慈 雨 − 1 − コックという職業にとって、正直、雨は嬉しくねェ。 湿気は食料保存の大敵な上、パンを捏ねるにも水加減に気を遣う。 仕入れに余計な手間がかかるし、食材の値が上がるのも痛ェ。 トドメに客足が鈍るってのが、最悪の大問題だ。 もっとも、海賊船のコックになっちまった今は、客の入りを気にする必要はねェけどな。 矢継ぎ早のオカワリ攻撃に追い立てられる、昼メシ時のキッチン兼食堂。 本日のメニュ−は、シ−フ−ドと根菜のスパイス・ス−プにハ−ブ入りの焼きたてパン。 食欲をそそる香辛料と魚介類の旨味、そしてハ−ブの風味が互いを絶妙に引き立てる。 我ながら会心の出来の新メニュ−だ。 …しかし、クソ野郎共ときたら。 「サンジィ〜、今度は肉のカレ−にしてくれなッ!!おかわりッ!!!」 「う〜ん、やっぱトロミがねぇとイマイチカレ−を食った気がしねぇんだよな…。あ、おれも」 「カレ−つったら、合わせるのは米のメシに決まってんだろうがクソコック。…もう一杯」 だから、これは“スパイス・ス−プ”だっつってんだろうがッ!! タ−メリックが入ってりゃ何でも“カレ−”なのかよ、オメ−らは!? だいたい、文句があんならガツガツ食ってんじゃね−ッ!!! 繊細な味覚なんぞ期待できねェ連中が大半を占める、ちっぽけな海賊船。 こんな劣悪な環境でコックを勤める俺の日々の慰めは、掃き溜めの鶴にも等しい存在である 航海士のナミさんだ。 「あら、アッサリしてるしヘルシ−っぽくてイイじゃない。ねぇ、ビビ?」 キュ−トな小悪魔風美人の声に、最近紅二点目となった、これまたとびきりの美少女が答える。 「ええ。私の国にもこれと似たようなお料理があって、なんだか懐かしいです」 完璧なテ−ブルマナ−を披露しつつ、気安い笑顔を見せる彼女の素性は一国の王女様だ。 騒々しい海賊船の食卓にも、すっかり馴染んだように、見える。 「ビビちゃん、おかわりはいかが〜vv」 ハ−トを添えて尋ねると、彼女がこの船に乗って初めてのお返事。 「じゃあ少しだけ、お願いします」 作りつけのテ−ブルに並べる食器類が、5セットから6セットに増えて、早数日。 メシを残されたことは無かったが、控え目に盛った一人前をやっとのことで食っている。 その様子が気になっていただけに、野郎共が何と言おうと今日の昼メシは星5つ。 これぞ、コックの醍醐味vv ビビちゃんにス−プの皿を渡してお玉を置いた俺は、程よい満足感に浸りつつ テ−ブルのカラフェからグラスに水を注いだ。 壊血病予防に浮かべたライムの酸味が、咽喉を刺激する。 最初の一杯を一息で飲み干し、二杯目を満たす。 それが空になっても、まだ渇きを感じた。 三杯目を注ぎながらナミさんを見ると、ヘイゼルの眸が丸窓越しに空を伺っている。 ……やっぱ、間違いねェな。多分、もうじき… 「ひと雨、来るわね」 「えっ?」 ナミさんの声に、ビビちゃんが弾かれるように顔を上げた。 長い睫毛に縁取られた大きな眸が、湧き出したばかりの泉の様にキラキラしてて。 …思わず、ゴクリと唾を飲む。 「雨が、降るんですか?」 言葉の意味を味わうかのような、はっきりとした発音。 口の中が干上がって、唇がカサつく。 舌を張り付つかせた俺の代りに、テ−ブルのそこかしこから不満気な声が上った。 「雨かぁ〜。特等席に座れね−し、釣りもできね−し。つまんね〜なッ」 と、のたまったのはクソゴム船長。 船首も船縁も、濡れると滑りやすくて危ねェつってンだろ−が!! カナヅチの分際で、海に落ちたおめェを助けに行くのは誰か、よっく考えやがれ!!! 「チッ、午後は甲板でバ−ベルを一万回ほど振る予定だったのによ」 と、ほざいたのはクソ剣士。 脳ミソまで筋肉化させといて、それ以上どこ鍛えようってンだ!? どっちかって−と、その後の昼寝の場所に困るからじゃねェのかよ、寝腐れマリモ!! 「今日は火薬星の補充をしとこうと思ったのによ〜。雨じゃ火薬が湿気て台無しだぜ」 と、ブツブツ言うのはクソッ鼻。 だからって、男部屋で妙な実験やらかすんじゃね−ぞ!! 今度、部屋で異臭を出しやがったら、おめェをお空の長鼻星にしてやるからなッ!!! 「蜜柑の木に水をやる手間が省けて、あたしは助かるけどね。 そういえば、雪とか嵐を別にして、普通の雨って“偉大なる航路(グランドライン)”に入って 初めてじゃない? どっちにしても、降り出す前に測量を済ませて海図に取り掛からなくちゃ」 さすがは俺のナミすわんvなんて勤勉でいらっしゃるんだ〜vv さあ、レディ−限定デザ−トをどうぞ。 スパイスの後味を消すために、酸味のあるヨ−グルトにマンゴ−のピュ−レを乗せましたvvv ビビちゃんは、何も言わねェ。 デザ−トを置いた時、短く礼を言ったきり、丸窓の向こうを見つめている。 今はまだ、その肩にかかる髪と同じ色をした、雲ひとつない空を。 − 2 − 俺はナミさんみてェな天才じゃね−から、風や嵐のことはサッパリわからねェ。 けど、不思議と雨が降ることだけはわかる。 …まァ、わざわざ言わねェけど。 ガキの頃から、ずっと船の上で暮らしていた所為だろう。 骨の髄まで染みついた“海”とは違う“水”の匂いを それが近づく気配を、…感じる。 咽喉で 舌で 唇で 肌で 何をどれだけ飲み干しても、口に含んでも 消えない渇きとワンセットで。 * * * 少量の水で煮出した紅茶の葉に、たっぷりの牛乳。 それからシナモン、カルダモン、グロ−ブにジンジャ−。ハチミツも少々。 目の細かい布巾で濾して、粗熱が取れたところで氷を詰めたグラスに注ぐ。 …まあ、こんなモンか。 グラス半分ほどに注いだものを味見して、氷の欠片を噛み砕いた。 “南(サウス)”や“西(ウエスト)”あたりの乾燥した土地で飲まれている スパイス入りの煮出し紅茶をアレンジした特製ドリンクは、レディ−限定の特別サ−ビスだ。 グラスを乗せた盆にナプキンを被せて、キッチンのドアを開けた。 相変わらず変わりやすいグランドラインの天気。 ナミさんの予報は違わず、さっきまでの晴天が嘘みてェにどんより曇っている。 甲板に降りたところで空から降ってくる、水。 ポツ ポツ ポツ 水滴が甲板を叩く、微かな音(リズム)。 船独特のタ−ルの匂いが足元から立ち昇る。 頬を撫でる風から、海の香りが薄れていく。 そしてまとわりつく“水”の匂い。 女の肌のように、しっとりと柔らかく。 そして氷のように冷たく…… パタタタッ パラ パラ パラ パラ ぼんやりと呆けていた俺は、ぞくりとする感覚に我に返った。 グラスに被せたナプキンには点々と濡れた跡。 やべ、折角の特製ドリンクが台無しになっちまう。 慌てて倉庫のドアを開けた。 積み上げた箱と樽とユニットバスのドアの前を通り過ぎると、そこには魅惑の世界への扉。 もとい、女性部屋へと続く蓋が俺のノックを待っている。 踵で軽く2度叩き、麗しのレディ−達に告げた。 「スペシャル・ドリンクをお持ちしました〜vv」 「ん〜、開いてるわよ。どうぞ」 ナミさんの声に蓋を開ける。 いつも清潔な室内は、散らかり放題の男部屋とは別世界だ。 壁に掛かった絵に、カラフルな小物の数々。化粧品とシャンプ−の混じった甘い香り。 ああ、やっぱ女の子の部屋ってイイよな〜vv 目尻を下げつつ階段を降りた俺は、そこでようやく気がついた。 部屋に居るのは、机に向かう蜜柑色の髪の航海士嬢一人きり。 「あれ、ビビちゃん居ねェの?」 ペンを止めて振り向いたナミさんは、盆の上のグラスが二つあるのに首を傾げた。 「暫く前に出てったきりよ。キッチンに行ったんじゃなかったの?」 「いや、昼メシの後から見てねェけど」 「雨、もう降りはじめてるんでしょ?おかしいわね…」 俺の髪やス−ツに付いた細かい水滴を見て、ナミさんは壁際に近づいた。 そこは隣の男部屋に繋がった禁断の緊急出入口。 すなわち“開かずの扉”…のハズが、無造作に閂を引き抜いたナミさんは、勢い良く 男部屋への通路を開く。 「ちょっと、そっちにビビ来てない〜?」 「いんや、来てね−」 「昼メシから、ずっと見てねぇぞ」 クソゴムとクソッ鼻の、のん気な声。 ナミさんが野郎共と話すために緊急出入口を開けるのは、実は珍しいことじゃねェ。 キャミソ−ルの肩越しに覗けば、ウンザリするほどムサ苦しい俺のねぐら。 床には船長がどっかから拾ってきた蛇の抜け皮やらセミの抜け殻やら。 加えて狙撃手の工具やら絵の具やら、腹巻剣士の筋トレグッズやらが散らかり放題。 そのど真ん中で、ガキ共はトランプ遊びに興じている。 …二人でババ抜きやって、何が面白いんだか…。 その奥では、クソマリモがビビちゃんの超カルガモを枕に鼾をかいていた。 結局、どこででも寝るんじゃね−かよ。 「カル−を置いて、一人で何処に行ったのかしら…?」 ナミさんの表情が曇る。 傍で見ていてもわかるくらい、ナミさんはビビちゃんのことを心配していた。 だからこそ、食が進まない彼女のためのメニュ−作りにも、あれこれ協力してくれる。 おかげで、ビビちゃんの故郷が乾燥した砂漠の国だっつ−情報もゲットできたワケだ。 「おっ、ビビいね−のか?んじゃ、コレも−らいっと」 言うが早いか、みよ−んと伸びてくる手。 “学習”という文字すら知らねェゴム船長から、俺はすかさずグラスを死守した。 「クラ!!レディ−の食いモン飲みモンに手ェ出すなっつってんだろ−が!? 晩メシ抜きにすんぞ、クソゴム!!!」 情けない顔で手を引っ込めた船長を横目で睨み、俺はナミさんに最高の笑顔を捧げる。 「ああ、ナミさん。キュ−トなお顔をそんなに曇らせたりしねェで!! 行方不明のお姫様探しは、この騎士にお任せを〜vv」 振り向いたナミさんは少し考えて、それからニンマリと笑った。 − 3 − 倉庫に積み上げられた樽や木箱の影、風呂場兼トイレの中、格納庫…。 女部屋を出てあちこち捜したが、ビビちゃんの姿はねェ。 一旦戻ったキッチンにも、誰かが訪れた様子はなかった。 氷が溶けて水っぽくなったグラスの中身を空にすると、味よりも香料の匂いが鼻に残る。 空のグラスをシンクに残し、もう一度、雨に濡れに出て行った。 * * * 後部甲板の蜜柑の木蔭、前部甲板の船首、、階段下の物置…。 船中を走り回っても、何処にも居ねェ。 ……マジで、冗談じゃねェぞ…。 背中を流れるのは水滴じゃなく、冷たい汗だ。 黒々と濡れた甲板と手摺り。 もし、足を滑らせて海へ落ちたとしたら…。 それとも、思い詰めすぎて海に吸い込まれるように。 どっちにしたって、こんな海の真ん中じゃ二度と見つからねェ。 畜生!! 何だって、こんなちっぽけな船の上で、彼女を一人きりにしちまったんだ!? このままビビちゃんが消えちまったら、俺は一生、悔やんでも悔やみきれねェ。 無駄とは知りつつ、俺は船縁から身を乗り出して海面を覗いた。 どこまでも続く鉛色が、空から降る透明な針を吸い込んでいるだけの景色を。 サアアアァ… 低い吐息に似た音だけが、濡れそぼった世界に響いている。 ……クソッ!! 両手で船縁を握りしめた。 湿った木材がミシリと音を立てる。 その時、 「サンジさん、さっきからあちこち走り回って、何か捜してるんですかぁ−?」 頭の上から、水と一緒に声が降ってきた。 * * * 最初に落ち着いて考えてりゃ、もっと早くに気づいてたかもしれねェ。 男部屋に揃っていたクソ野郎共。だとしたら、今、“見張り”をしているのは誰だ? まだ慣れねェ“偉大なる航路(グランドライン)”での航海に、大事をとって碇を下ろしちゃいるが いつ、何が起こっても不思議じゃねェのが“海”だ。 俺達に危険な航路を選ばせたことを気に病んでいるビビちゃんが、自分から辛い仕事を かって出るのは、いかにもありそうなことだった。 「え−と、もしかして…。私を捜してた、……とか?」 マストを見上げて固まる俺に、さすがに気づいたらしいビビちゃんが言う。 その表情に、ナミさんのニンマリ顔が重なった。絶対、途中で気づいたに違いねェ。 もしも、これが野郎なら。 『紛らわしいマネすんじゃね−ッ!!!』 …と、蹴りのニ、三発はかましただろう。 もしも、これがナミさんなら。 『よくぞ御無事で〜〜ッvvv』 …と、ハ−トの山を目いっぱい添えて、狂喜乱舞して見せただろう。 それじゃあ、見張り台で濡れ鼠になったお姫様には、どんなリアクションを? 「傘も差さねェでそんなトコに居ると、濡れちまうよ?」 気づいたら、とっくにずぶ濡れの彼女に向かって、マヌケたセリフを言っていた。 「サンジさんこそ」 ビビちゃんが、はにかんだ顔で笑う。 それで何時もの調子を取り戻し、軽く誘ってみる。 「見張りは休憩して、キッチンでお茶でもいかが?プリンセス」 今なら暖かい飲み物の方がイイだろう。 ジンジャ−とハチミツを多めに、他のスパイスは控え目に…。 特製ドリンクのレシピを練り直す俺に、ビビちゃんは見張り台の上から返事をした。 「すごく嬉しいんですけれど…。雨が止むまで、ここに居たいんです」 もしかしたら、彼女は一人になりたくて、そこに居るのかもしれねェ。 先を急ぐ理由を山ほど抱えた王女様。 雨の中、碇を下ろして進むことを止めた船で、焦る気持ちを誰にも悟られたくなくて。 ……けど、“目覚めた騎士”としちゃ、姫君を塔の上に一人残しとくワケにもいかね−し。 「じゃあ、俺がそっちに上ってもイイ?」 遠回しに断わられるかと思ったが、ビビちゃんはあっさりと答えた。 「いいですよ」 − 4 − 雨に濡れるのは、ハッキリ言って苦手だ。 フツ−、誰だってそうだよな。 濡れて身体に張りつく服や髪は気持ち悪ィし。 タバコの火も消えちまうし。 滲んでぼやける灰色の世界には、心躍るものなんて何もねェ。 ……そのハズなのに。 * * * マストの上の見張り台に、屋根はねェ。雨にも風にも吹きッさらしの状態だ。 天気の悪ィ時の当番は、合羽を着こんで見張り台に上る。 それでも吹き込む雨でずぶ濡れになるのが常だ。 …だってのに合羽も着ず、傘も差さず。見張り台の縁にもたれたビビちゃんは、間違いなく “嬉しそう”だった。 女の子の気分を読むことには自信があるから、彼女の全身からあふれるオ−ラに嘘はねェ。 まぁ、それはそれとして。 「ビビちゃん、そんなカッコで寒くねェの?」 濡れたTシャツがぺったり身体に張りついて、なんともセクシ−な眺めだ。 思わぬ役得に感謝しつつ、さり気無く尋ねる俺に、ビビちゃんはニッコリ笑って。 「だいじょうぶですよ。今日は暖かいし、そんなに強く降ってないですから」 確かに彼女の言うとおり、雨粒は細かく空気は妙に暖かい。 “東(イ−スト)”で言うトコロの春雨ってヤツか。 ……いや、そ−じゃなくて!! ビビちゃんは、俺が遠回しに言わんとするトコロには気づいてもいない様子だ。 どうする、俺!? ここはス−ツの上着を脱いで、着せ掛けてあげるべきだろう。 しかし、俺の上着は上着でしっぽり濡れてるし。何よりこの福眼への誘惑は断ち切りがたい。 それにつけても、Tシャツもショ−トパンツも白ってのはヤバすぎだって。 下着の色が丸わかり…。 ……って、違うだろ−!? 無理矢理視線を引き剥がすと、その先には透き通ってこぼれる眸。 水滴を散りばめた長い睫毛。 雨で濡れているハズなのに渇いた唇を、思わず舐める。 ああ、そういや。暫くタバコも咥えてねェ…。 「サンジさんは、雨って好きですか?」 唐突に尋ねられた。 雨が降ると 咽喉が渇く 雨が降ると 感じるだけでも 何をどれだけ飲んでも 満たされない まとわりつく“水”の匂い 渇いているのは 欲しいのは 満たされないのは 「……ビビちゃんも、雨が好きなんだ?」 ズルイ俺は、肯定と取れる一音を織り交ぜて質問を返す。 「私の国は、ほとんど砂漠ですから」 ビビちゃんが、ふんわりと笑う。 「国を出て、ヨソでは雨が降るのって、あんまり歓迎されないんだって知って。 すごくビックリしたことがあるんです」 これって、“カルチャ−ショック”って言うのかしら? それとも、“井の中の蛙”? そう言って、ビビちゃんは笑うけど。昼メシ時のクソ野郎共の暴言を思い出した俺は、 あいつら全員オヤツ(クソマリモは酒)抜きだと心に誓った。 集まった水滴が、その重みで頬の丸みを辿り、細い顎に伝わる。 今なら、滴り落ちる水がどっから来たのかなんて、誰にもわからねェだろう。 「私の国では雨が降ると、それはもう凄いんですよ。 樽とかバケツとか桶とか。それからお鍋やお椀や深めのお皿や…。 水を汲むことが出来るものなら何でもかんでも持ち出して。そこら中に並べるんです。 それでも足りなくて…」 ビビちゃんは、自分の両手に視線を向けた。 小さくてやわらかそうな手のひらは、ピッタリと合わされて。 雨に向かって差し出した、器。 「こうやって、自分の手でも水を汲むんです」 僅かに溜った水が、白い肌の上で揺れる。 ごくりと、咽喉が鳴るのをごまかして、軽い口調で答えた。 「そりゃ汲み立て新鮮で、すげェ贅沢な水だね」 「でも、もっと汲み立て新鮮で、贅沢な水の飲み方があるんですよ?」 キラキラの眸が、俺を映す。 しっとりと濡れた髪が、項から肩をかすめて背中へと、水のように流れる。 「…こうやって、雨を受け止めるんです」 ほら、と。 見事な大口をあけて、空を仰ぐ。 透き通った糸が、彼女の中に吸い込まれていく。 男が立ってるすぐ横で、目を閉じて。 …無防備にも程があるって。 なのに俺の頭を占めたのは、ナミさん程じゃねェとはいえ十分に発育したカラダとか 下着の色とかじゃなくて。 ……雨、が 両の手のひらを、ぴったりと合わせて。雨に向けて差し出す。 あの頃には無かった包丁ダコや火傷の痕の残る手に、水滴が落ちる。 ゆっくりと、まばらに。 灰色の空から降り注ぐ、無数の針。 飽きるほど見た筈の色を暫く眺め、目を閉じる。 口を、大きく開けて。 ガキの頃、クソジジイと過ごした85日間 記憶もあいまいな最後の何日か、何十日か 俺はこうやって空に向かって、口を開けて過ごした 空から降る水を、ただ待って 不幸中の幸いか、俺達が遭難した海域では 日に一度は雨が降った それでも、生きるにはギリギリだった 皮と骨ばかりに痩せこけて、震えが止まらない手じゃ 水は指の隙間から零れ落ちるばかりで エサを待つ雛鳥みてェに、口を開けているしかなくて そうして、俺を潤す代りに体温を奪う雨に濡れて 冷えていく身体で震えながら 死んでんのか生きてんのかもわからねェ、ぼやけた頭で 繰り返し幻を 見た 多分、俺は一生 雨を 好きにも嫌いにもなれねェだろう 「……あ、」 ビビちゃんの声に、我に帰る。 ポッ ポ…ッ …… 甲板を叩く音が、止んだ。 幾つにも千切れた雲の隙間からは、白い光が洩れている。 「……やんじまった」 空を仰いで、まだ3分と経ってねェ。自分でも意外なほど残念そうな声が出た。 その所為だろう、ビビちゃんが笑いながら言う。 「サンジさん、良かったら飲みます?」 差し出された白い手の中に、小さな泉がキラキラ光る。 固い岩の上に寝転がって ただ、震えながら 何度も何度も何度も 夢にも幻にも 見た こんな風に、誰かが 水を、食い物を ……手を オレに、差し延べてくれることを 「サンジ、…さ……」 まさか、本当に飲むとは思わなかったんだろう。 跪いた俺に、ビビちゃんの戸惑う声が頭の上から降ってくる。 唇にふれる、やわらかな冷たさ。 舌を包み、咽喉を滑って、渇いた細胞に染み渡る。 最後の一滴を飲み干すついでに、ちゅっと 音を立てて手のひらにキスをした。 「ごちそうさまvv」 お礼と同時に顔を上げると、真っ赤に染まって固まるプリンセス。 …あれ?王女様なら跪いて手にキスなんて、貰い慣れてるモンだとばかり。 もしかして、ビビちゃんの国じゃ風習とか違うのかな? 思いがけない過剰反応に首を傾げる俺に、ビビちゃんは焦った声で言った。 「えッ、ええっと…!(////)そろそろオヤツの時間ですよね。 私、お手伝いしますから!!」 ちなみに本日のオヤツはカカオポリフェノ−ルたっぷりのチョコレ−ト・トリュフ 蜜柑のコンフィチュ−ル入り。 これならナミさんにも、ニンマリ笑って嫌味を言われずに済むだろう。 『サンジ君って、言動だけ見るとチョットわかりにくいんだけどさぁ〜。 日々のメニュ−を見れば、関心度が丸わかりなのよねぇ?』 貴女のことだってバッチリ愛してますってば。ナミさん、ちょっとジェラシ−? …とか思いながら立ち上がった俺は、まずス−ツの上着を脱いだ。 濡れてるけど、そのまんまよりはマシだろ? 折りしも足元では、男部屋に続くフタが開いたところだし。 「ビビちゃんが手伝ってくれるなんて、うれしいな〜vv でも、その前にまず着替えねェと。風邪引くし、他の野郎に見られるのも、もったいね−し」 ニッコリ笑って、水を含んで重くなった上着をビビちゃんの肩に着せ掛けた。 きょとんとした彼女は、俺の手から視線を下に落とす。 そりゃもうくっきりはっきりと、淡いブル−の下着が透けていた。 * * * それから暫く、ビビちゃんは俺に口利いてくれなかったりしたワケだけど。 更にもう暫くしたら、あの時不思議に思ったことの理由を教えてくれた。 彼女の国では、手の甲へのキスは敬意と忠誠の証。 そして手のひらへのキスは、愛の証として求愛の時にするのだと。 なるほど、と納得した俺は、すぐさまその場に跪いて彼女の手をとった。 そして手の甲には短く、裏返した手のひらには長く、キスをした。 ビビちゃんは、水のように流れる髪を揺らして笑ってくれた。 雨は、好きでも嫌いでもねェ けれど 薄灰色の空から真っ直ぐに落ちてくる ガラスの糸のように やわらかな水 俺の頬を濡らし 渇いた唇を濡らし 両手の中に小さな泉を作る そんな雨は 彼女が船を降りて随分経った今も 好きだ − 終 − ≪TextTop≫ ≪Top≫ *************************************** アラバスタへ向けての航海中。船医乗船前。多分、“リトルガ−デン”到着前。 この頃はまだ“最高速度”ではなく、視界の悪い雨の日は碇を下ろしていた模様。 サンビビは切ないのが基本です。 意図的に、技術と計算でレディ−を癒そうとするサンジ君に対し、無意識に人を癒すビビちゃん。 ラブコックも一撃でノックアウト。 最初はもっと薄味だったのですが、なにやら途中から雰囲気が…。さすがはラブコック。(笑) (以下は余談です。) “食べ物(=飢え)”に対する過剰反応が強調されるサンジ君ですが、“渇き”に対しては どうなのかしら?…と思ったのが元ネタです。 折りしも向かう先は大旱魃に苦しむ砂の国ですから、なんとタイムリ−な。 俗に“トラウマ”と呼ばれるものは、“克服できるか・できないか”ではなく、“どう折り合うか”なの だと思います。…まあ、人生何事もそうですが。 いろんな傷を抱えたまま、どうにかこうにか生きていけるのがいいな。 |
2007.3.22 上緒 愛 姫誕企画Princess of Peace20070202 |