幻 痛



弥子は、走っていた。
走っていた。

力の限り走っているのに、身体が前に進まない。
まるで冷たい水の底でもがいているようだ。


……あれ…?
   なんで、私…。


息を切らせながら、思う。


……魔人(アイツ)からの、いきなりの呼び出し?
   期末テストに遅刻しそう?
   それともス−パ−のタイムサ−ビス…?


頭がぼんやりして、思い出せない。
なのに、足を止めることができない。

息が苦しい。
耳鳴りがする。
心臓が潰れそうだ。
伸ばした腕は鉛のように重く、指先に触れた鉄格子の冷たさも感じない。

錆の浮いた金属の柵に、遮られた向こう。
それを視界に入れた瞬間に、記憶が弾けた。


……笹塚さん!!


捜していた。
ずっとずっと捜して、やっと…。

浮かびかけた安堵は、一瞬で悪寒へと変貌する。

地面に膝を着いた笹塚は、誰かに髪を掴まれ引き起こされている。
見慣れない黒い服は、べったりと濡れて。
コンクリ−トの床に拡がっていく、血。

心臓の音が、うるさい。


……しっかりして、笹塚さん!!
   い、今、警察の人いっぱい呼んだから…!!


こんな時、なのに。
カラカラに乾いた口から出たのは、何の足しにもならない幼稚な言葉。
あれだけの出血に、意識すら朦朧とした笹塚の耳には届かない。
その傍らに立つ、人でない生き物は自分など気にも留めない。


 「……で、話は変わるが。
  実はな笹塚衛士…、おまえが私を待ち構えていたのではない。
  私がおまえを呼んだのだ」


ドロリとした、猛毒そのものの声で。
彼の10年を…、弥子には想像もつかない時間を。
打ち砕き、無意味なものへと変えていく。


……ダメ…。


両手の中でビクともしない鉄の棒。
笹塚の頭に向けられる銃口。
叫びたいのに、声が出ない。


……笹塚さん…、やだ。


 「最高のショ−をありがとう、笹塚衛士」


息が苦しい。
瞬きすら、できない。


……お願い、やめて…



   『弥子ちゃん』



……私が、もっと早く気づいていれば…!
   もっとちゃんと、笹塚さんを見ていれば…!!


『名探偵』と呼ばれて、心のどこかで自惚れていた。
『信頼している』と言われて、いい気になってその言葉を鵜呑みにした。
結局、何も見えていなかった。いや、見ようとすらしなかった。
感じていた筈の違和感すら、素通りしたのだ。

彼という人間を、何も知らぬまま。
勝手に決めつけて、都合よく思い込んで。
自分の愚かさを知る代償は、あまりにも



   『弥子ちゃん』



笹塚の顔が、動いた。
色素の薄い眸に、弥子を映す。
今までに見た、どんな時よりも血の気の無い顔色。
なのに、その口元も目元も、やわらかくて。
それは初めて見る、彼の本当の…



   『弥子ちゃん、俺は』



黒髪の少女が告げる。
小鳥のような声で。


 「もういいよ、パパ」



   『俺は……』



 「では、バイバイ」             ドンッ!!


呼吸(いき)が、止まる。
心臓の音も。

“悪意”の口が動くのを、ぼんやりと見ている。
血溜りに倒れ動かない身体を、視界の端に映しながら。

声は聞こえない。
いや、聞こえる。
どこか、遠くから。



   『弥子ちゃん』『弥子ちゃん』『弥子ちゃ…』



耳を、塞ぐ。
鉛のような腕を動かして、氷のような指先で。
ちぎれろとばかりに。



   『……子ちゃ…、……は……』



目の前が、暗くなっていく。
自分で瞼を閉じたのか、誰かに目を塞がれたのか、…それとも気を失ったのか。

わからない。



………いやだ…、やめて聞きたくないやだ見たくないやだいやだこんなのもういやだれか
笹塚さんどうしてやだいやだれかうそだっていってよわるいじょうだっていってよこんなこと
ささづかさんがささづかさんがささづかさんがささづかさんささづかさんこわいやだたすけて
つめたいやだいやくらいやだこわいやだやだやだいやだいやああぁ            !!













「……生きてる、だろ?」


両手で覆われた耳元に、笹塚は告げる。
弥子には届かないとわかっていても、口にせずにいられない。
ベッドの中で強張る細い身体を、後ろから抱きしめながら。


「あれから…、10年経ってる」


やわらかな髪を頬に感じながら、繰り返す。
どれほど大声で怒鳴っても。肩を強く揺さぶっても。
夢の途中で、弥子が目を覚ますことはない。

笹塚の腕を拒むように膝を引き寄せ、背中を丸める。
まるで胎児に還ろうとするかのように。
石に、なろうとするかのように。


「……今は、弥子ちゃんも“笹塚さん”になってる」


耳を塞いだままの左手に、自分の左手を重ねた。
それぞれの薬指に光る指輪。
人一倍体温の高い彼女の指先が、氷のように冷たい。


「子どもも2人いて…。
 どっちも母親似で、元気すぎて手がかかる」


家事と子育てに追われ、少し荒れた手の甲を包む。
両手を耳から剥がしたい衝動を堪えて。
無理に現実に引き戻そうとすれば、弥子はその爪で自分自身を傷つける。
二度と、試みる気にはなれなかった。


「…………弥子ちゃん」


泣くことも叫ぶこともなく。
呼吸(いき)さえ潜め、縮こまる彼女。
夢の中でさえ、全ての感情を埋めてしまう。
誰も触れることの出来ない何処かへ。

10年前の彼女もそうだったと、後から聞いた。
20年前の彼に良く似ていたと、古い友人は言った。


「……弥子ちゃん、俺は…」


ぴくりと、弥子の肩が震える。
深い、呼吸。血と涙を吸った古い空気を吐き出すように。
まるで、産声を上げない赤ん坊のように。

それは目覚めではなく、より深い眠りへの合図だ。
夢すら見ない眠りへ。
“夢を見た”ことさえ忘れるほど、深く…。


「……………俺は……」


腕の中で強張っていた身体が、ゆっくりと解(ほぐ)れていく。
規則的な呼吸。笹塚の手に委ねられた指先に、戻ってくる温もり。
今はもう、彼の方が体温が低い。それでも、抱きしめた身体を離せない。

ずっと傍にいると誓うことで、幸せになることで。
彼女を“過去”から解放したかった。
だが、弥子は夢を見続ける。恐らくは、これからも。
笹塚が今も、20年前の夢を見るように。


「………………………。」


強く、奥歯を噛みしめる。
右目が抉られるように痛む……気が、した。
10年前に失われ、今はプラスチック製のそれに痛覚などある筈が無いのに。
過去の記憶が脳を揺さぶる。


「………衛士…さ…」


ふいに、薄く開いた唇が彼を呼んだ。
いつもどおりの呼び方で。


「弥子?」


覗き込むが、目を覚ました気配は無い。
どうやら寝言らしい。
幼い子どもにするように頭を撫でると、肩に額を寄せてくる。



……いつか。
夢魔に心を喰い破られる日が来るのだとしても。
幻の痛みに、耐えられなくなる日が来るのだとしても。
今は、まだ…。



左目に映る安らかな寝顔に、笹塚は“家族”だけに見せるやわらかな笑みを浮かべた。



                                   − 終 −


※ 幻痛(げんつう):ファントム・ペイン(Phantom Pain)
             切断した手足や指、神経を抜いた歯など、失われた身体の一部に
             麻痺感や疼痛、激痛を感じる現象。
             脳が過去の状況を記憶して、発生させているといわれる。


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  2009. 5.10  ネタバレ注意書を削除しました。
(以下、反転にてつぶやいております。)

第180話以降、頭の中をぐるぐる回る数限りない妄想イメ−ジの一部断片寄せ集め。
生存設定ではあるけれど、大団円ではない。そんな笹ヤコ未来図。

細かい状況や経緯も色々考えましたが、くどくなるので極力省略。
それにしても二次創作脳内でさえ、笹塚さんは徹底して言い訳をしないというか
してくれない人だった…。

強い負の記憶や感情を持ちながら、それらを抱えたまま。
いくつもの傷の痛みに耐えながら。
それでも、平凡で退屈でかけがえもなく貴重な“日常”を生きていて欲しい。
今でもそう思うし、これから先もそう思っているでしょう。
原作が、どんな終わりを迎えたとしても。