かみさまのいうとおり



− 序 ・ 2009 −

あの人に初めて会ったのは、“宣戦の儀”から数日後のことです。
新宿で始まった、“W.I.S.E(ワイズ)”を名乗るサイキッカー達による攻撃。
日々、壊滅していく都市。
為す術もなく、滅亡の坂を滑り落ち始めた世界…。

そんな混乱の中、おばあ様を訪ねて伊豆の天樹院邸へやって来た人々。
何人かは、見覚えのある顔でした。
ステーションワゴン車の運転席と助手席から降りたのは、1年半ほど前の
“ヤクザのオッサン誘拐事件(カイル君曰く)”で、犯人の子分だった2人組。
そして、後ろのドアを開けたのは、誘拐されていた当人の雹堂影虎さんです。

ボク等エルモア・ウッドの最初の戦い。
アゲハさんと一緒だった、最後の時間。

それぞれに疲れ、苛立った大人達の姿は、失くしたものの大きさを改めて
ボク等に思い知らせました。
今、ここにアゲハさんが居てくれたなら…と。

初めて見る人も、いました。
2人組の間で、不安そうな顔の女の人は、“空間転送(トリック・ルーム)”の
能力者である東雲嵐さんの妹の千架さん。
“電磁n´(ショッカー)”を使う夢路晴彦さんの恋人でもありました。

もう1人の女の人は、毛布に包まれたまま眠っています。
世界的に有名なピアニスト、八雲祭さん。
強力なサイキッカーでもあった彼女は、たった1人で“W.I.S.E”に挑み、
重傷を負ったのだそうです。

そして、最後の1人。
雹堂さんの腕の中で、眠ったままの八雲さんに治癒(キュア)を注ぎ続けている人。
不機嫌な表情とは対照的に、彼のキュア領域は眩く、暖かい光に満ちていました。
当時の、そして今現在のボクよりも、遥かに強いPSI(ちから)。

イアン、と。他の人達は呼んでいました。

おばあ様とボク等だけで完結していた、小さな世界。
あの夏、アゲハさんが現れて、行方不明になってしまうまでの1ヶ月未満以来、
初めてやって来た外(ヨソ)の人々。

彼等は皆、大人でした。
そしてボクはずっと、大人は子供とは別の生き物だと思っていたのです。



− T・ 2010 −

年が明けてすぐ、おばあ様は完成したばかりの“天樹の根”…地下300メートルに造られた
シェルター…への移動を指示しました。
もちろん、あの人達も一緒にです。
既に屋敷には使用人の姿もなく、荷物運びに駆り出された晴彦さんが文句を言っては、
嵐さんや千架さんに怒られていました。

ボク等も大事なものをまとめるように言われ、それぞれの部屋で荷造りをします。
キャンディ−やクッキー、キャラメル、チョコレート。
お菓子で膨らんだリュックを背負って外に出たボクは、途中で足を止めました。
庭の一角に、あの人の姿があったのです。

彼等がここへ来て、3週間。八雲さんは昏睡状態のままでした。
あの人…イアンさんが付っきりで治療を続けていますが、身体機能は回復しても、脳が受けた
過負荷には彼の力も及びません。
生命を維持するためと覚醒を促すために、キュアを注ぎ続けるしかありませんでした。

八雲さんに付きっきりだったのは、雹堂さんも同じでした。
ベッドの側に置いた椅子に座り、何も言わず、ただそこに居る。
最初の内こそ、治療のジャマだと文句を言ったイアンさんも、じきに諦めたのか、雹堂さんを
空気のように扱うようになったと、嵐さん達は言っていました。

そんな雹堂さんに八雲さんを任せて、ほんの僅かな休憩だったのでしょう。
置かれたベンチに腰掛け、頭を抱えるように俯いていた彼。
ボクは庭に続く階段を降り、枯れた芝生を横切って、石畳の小道に足を踏み入れました。
おばあ様に治癒(キュア)を頼まれた時以外、他人に近づかないボクには珍しいことです。

「……何の用だ」

気配どころか、足音だって忍ばせていなかったので、あの人はすぐに顔を上げました。
別に用はなかったので、ボクは黙ったままです。
真っ直ぐ歩いて、彼の足元にしゃがみました。

目の前にあるのは、荒れた花壇。
庭師も来なくなり、水も肥料も与えられずに、蕾のまま俯いた小さな花。
ひび割れた土の中で懸命に首をもたげたのに、そこで力尽きてしまったように。

今にして思えば、あの人はただ、これからのことを考えて陰鬱な思いに捕らわれて
いたのでしょう。
その大部分は、目覚める気配の無い八雲さんについてだったに違いありません。
けれど、この時のボクは、彼が咲くことのない蕾を見ていたのだと思いました。
だから、両手を前に突き出したのです。
誰にも言われず、PSI(ちから)を使ったのは初めてだったかもしれません。

ボクの両手が作り出す、小さなキュア領域。
昼間の蛍のような淡い光の中で、干乾びかけた花びらが瑞々しさを取り戻します。
俯いたまま咲く、白い花。
PSIを強めても、項垂れた首は上を向きません。元々、そういう花なのでしょう。

「キュア使いか…。」

背中に掛けられた声に、驚いた様子はありませんでした。
雹堂さん達から、ボク等の能力を聞いていたのかもしれません。
こくりと頷いて、治癒(キュア)を注ぎ続けます。

「……違う、そうじゃない」

ふいに、掴まれた手首。驚いた拍子に、PSIが途切れました。
土の上に落ちる花びら。くたりと萎れる茎。
振り向くと、無遠慮な鋭い目がボクを見下ろしています。

「小手先でPSI(ちから)を使うな…。やるなら、もっと集中しろ」

花壇に向けて伸ばされる、ボクを掴んでいない方の手。
ボクの力が蛍なら、彼のそれは太陽でした。
雑草の中に隠れていた芽が、次々に茎を伸ばし葉を拡げ、蕾をつけていくのです。

「もっと治癒(キュア)の力を相手の内部に侵入させるんだ…。
 相手の生命と自分を完全に共鳴(シンクロ)させなければ、いい治療はできない」

淡々とした声。次々に咲く白い花。
流れ込む彼の、生命の波動。

ドクドクと、脈打つ心臓の音
血液の流れ、細胞のざわめき

根から吸収された水と養分が、維管束と葉脈をめぐる
開いては閉じる気孔、光合成を繰り返す葉緑素

完全な、共鳴(シンクロ)。
それはまるで、目の前の植物に意識を引きずり込まれるようでした。
あるいは、彼という存在に自分が溶かされていくような…。

一方的に、自分のPSI(ちから)を相手に注ぐだけだったボクには、初めての感覚。
戸惑い、逃げようとしても、手首はきつく掴まれたままです。
ベンチを離れ、地面に膝を着いて、ボクに近い目線で。
けれどその眸は、干乾びた雑草だらけの庭を映していました。

「他人が…怖いか?」

色素の薄い髪と眸。フレデリカさんよりも白いくらいの肌。
ぼんやりと見上げるだけのボクに、言います。

「……オレも昔はそうだった」

彼の声は、とても静かでした。
棒読みの台詞のように、何の感情も現れてはいませんでした。
けれど、流れ込む共鳴がボクに伝えて来ます。怒りと、痛みと、悔いを。

「このPSI(ちから)を利用しようと、たくさんのクズが群がってきた…。
 それだけなら、まだいい。
 まるで一縷の望みのように、縋りつかれる。
 一方的に崇められ、奇跡を求められる。まるで“神”であるかのように。
 だが最後には、裏切られたと罵られ、責められ、憎まれる…。」

ボクと彼との間を循環し、増幅した治癒(キュア)が、庭を塗り替えていました。
種や球根のまま眠っていた、春や夏や秋の花々を目覚めさせて。
はびこる雑草さえ緑を吹き返し、色とりどりの小さな花を咲かせています。
そんな奇跡の光景を、ただ映す。揺らがない眸…。

怖くて、でも目が離せない。魅入られた、というのはああいう感覚なのでしょう。
ボクにとって、彼は未来の自分自身でした。
その人に、言われたのです。ボクは、幸せなままでいられないのだと…。

「……いいか」

握られた手首に、更に力が入った気がしました。
引き摺られるように立ち上がったボクを、真っ直ぐに見つめています。
蜂蜜みたいだと引っ張られる髪や、ビー玉みたいだとからかわれる水色の目を、
眸の中に映して。

「周りに流されず、確固とした自分を持って生きろ。
 自信を持って、他人と立ち向かえ。お前は、オレ並に才能がある」

彼の言葉の意味は、正直、半分も理解できていませんでした。
子供でしたし、考えるのも母国(フランス)語でしたから。
けれど、淡々とした口調が次第に力強く、熱を帯びていくのはわかりました。

「忘れるな…。
 PSI(ちから)があろうとなかろうと、関係ない。
 人が背負えるのは、自分に出来ることだけだ」

言い終えると同時に、治癒(キュア)が途絶えました。
暖かい光を発していた間も、冷たく乾いていた手が離れます。
膝に付いた土を払い、彼は何事もなかったかのように立ち去りました。
ボクは最後まで一言も話せないまま、その背中を見送ったのです。


……あの人は、気づいたのかもしれません。
誰にも言えないボクの怖れに。

おばあ様は、いつか死んでしまう。
この先、ボクの治癒(キュア)がどれだけ強くなったとしても、寿命だけは変えられない。
その日が来た時、何が起こるのか…。

いつも元気なカイルくんが
ほんとは優しいフレデリカさんが
泣き虫なマリ−さんが
冷静なシャオくんが
ボクを罵って、責めて、憎む日が来るのではないかと…。
ボクを捨てた両親のように。

幼いボクは、そのくらい弱かった。
ずっと側にいる仲間すら、信じられないくらい。

いつだって、自分を守ることに精一杯で。
治癒(キュア)を使うのも、居場所を失いたくないからだけで。
何も、わかっていなかった。

命とは、どういうものであるのかを。


「わッ!!なんじゃこりゃあ−!?」
「ちょっとぉ、どーしたのよコレ!!」
「スノードロップと一緒に、チューリップとヒマワリとコスモスが咲いてる…。」
「これ、ヴァン君が咲かせたの?すごくキレイ」


通りかかった皆が、花だらけの庭を見て、口々に言います。
サッカーボールとゲーム機とゲームソフトを突っ込んだ箱を抱えたカイル君。
お気に入りの洋服とぬいぐるみがはみ出したバッグを持ったフレデリカさん。
“根”の蔵書リストに無い本を台車に積んだシャオ君と、アルバムを抱えたマリーさん。

その日の空が、晴れて青かったことを今も覚えています。
ボク等が、地上で最後に見た青空でしたから。


   * * *


「なんでだよ!?納得いかね−ッ!!!」

カイル君の怒鳴り声が、倉庫に響きました。
両の拳を握り締め、力の限りに叫びます。

「なんで、オレらは行けね−んだよッ!!!」
「駄目だ。子供達はここにいろ」

やっと目を覚ましたばかりの八雲さんが、厳しい顔で言いました。
エルモア創立総合病院の地下、300m。四方を剥き出しのコンクリートで囲まれた空間には、
重い空気が立ち込めています。
“転生の日(リバースデイ)”と呼ばれる人間文明最後の日の、翌日。
生存者を捜しに地上へ出る大人達について行こうと、ボク等は食い下がっていました。
腕を振り回し、地団駄を踏むカイル君の隣で、シャオ君も言います。

「僕達の力は、必ず役に立つ筈です。
 お願いします…。一緒に連れて行ってください」

深々と頭を下げましたが、八雲さんの表情は変わりません。
胸の前で両腕を組んだまま、取り付く島もないのです。

「何と言おうと、お前達を連れて行く気はない」

それまで黙って成り行きを見ていたフレデリカさんが、つかつかと前に進み出ました。
青い目が、怒りで吊りあがっています。

「やめなさいよ、シャオ!!そんな女に頭なんか下げる必要ない!!!
 だいたい、アンタに偉そうなこと言えんの!?ずっと寝てたくせにッ!!」

仁王立つ八雲さんを、恐れる様子もなく見上げるフレデリカさん。
胸を反らせて、堂々と声を張り上げます。

「アンタ達、情けない大人になんか任せとけないのよッ!!
 見てなさい、このフレデリカ様とエルモア・ウッドが…」

パンッ 乾いた音と同時に、フレデリカさんが床に倒れました。

「フ−ちゃん!!」

後ろでオロオロしていたマリ−さんが、あわてて駆け寄ります。
その手を振り払って、フレデリカさんは八雲さんを睨みつけました。
後で聞きましたが、頬をぶたれたのは生まれて初めてだったそうです。

「なにすんのよッ!?」
「もう一度だけ言う。目障りだ、ガキはすっこんでろッツ!!!」

鬼気迫る、というのはああいう表情(かお)を言うんだな、と思いました。
以前のフレデリカさんなら、気圧されていたかもしれません。
けれど、アゲハさん達が居なくなって1年半。“宣戦の儀”から1ヵ月。
壊れていく世界を、ただ黙って、隠れて見ているしかなくて…。
もう、我慢の限界だったのでしょう。

「……上等やないか、このアマ…。いてこましたるわ、ボケが−ッ!!!」
「フ−ちゃん、駄目ぇ!!」
「フレデリカ!?」
「やっちまえ、フ−!!!」

久々の関西弁モードを追いかける、皆の声。
それよりも早く、炎が八雲さん目掛けて襲い掛かります。
けれど…。

フッ と炎が消えました。
八雲さんの腕の一振りで、バースデーケーキに灯したロウソクのように、跡形も無く。
フレデリカさんはもちろん、ボク等も呆気にとられます。
5人の中では最も攻撃力の高いフレデリカさんの“パイロ・クイーン”が、こんなにも容易く
消滅させられるなんて。

「そんな花火で、私をどうにか出来ると思ったか?
 弱いんだよ、お前達は…。どうしようもなく弱い。今はまだ…な」

その言葉が終わらない内に、今度はカイル君が飛び出しました。

「……ちくしょうッ!!」
「やめろ、カイル!!」

気づいたシャオ君が止めに入ったと思った、とたん。
衝撃音と同時に、2人は壁に激突していました。
八雲さんの前には、正拳の構えを取った雹堂さん。
まったく見えませんでしたが、どうやらライズで吹っ飛ばされたようです。

「ボウズ共。せめて、この一発をかわせるようになってから、出直して来い」

叩きつけられた壁にはヒビが入って、2人共、完全に気絶しています。

「ガキに手を出すなんて、アンタらしくもない…。」

嵐さんが苦い顔で言いました。

「クソ生意気なガキ共だが、さすがにありゃ−やりすぎだ」

死んでね−か?
晴彦さんが呟くのに、マリ−さんが泣きながら2人のところへ走っていきます。
顔半分を真っ赤に腫らしたフレデリカさんも、転がるようにその後を追いました。

「ヴァン!!ヴァン!?早く来てよぉ!!!」

ボクも皆の方へ行こうとした時、雹堂さんの声が耳に入りました。

「バカヤロウ、ガキに本気で相手しないでどうする。
 ……つか、思ったより大した怪我じゃねェだろう。
 殺(や)る気で殴ってねェし、あいつ等、とっさに防御をとりやがったしな」

久々に鍛え甲斐のありそうなガキ共だ。雹堂さんが呟きました。

「その時間があればのハナシだけどよ…。」
「……同感だな」

八雲さんも頷きます。
あの人は、ボクが横を通り過ぎる時、小声で言いました。

「2人共、軽い脳震盪だ。山猿より、止めに入ったチビの方が壁に近い分、重傷だな。
 肩を脱臼してるかもしれん。
 とりあえず、オレ達が外へ出た後、半日は眠らせておけ」

2人の状態は、あの人の見立てどおりでした。
言われたとおり、半日程眠ってもらうことにします。
シャオ君の探索(サーチ)でも、後を追えなくなるように。

2人の治療が終わった後、フレデリカさんの腫れた頬っぺたも、治そうとしたけれど
断られました。

「いいのよ、別にコレくらい…。冷やしとけば、すぐに治るんだから」

そう言って、マリーさんが持って来た氷嚢を当てたフレデリカさんは、何度も頬を撫でて
いました。
初めてぶたれた痛みと熱を、確かめるかのように。


   * * *


半日後。倉庫の床に敷いたマットレスの上で目を覚ましたカイル君は、大騒ぎでした。
八雲さんと雹堂さんを一頻り罵倒して、コンクリ−トの天井に向かって怒鳴ります。

「なンでだよッ!!ど−して、ナンにもできね−んだよ!?
 オレ達、何の為にPSI(ちから)があるんだよ!!
 こ−ゆ−時に、戦うためじゃね−のかよ!!?」

カイル君の叫びは、ボク等の気持ちの代弁でした。
今、世界は壊れているのに。大勢の人が死んでいるのに。
アゲハさん達は、世界がこうならないように戦ってくれていた筈なのに。
どうして今、ボク等は何もせず、隠れていなければならないのか…。

「違うんじゃ、カイル」

聞こえて来た声に、皆、ハッと振り向きました。
未来を見る為に、ずっと瞑想を続けていたおばあ様が、倉庫の入口に立っています。
杖を持っていない方の手を支えるのは、千架さんです。
ボク等を心配して、おばあ様に事情を説明してくれたのだと、後で聞きました。

「カイル…、そして皆もよくお聞き。
 ワシとコペルは、お前達を“W.I.S.E”と戦わせる為に引き取ったんじゃない。
 生きて欲しかったんじゃ。
 人として生きる為に“PSI(ちから)”を制御し、役立てる方法を学んで欲しかった。
 世界がこうなってしまった今も、それは変わらん。
 今のお前達では、地上に出れば死ぬことになる。
 それがわかっとるから、大人達は憎まれても、身体を張ってお前たちを止めた。
 生かすために、守ってくれている…。彼等も、アゲハ達と同じなんじゃ。
 彼等に応えて、強くなれ。生きるんじゃ…。今は戦いを避け、地に潜み、力を蓄えよ。
 ……わかるな?」

頭ではわかっても、気持ちが納得しない。
この時が、そうでした。
口をへの字に曲げて、眉をぎゅうっと寄せていたカイル君が、呟くように言います。

「……あのオッサンや凶暴女より強くなったら、“わいず”のヤツらと戦えるのか?」

すると、シャオ君が上手いタイミングで口を挟みました。

「雹堂さんは、アゲハさんに“ライズ”を教えた人だって聞いたけど」
「うおおぉッ!!アゲハの“ししょー”かよッツ!?
 そんじゃ−、オレが負けても仕方ね−よな」

全力で納得に向かうカイル君に、マリーさんが付け足しました。

「八雲さんは、アゲハさん達の“バ−スト”の先生だったんだって」

それを聞いて、今度はフレデリカさんが肩を竦めます。

「フ−ン、さすがはバカアゲハを教えただけあって、バカ女よね!
 このアタシの美しい顔に傷をつけるなんて、ゆるさないんだから!!
 帰ってきたら、うんと文句を言ってやるわ」

ボク等は、まだ子供でした。
アゲハさんの先生。アゲハさんと同じように、ボク等にぶつかってくれる人。
それだけで、十分だったのです。

「よっしゃあ!!そうとなったら、早く帰って来やがれ、ヤクザのオッサンと凶暴女!!
 修行して、すぐにブッ飛ばしてやるからなッ!!!」

そして、ボク等は大人達の帰りを待ちました。
ちょうどあの夏、アゲハさんが次に来てくれる日を楽しみに待ち続けたように。


八雲祭さんと雹堂影虎さん。
2人は、帰って来ませんでした。
戦うPSI(ちから)を持たない人達を守ろうと、敵の前に留まったのです。
きっと、アゲハさんと同じように。


   * * *


地上から救助された人々と、エルモア創立総合病院から避難した人々、そしてボク等を
合わせた百人余り。
そのほとんどが、がらんとした予備の倉庫に集まっていました。
対有事コロニー“天樹の根”…通称“根(ルート)”には、地下水路を利用した発電設備が
備えられていましたが、地表の天変地異の影響で水脈が変わったため、照明を使える
部屋が限られていたのです。

毛布や非常食などが他の倉庫から運び込まれたここは、簡易の宿泊施設であり、
同時に病院でもありました。
救出された人々は、誰もが大怪我を負っていたのです。
けれど、ボクは初めの頃、負傷者の治療には加わっていませんでした。

“宣戦の儀”の前から予知を試み続けていたおばあ様が、心労から容態を悪くし、
目を離せない状態になっていたのです。
発作の引き金になったのは、八雲さんと雹堂さんのことでした。
そして、もう1つ。ボクが治癒(キュア)を使うことを他の人間に知らせないように、と。
イアンさんはおばあ様に言ったのだそうです。
“根(ここ)”に移る前。あの日、花壇の前で会った後でしょう。

ボクがロウソクの灯りの中でおばあ様の側に付いている間、あの人はたった1人で
30人の重傷患者の治癒(キュア)を行っていました。40時間もの間、不眠不休で。

「バカめ、死に急ぎやがって…。バカめ……」

そう呟きながら、一度に複数の患者を治療する様子は尋常でなく、嵐さんと晴彦さんは
何度も忠告しました。

「イアンさん、アンタもう休まねェと…!!」
「これ以上は無理だ。マジで死ぬぞ!?」

けれど、彼は聞く耳を持たず、力づくで休ませようと伸ばされた手を振り払ったのです。

「黙れ、口を出すな!!オレの戦いを奪うな…!!!」

いつも不機嫌そうではあったけれど、怒鳴ったのはその時だけでした。
あんな彼を見たのは最初で、そして最後だったと嵐さん達は言いました。

「アイツ等が救おうとした命だ…。1つ残らず救い切ってやる。
 アイツ等が逃げなかったのに、ここでオレが逃げてどうする…!!」

アイツ等、とは八雲さんと雹堂さんのことでしょう。
生存者を守る為に、“W.I.S.E”のサイキッカーを前に地上に残った2人。
彼等とイアンさんは、アゲハさん達よりずっと古くからの知り合いだったそうです。
八雲さんを巡る三角関係とは別に、彼等には、強いPSI(ちから)を持つ同年代の者
同士の特別な繋がりがあったのだろうと、おばあ様は言いました。
ちょうど、おばあ様とおじい様のように。嵐さんと晴彦さんのように。
そして、ボク等エルモア・ウッドのように。

それ以上、誰も何も言えず、治療を続ける背中を見守るしかありませんでした。

心のどこかでは皆、思っていたのかもしれません。
失った手足も、焼け爛れた皮膚も、潰れた内臓さえ治してしまう、奇跡の力。
死神を追い払うあの人が、死ぬ筈はないのだと…。


大人達が地上から戻って、丸2日。
おばあ様の容態が持ち直したので、後を千架さんにお願いして、倉庫に戻りました。
頼りない照明の下、ひとかたまりになった人々のざわめきは、息を潜めているようです。
軽傷者への応急処置や、非常食と着替えの分配。
動ける大人に混じって、カイル君達も忙しそうに走り回っていました。

あの人は皆から少し離れ、片腕を枕にして横たわっています。
やっと休憩を取ったのでしょう。剥き出しの床に、何も被らず眠る姿は、少し寒そうです。
自分の毛布に包まったまま、一歩を踏み出したボクは、二歩目の足を止めました。

……気づいたのです。
そこにあるのが、生命の活動を終えたモノであることに。
もう、治癒(キュア)は不可能でした。ボクにも、例えあの人自身であっても。
一度失われた命を呼び戻すことは、誰にも出来ないのです。

ボクは黙って、倉庫の隅にうずくまりました。


現実感のない、ぼんやりした世界。物心ついた時から、ずっとそうでした。
不安も怖れも痛みも、お菓子の甘さや頭を撫でられる感触さえ、ボクにはどこか遠くて
夢の中の出来事と区別がつきませんでした。

だからボクは眠りさえすれば、どんなことだってやり過ごせました。
本当の家族を失った時も、おじい様が灰になってしまった時も、アゲハさんにはもう会えない
のだとわかった時も。ずっと、そうしてきたのに…。

抱え込んだ胸の奥にまで凍みる、コンクリートの冷たさ。
目を閉じても、訪れるのは水の中でもがくような、浅いまどろみだけ。

きっと、ボクは自分で気づいていたのでしょう。
夢から覚める時が来たのだと。


   * * *


「イアンさんッ!!」

マリーさんの悲鳴で、目が覚めました。
他の大人達も次々に起き上がり、横たわったままの彼の近くに集まって来ます。

目覚めない彼を心配したマリ−さんが、肩を揺すったのでしょう。
耳から、鼻から、口から。閉じたままの瞼から、細く赤く流れる、血。

真っ青な顔で震えるマリーさんの両目を、嵐さんが片手で覆いました。
その指の下からこぼれ落ちる、透明な涙。

包まっていた毛布の端を、ぎゅっと握りました。
昨日気づいた時に、ボクが周りに知らせれば良かったのです。
そうしていればマリーさんは、あんな思いをせずに済んだのに…。
終わってしまったことを後悔したのも、自分に腹を立てたのも、初めてでした。
けれど、そんな自分の変化に気づく余裕すら、ありません。


「死んだ!?嘘だろッ…!?」
「神様…!!まだケガ人がいるのに…!!」


大勢の掠れた声、歪んだ表情。それはもう、ぼんやりとはしていません。
助からない筈の命を、次々に救って見せたあの人は、生き残った人達の拠り所でした。
その存在が、失われてしまった今。
絶望が、ひたひたと押し寄せる。その音が聞こえてくるようです。


「おい、目を覚ましてくれ…!!!
 頼む…!!!頼むよ…!!!」


ギリギリまで膨らんで、はじけ飛ぶ寸前の恐怖。
両手で口を押さえ、床に膝をついたシャオ君は、皆の感情を読み取ってしまったのでしょう。
カイル君とフレデリカさんも、異様な気配に立ち竦んでいます。

ケガ人を置いて、死んでしまったあの人。
鳥肌が立つような空気の中、身じろぎもせず蹲ったままのボク。


皆、思っているのでしょうか…?
“神様”に見捨てられたと、裏切られたと、騙されたのだと。


限界を超えた酷使に、ズタズタに壊れた脳。
頭蓋骨を満たして、溢れ出した血。


……それでも。
これだけの無茶をしながら、あの人は死ぬつもりなんか無かったのです。
“根”に生き残った百人余り。その誰一人、死なせはしないと思っていたのです。

少しだけ、休んだら。ほんの少し、夢も見ないほど深く眠ったら。
すぐに、治療を続けようと。どの傷も、必ず完治させようと…。

キュアが、そう言っている。
治療を受けた人達の生命が、共鳴の残響(エコー)となって、ボクに伝えている。

生きろ、と。


「あ、あのッ…!!」


自分がいつ立ち上がったのか、覚えていません。
震えて、上擦る声。ボクを見る幾人かの虚ろな目に、唾を飲み込みます。
“神様”と呼ばれ、縋りつかれる存在。
そんなものになってしまうことの恐ろしさは、わかっていました。

けれど、あの人は構わなかったのです。
他人がどう思おうが、何を言おうが、どうでも良かった。
ただ、自分に出来ることを。自分にしか、出来ないことを。


「ケッ……!!ケガに…は!!!
 ケガ人のひとはッ…ボ…ボクのところへ来て下さい…!!!」


たどたどしい発音の日本語。
カイル君が、フレデリカさんが、シャオ君が。そして、嵐さんにしがみついているマリーさんが
驚いた顔でボクを見ました。


「ヴァン君…?」


緊張と恐怖に竦む足に、震えるな、と言い聞かせます。
まだ、負けてない。終わってなんかない。
あの人が逃げなかったなら、ボクも。
……ボクが。

強張る舌を励ますように、握り締めた手。肩から滑り落ちる暖かな毛布。


「ボクが、な…治します………。
 だから落ち着いて…、下さい……!!!」


半信半疑で顔を見合わせる、名前も知らない人達。
互いに目配せを交した嵐さんと晴彦さんが、ボクのPSI(ちから)を説明してくれました。
張りつめた空気が解けて、あちこぎでざわめきが起こります。

フレデリカさんが怒った顔をして、服の袖でマリーさんの涙を拭っていました。
立ち上がったシャオ君も、もう大丈夫なようです。
カイル君が拾ってくれた毛布を持って、ボクはあの人に近づきました。

眉を寄せ、歯を喰いしばった不機嫌そうに眠る顔。
この人が笑ったのを、ボクは一度も見たことがありませんでした。
独り冷たい床に横たわる身体に、そっと毛布を被せます。

今はもう、誰にも顧みられない“神様”の、それが最後の姿でした。



                                   − Next −


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  2010.11.20  本文を一部修正しました。
(以下、反転にて補足的につぶやいております。)

8巻「転生の日@〜B」で語られた4thゲーム未来。
妄想をふんだんに取り入れて、書き込んでみました。
現時点では、前半の数年までの予定ですので、アゲハ本人は登場しません。

13巻でイアンがヴァンに語った台詞。
4thゲーム未来にはない過去ですが、同じ人間である限り、出会えば同じことを
伝えようとするのではと。まったく同じ、にはならなくとも。
ちなみに13巻では一人称が「僕」ですが、8巻の「オレ」に合わせています。
1年半の間に色々あって、言葉遣いも変わったのでしょう。
ヤクザやチンピラと一緒に居る時間が長すぎたのね…。

スノードロップの花言葉は、「希望」
……なのに、家に持ち込む(切花にする、プレゼントにするといった解説も有)と、
「あなたの死を望む」になるんだそうです。庭専用なのね。花言葉って不思議。
1月の庭に咲く白い花を探したら、ガーデニング写真のブログで引っかかりました。
本来の開花時期は2月頃らしいのですが、気が早い株もあるのでしょう。
花言葉のイメージも良かったので、背景画像にも使用しております。