚えられね−んだけど。……何で?」


昔から、笹塚には少し変わった癖があった。
相手が作る会話の流れから、微妙に外れた受け答えをするのだ。
日常では誤解を招く悪癖だが、仕事の上では利点になる。
相手に会話の手綱を取らせないのが、取調べの基本なのだから。

「何で?…と、言われましても…。
 やはり30代ともなれば、記憶力も鈍ってくるのではありませんか?」

無邪気な素振りで困った顔をする男。
深緑の目は、さっきから一度もまばたきをしていない。

「俺だけなら、それで納得するけどさ…。
 あんたらに関わった、他の誰に訊いても同じだった。
 女子高生探偵の推理を“代弁”した助手を。そんだけ派手に人目を引くキャラのあんたを。
 忘れるワケじゃねぇ…。“気にしなく”なっている」

笛吹、筑紫、ヒグチ、石垣…。
誰もが、口にするのは“女子高生探偵・桂木弥子”のこと。
得々と推理を語った助手の話は出ない。
事件解決直後に、その印象の大半が消えているのだ。


 『あの時、他にも誰かいたような気がする』
 『だが、事件を解決したのは“女子高生探偵”だ』
 『大した問題じゃない』


…と。
そして調書には、“探偵助手・脳噛ネウロ”の記録は残らない。
書いた者も、読んだ者も。誰も疑問に思わないのだ。
笹塚自身でさえ、ここで1ヶ月を過ごすまでは。



「どうやら貴方とは、“お逢いしすぎた”ようですね」



その声は、直接脳髄を揺らした。
能面の笑み。どろりと渦を巻く、深緑の虹彩。
窓際から一歩も動いていないのに、目の前に迫ってくるような…。


「刑事という職業柄、普通の人間より疑り深い習性があるのは、考慮したつもりでした。
 ですから貴方の前では、いつも“波長”を強めておいたのですけれど…。
 貴方は予想以上に、思考する力…“集中力”と言うのでしたか…が、高いらしい。
 その上に個人的な事情から、先生を案じる強い意思が加わった…と。
 そんなところでしょうか?」


指先からパイポが滑り落ちる。
シ−ツの上で跳ねて、リノリウムの床を転がっていく。
その音を、遠くで聞く。


「これ以上、脳に強く干渉すると、色々と問題が出てくる可能性が高いのですが…。
 丁度良かった。
 先生の貧相なお顔が売れたおかげで、協力的な警察の方も増えてきましたし。
 貴方が先生にとって害にしかならないのであれば、“ずっと”入院していただくのも
 手だと思っていましたから」


その両眼は、嵌め込まれた緑柱石のように無機質だ。
憎悪でも快楽でもない。路傍の小石を蹴るように、“邪魔だから”取り除くのだ。

全身が粟立ち、冷たい汗が吹き出るのがわかる。
怪我で動けないとか、銃が無いとか。そんな次元の話ではない。
“X(サイ)”と相対したときにすら、感じなかったもの。
異質の、未知の、理解を超えた、圧倒的な存在。
それをただ、呆然と見上げて息を呑む。身の竦むような……、畏怖。

「………あ…んた、は…ッ」

指一本動かせない状態で、笹塚は辛うじて声帯を震わせる。
目の前のコイツは何なのか?“X(サイ)”と同類なのか?
自分をどうするつもりなのか…?
この場面で口にすべきことは、幾らでもあった筈だ。
だが、薄い唇から搾り出されたのは


「弥子ちゃん、が……必要、なのか…?」


どろりと絡みつき、圧し掛かかっていた見えないモノが、止まる。
能面のような顔が解れて、ゆっくりと動く。
整った容貌に浮かんだのは、今までで一番自然な“笑み”だった。


「もちろんですとも…。“先生”あっての僕ですから」


どさり と、笹塚の体がベッドに沈んだ。
血の気の失せた顔には、玉のような汗が浮かんでいる。
頭を枕に預けたまま、天井を仰いで大きく息を吐いた。


「………なら、別にい−か…」


助手の男が何であろうと、何を目的にしていようと。
それで、あの子が護られるなら。
…不思議なことに、彼は男の言葉を微塵も疑わなかった。

「笹塚刑事、貴方は実に面白い。そういえば以前、先生がおっしゃっておられました。
 貴方のような人間を、“いい人”というのだと」

助手の声を聞きながら、笹塚は苦笑を漏らす。
汗が染みて、目が痛んだ。

「……んじゃ。“いい人”から、もう一つ言っときて−んだけど…」

助手の返事を待たず、パジャマの袖を瞼に押し当て後を続ける。
自分がどうなるのかわからない今、言うべきことは言っておかなければ。

「あんた、容疑者の頭ン中をいじくんの、やめてくれね−か?
 後で色々と面倒なんだよ。
 調書作んのも、上に報告すんのも、……起訴に持ち込めなくなんのも。
 あんたには、ど−でもいいことなんだろうけど。余罪の追及も、出来なくなる」

闇からの答えは無い。窓から入る風が、甘ったるい匂いを運ぶ。
咲きすぎた百合のように、澱んだ…。

「『女子高生探偵が関わった事件の犯人は皆、頭がおかしくなる』
 ……なんて噂が立ったら、あんたも困るんだろ?
 これ以上、事例が増えれば上層部(うえ)も黙ってね−ぜ」
「……フム。それは常々我輩も考えていたことだ。
 貴様ともう一匹の奴隷の使い道を、工夫せねばならんとな」

傲慢な口調。それは真上から降り注いだ。
ぎくりと、思わず腕を払いのける。滲む視界を覆う緑の渦。
揺れる金の飾り。天井を踏む黒い靴。


「笹塚刑事。今夜は貴重なお話を伺い、大変参考になりました。
 それでは僕は失礼しますので、ゆっくりとお休みください。
 ………そう、ゆっくりと…」


黒い手袋を嵌めた手が、目の前で動く。
まるで、黒い鳥が羽ばたくように………

急激な、睡魔。
瞼が落ちる瞬間に笹塚が見たのは、クチバシから覗く鋭い牙と紅い舌だった。


   * * *


魔帝7ツ道具の“朽ちる世界樹(イビルツリ−)”は、オフィスビルを貫通する穴を開けていた。
数階分を突き抜けた真下に倒れる犯人を眺め、ネウロはいつもの助手口調で言う。

「ふう、ひどい地震でしたね。
 しかし不幸中の幸い。彼は、より多くの家具と一体になれたようですよ」
「………確かに、そ−だけど。なんかも−、メチャメチャだな」

下を覗いた笹塚も、いつもの気だるげな調子で応える。
突然の地震にも、普段から血色の悪い顔色が変わることはない。
だが、ふいに色素の薄い眸をこちらに向けた。


「……一応、頭の中身は大丈夫みて−だしな」


その呟きは低く、 腰を抜かした弥子にも頭を抱えて震える石垣にも、聞こえない筈だ。
事件(しょくじ)の後は興味なさ気に周囲を映しているだけの緑の目が、焦点を結ぶ。

一瞬、視線が交錯した。


「さっさと起きろ、石垣。まず救急車だ。それから所轄に連絡して応援を頼め。
 ……弥子ちゃんも、怪我はないみて−だな」

ネウロに背を向けた笹塚は、まだ震えている石垣を蹴って後始末の指示を出す。
それから、ヨロヨロと立ち上がる弥子に声を掛けた。

「……や、大丈夫です。
 すごい地震だったから、ちょっとビックリしただけで…。あははは」

地震がネウロの仕業だと知っている弥子は、冷や汗にまみれている。
引き攣り笑いを浮かべた顔を、笹塚は無言で見つめていた。


その様子を眺めながら、ネウロはゆっくりと舌なめずりをする。
“謎(しょくじ)”ではなくとも、面白い“人間(どうぐ)”の存在は彼を楽しませてくれるのだ。


………明確な記憶ではないのだろうが、どうやら“覚えて”いるらしい。
     とりあえず今は、このままでよかろう。
     だが、あの男の扱いは、いずれ考えねばなるまい。
     その点でも、“我が奴隷(ヤコ)”が役に立つかもしれんな…。


溢れる唾液を、見えないクチバシが音を立てて呑み込んだ。



                                   − 終 −


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***************************************
  2008.6.14 本文を一部修正しました。
(以下、反転にてつぶやいております。)




魔人様、深夜に笹塚さんのお見舞い。
…というシチュエ−ションは他所様の二次創作でも拝見しているのですが、敢えて
自分でも書く勇気。
恋愛感情以外(または未満)のベクトルでの“笹→ヤコ←ネウ”です。
しかし半歩間違うと、“ネウ笹”になりそうです。(笑)

弥子ちゃんが“探偵”であることに、どちらかといえば否定的だった笹塚さん。
魔人様が彼を排除も支配もしなかったのは、笹塚さんの存在が弥子ちゃんの成長を
促す一面を持っていることと、笹塚さん自身が非常に“興味深い人間(どうぐ)”だから
だろうなぁと思います。

笹塚さんは笹塚さんで、入院中に
『弥子ちゃんのことは、(助手に任せておけば)大丈夫』
…と、気持ち的に“割り切れる”心境になって、それで退院後は積極的に探偵業に
協力する踏ん切りがついたのではないか、と。
魔人様が何かしたというよりも、笹塚さん自身の無意識の意志…だといいなぁ。
基本的に笹塚さんの協力姿勢って、どこまで弥子ちゃんの安全が確保できるかに
左右されているようです。
人間ならともかく、“X(サイ)”とか血族相手では、自分じゃ守りきれないことを嫌と
いうほどわかっているだけに。
…突き詰めて考えると切ない…。(涙)

ちなみに魔人様のお召し物は、特注(?)の“無気力な幻灯機(イビルブラインド)”織。
半径10mから離れたとたん、着ていた者の存在が“記憶の印象から消える”仕掛け。
魔人様の正体(本性)を知っている弥子ちゃんや吾代さん、早坂兄弟、“HAL編”後の
ヒグチ君には効かない。薄々気づいている笹塚さんには効きにくい。
……という裏設定の説明を文中に入れたかったのですが、上手く入らなかったため、
こんなところで失礼を。(汗)