第十五章(3)へモドル | 009

  終章   






 季節は巡り、広大な距離が時間と一つになって、過去へとその名を変えていく。

 海の果て日本では、波間を渡る風に既に冬の気配が色濃くなっていた。
 あの島で、体に滲み込んだ透き通った風や深く青い海の色、森の草木の濃厚な滴る緑は、海を遥か超えたこの地で、冬の足音聞こえる淡灰色へと 姿を変えた。



 
 基地は爆破され、B.Gの野望と共に海の底へと消えた。海底から立ち昇る煙は空を覆い尽くし、夜との境目も遠ざかるドルフィン号の窓からで は、どんなに見つめても判別出来なかった。
 
 爆発後009は仲間の腕の中で気を失い、眠りに沈んだ中で故郷へと帰還した。
精神的ショックによる多大な負荷を軽減する為の自動制御システムが働いたのだとギルモア博士は言った。だが今回はショックが大きく、いつ目を 覚ますかは博士にも答えられなかった。直ちに地下のメンテナンス室に収容され、ただ今はゆっくり静かに休ませてやろうと、それだけが009に 対して皆が出来る唯一で全てだった。
 そんな009を案じながらも、005と008はやむを得ぬ仕事の為にそれぞれの故郷へと戻って行った。002は暫くはギルモア邸に居座ると 決めた様だった。




 004が久々に見る日本の秋だった。最も美しい紅葉の時期は見損なった。冷たい水色の空と荒涼とした海原。あの南の島がそのまま年老いたか の様な情景が目の前にあった。

 004は意図的に忙しく日常を過ごした。幸いする事はたくさんあった。ドルフィン号の整備と補修に始まり、掃除や買い出しなど、暇を見つけ てはあらゆる仕事をこなした。
 その合間に、何が出来る訳でも無いがメンテナンス室へと通い続ける。閉じられた白い瞼を見つめる。そしてこの部屋まで潮騒の響きが届かない 事を、有り難く思う。






 皆が言葉少なに過ごす静かな日々、それが長く淡々と続くと思われた十日目の朝だった。


「みんな、おはよう・・・・」


 ひょっこり居間に姿を現した009。彼はその朝メンテナンス室で一人静かに目覚め、体に繋がれたコード類を自分で外し、きちんと身支度を整 えて皆の前に出て来たのだ。

 朝食の準備中で皿を運んでいた003、テーブルで新聞を広げていた007は驚いて目を丸くし、そこへ遅れてのっそりと起きて来たぼさぼさ頭 の002は呆然と立ち尽くした。予想よりも早過ぎる、突然の目覚めだった。


「ジョー、こんな早く起きて来て大丈夫なの?」

我に返った003がお皿をテーブルに置いて駆け寄って来た。

「うん、もう全然何とも無いよ。心配掛けてごめんね」

 青白く面やつれした顔に009はすこしはにかんだ様な笑みを浮かべた。002、007と順に目を移し、最後にテーブルの向こうの004と目 が合った。


009はただ静かに微笑みかけた。







 起きたと言っても体力はまだ十分ではなく、活動時間は一日数時間と厳格に決められた。そのお陰で当初はちょっとした会話も難儀だった体は僅 かずつだが回復し、数日後には短い散歩が出来るまでになった。徐々に笑顔も増え、仲間と談笑する光景も見られる様になった。

004とも何度か簡単な会話を交わした。だが腰を据えてじっくり語り合うにはまでにはまだまだ届かなかった。彼の体力的な問題もあったが、も う少し時間が必要だと004は考えていた。ふとした瞬間に見せる彼の憂いの表情の中に立ち入って行く資格は、自分にはまだ無いのだと。
 窓辺に座って濃い灰色の海を黙って眺めている009。その瞳の中に、この自分を映してくれるのかどうか、確かめるのが少し怖かったのかもし れなかった。






 日一日と冬が近づいて来た。004は博士を手伝い、戦闘の記録を纏める作業を始めていた。

 あの島での天気や気温、海の様子、最初の戦闘、日々のデータから抜き出して向き合う。
此処日本の地で、図らずも004はもう一度あの日々を生きていた。



 この自分の指から何度もすり抜けようとした009。

 分かっていながら最後まで無力だった自分。

 愛を恐れ、ただ一人死んで行ったリア。

 三者三様に愚かだった。足掻いて苦しんで誰一人救えなかった。

 009と自分は生き、リアは死んだ。


 ここで世界は分かれた。
 これまでもこれからも、生きている限り自分達は罪を犯し続け、その度に世界は分断され、二度と相見える事は無い。






 記録を纏め始めて数日が過ぎた。
 事実のみを淡々と記述していく中、004の心は何度もあの言葉を思い出していた。


・・・・君を愛する事は、君にとっても僕にとっても、天からの大きな罰なんだよ・・・・愛すればその人の過去も過ちも全て請け負う事になるん だから・・・・

・・・・嫌って云う程君が愛してくれるんなら、また話は違うけれどもね・・・・









 作業は一つの区切りを迎えようとしていた。

  遅くまで作業を進めた日は、決まってその後の眠りは浅かった。


 その晩作業を終えた後004はいつの通りなかなか寝付けず、ベッドに横たわったまままんじりともせずにいた。
 もう分かっている004は、服も着替えずに、部屋の天井を見つめたり、何度も寝返りを打ったりしながら、長い空虚な夜を過ごしていた。
 三時が四時になり、近付きつつある夜明けの気配が五時を知らせ、六時になってようやく緩やかな眠りに落ちて行きかけた時だった。
何処か遠くの方でカタカタと微かな音がしている。誰かが起きて来たのか。まだ夜も明け切らぬのに・・・・・ぼやけた頭で004は寝返りを打っ た。
だがすぐ外の廊下を通り過ぎる小さな足音が耳を掠めた時、004の中で何かがピリッと弾けて一瞬で目が覚めた。

 009の足音だ。

 足音は廊下を通って階段を降り、何故か玄関の扉が開く音がした。


 004はがばと起き上がった。
 窓に駆け寄って下を覗くと、ゆっくりと庭を横切っていく009の後ろ姿があった。

 こんな早くにあいつは一人で一体何処へ行こうとしているのだ。まだ回復しきっていないのに・・・。


 服を着た儘だったのを幸いに、004は急いで部屋を出て、出来るだけ足音を潜めて階段を駆け降りた。 玄関を目指して居間の傍を通り過ぎたのを後戻りして飛び込み、ソファの背に掛けられていた膝掛けを掴んで、ようやく004は玄関を飛び出して行った。



 夜明け前の澄んだ冷たい空気を体いっぱいに浴びる。乾いた風に潮の湿り気が混じった、冬の海辺の空気の中を、004は夢中になって砂を跳ね 上げる様にして歩いた。





 やがて木々の向こう、小さな岬の突端に佇む009の小さな後ろ姿を見つけた。
 薄赤い東の空、夜の残骸である紺色の雲が吸い込まれる様に集まっている。それを見つめる009の細い後姿も、今にも吸い込まれそうに004 の目に映った。
 009は身じろぎもせずにただ水平線を見つめ続けている。
 ゆっくりと004は近付き、彼の背後からそっと肩に膝掛けを掛けてやった。



「早起きだな」

「よく眠ったからね」

009は掛けられた膝掛けをゆっくり引き寄せた。


「君も早起きだね」

「よく眠ったからな」


信じたかどうか、009は何も言わなかった。
暫く二人は黙って夜明け前の薄暗い光に輝く海を見つめていた。


「・・・・・こんな冷えた所に居るのは良くない。せっかく二人で早起きしたんだ。家で一緒に熱いコーヒーでも飲まないか」
004は009の肩に手を添えて誘った。


「うん、でも・・・・・」

009は躊躇う表情をした。

「どうした・・・・・?」

「実は・・・・これをね・・・・・」


009はごそごそとポケットを探った。004の胸は小さく跳ね上がった。
彼の手の平に乗せられ鈍く輝くそれは、黒いオニキスの石だった。


「リアがくれた物だ」

009ははっきりと言った。

 004は知っていた。当然知っていたのだ。
 戦いの中でサーベルが唸る度に何度も004を切り裂いた漆黒、忘れもしない、リアのもう一つの瞳だ。あの業火の様な炎と降り注ぐ瓦礫の中、 仲間達に連れ出され気を失い、ドルフィン号に収容されても尚、009の手の平にはずっとこれが握り締められていたのだ。

「これを・・・・・?」

「これを、返そうと思って来たんだ」

「返す・・・・・・」

004はすぐに意味を飲み込めずにいたが、すぐにはっとして目を見開いた。


「まさかお前さん、それ、海に捨てようとか言うんじゃないだろうな」


009は小さく笑った。


「捨てるんじゃないよ。ただ海に返すのさ」


やたらさっぱりとした態度の009に004の方が焦っていた。
少々思案し、努めて冷静に004は009の両肩に手を置いて自分の方に向かせた。


「・・・・・009、いやジョー、勿論これはお前の物だから、俺がどうこう言う権利は無い。だがこれはあいつが託した大切な・・・・そう言わ ば形見だ。今はまだ心の整理がつかない時期だろう。前に進もうとする余り、早まってしまっては後悔の仕様が無いんじゃないか」


 顔を覗き込む様にして諭す004の言葉を009は神妙に聞いていた。
 009は手の中で石を握ったり開いたりして、何事か考えていたが、やがてゆっくりと話始めた。



「これをくれた時、リアは言ったんだ。自分がいなくなったら捨ててくれって・・・・・・」


握った手を開いて009は石をじっと見つめた。


「・・・・なぜそんな事を言うのか僕には分からなかった。ずっと分からずさんざん悩んで考えて・・・・島から帰って、此処で過ごす内に、ふと 思い付いたんだ・・・・リアがこれに込めたのは、僕達二人の記憶だって」


「だったら、」


004は言い掛けたが、009は言葉を続けた。


「あの日の最後、僕らは既に交わす言葉を持たなかった。いや、僕の方はせめてもう一度、一言でも聞きたかったけれど・・・・リアは僕との世界 を断ち切ると決めていた。そして最後の、唯一の望みとして、共に生きる事も死ぬ事も出来なかった二人の、束の間の記憶をここに込めて、僕の手 で捨てて欲しいと・・・・・今だから分かるよ。僕には生きて帰る場所があると、リアは僕に教えたかったんだ。・・・・僕が今こうして君と共に 生きているのは、リアが僕の手を取らなかったからだってね・・・・」


 膝掛けから覗いた石を握った手の手首を、009はそっと撫でた。


「・・・・・それを知った今、せめて僕が出来る事は、リアの想いを受け止める事だ。それと引き換えにこの石を返そうと思う。リアのいる場所に 続いている、この海に。リアは海に還り、僕はこの世界で生きて行く。決めたのは神様じゃない。リアと、僕自身だ」



そう言って顔を上げた009の瞳に淡い陽光の色が仄かに浮かび上がっていた。

 周囲の景色が、いつの間にか灰色から薄緑へと変わっていた。
 海風に吹かれながら立ち尽くす004の頭の中では、今の009の言葉が雷の様に鳴り響いていた。


・・・・・リアは海に還り、僕はこの世界で生きて行く。決めたのは神様じゃない。リアと、僕自身だ・・・・・


 眼前の空と海が赤から金色に変わるのと一緒に、004の胸は静かに、だが大きく波打った。



「決めたのか、お前はそう決めたんだな」

何かに急かされる様な004の口調だった。

「うん、そうだよ?決めたんだ」

相手の様子に不思議そうにしながらも。009は答えた。

「ちょ、ちょっと待ってろ」

 言うが早いか、004は踵を返し、飛び上がらんばかりにしてなぜか家の方向へと走って行こうとした。と、そこでもう一度振り返り、

「いいか、そこに居ろ。絶対動くな。三分、いや二分で戻るから、分かったな!」

 指を振り上げ大声でそう言い残し、砂煙を上げる様に全力で走って姿を消した。


 訳も分からず、009は呆気に取られて瞬く間に小さくなるその必死な後ろ姿を見送った。
 やがて計った訳ではないが、本当に二、三分程でさっきと同じ全力疾走で004は戻って来た。
 怪訝な顔で009は相手を眺め、その手に握られた物に気付いて一瞬考え、すぐに息を飲んだ。


「君、それ・・・・!」


004が手にしていたのは、銀色の指輪、嘗て0011との戦いで彼の身を救い、鎖がちぎれた指輪だった。


「それを一体どうするつもりなんだい・・・・?」

「お前は決めたんだろう。だから俺も決めたのさ」

「ちょ、ちょっと待って、」

009は焦って遮った。

「もし僕の真似をするつもりなんだったら、それはさせられないよ。こんな大切な物手放すなんて、何を考えているんだい?だいたい何の意味があ るって言うのさ」

「大有りだ。真似なんぞじゃあない。お前は言っただろう、帰る場所があるこの世界で生きるってな。その想いと引き換えにこれを手放す、いや海 に還す。それが最善だとやっと分かったのさ」

「待って、落ち着いてよ。この石を手放すのは僕自身のやり方であって、何も君が同じ事をする必要は全く無い。過去は過去でも、彼女との大切な 思い出じゃないか」

「そうだ、大切だからこそだ。嘗て生身の世界で俺とヒルダは懸命に生きていた、それで充分だ。だから悔い無く手放せるって訳だ」

「もーさっぱり分かんない!」

「分からなくていい。俺もお前も心のけりの付け方が偶然同じだっただけの事だ」

「それが有り得ないって言うんだよ!」

「有り得るんだからしょうがないだろ!」

「この分からず屋!」

「分からず屋はどっちだ!」



 二人はゼイゼイ息を切らせて睨み合った。004も本人自身も009の体の事は忘れていたので、呼吸が息苦しそうにか細くなるのに慌てて気付 き、004は膝掛けをもう一度009の肩に掛け直し、溜息をついてぽんと相手の両腕を叩いた。

「いいか、互いに一歩踏み出せる日が来た、それだけの事なんだ。神様じゃなく、俺自身が決めたんだ。生身じゃなくてもいい、一人のサイボーグ として、これからもずっとお前と生きて行くってな」


 009の赤い瞳が疑い躊躇う様に004を見つめた。やがてその瞳に、いつの間にか出現していた朝焼けが映った様にじわじわと澄んだ金色の雫 が現れ、やがて困った様な気まり悪そうな笑みになって、009は決心した様に海の方へと向き直った。


「分かったよ、じゃあ、」

「やっとか」


 009と004は共に一歩海へと足を踏み出した。
 水平線に放射状に広がる紺色の雲と金色の帯が二人の瞳を打った。同時に足の下で潮騒が夜の完全な終わりを告げる様に、静かに轟いた。


「いくぞ」


 二人は腕を振り上げる。同時に二つの小さな物体が、鈍い輝きを振り撒きながら大きな弧を描いて眼前の海へと放たれて行った。
 それらは直ぐに光の輪の中へ飛び込み溶け合い、音も無くあっけなく、永遠に二人の前から姿を消した。


 溢れる朝日の眩しさに目を細めながら、二人は石と指輪の消えた先を見つめた。
 009の小さな顔が半ば埋もれた膝掛けから、彼の目が覗いてじーっと上目遣いにこちらを見ているのに004は気付いた。


「・・・・アルベルト」

「何だ」

「・・・・・僕より先に死んだりしない?」

「その台詞、そっくりそのまま返そう」

009はちょっと面白く無さそうに唇を尖らせた。

「不満か」

「そうじゃないけど、まあ仕方ないのは分かっているよ」

「それじゃあ、」

004は009の肩の下に手を入れて、子供の様に持ち上げた。


「死ぬまで、嫌って言う程愛してやる」


009はぽかんとし、やがて噴き出した。

「何それ」

009は抱えられながらくすくすと笑い続け、揺れる肩から膝掛けが地面にぱさりと落ちた。


 急に笑いが止まる。

 息を飲む程に、強く強く抱き締められていた。






 草の上に二人の長い影が落ちる。
 二人の胸が重なって呼吸が一つになる。両の足が宙に浮き、009は腕を004の首に回して縋り付いた。

 太陽は生まれたての光をいっぱいに撒き散らして、空と海、そして二人の体を纏めて包んだが、二人にはもう何も見えず、何も聞こえなかった。







 夜ごと月は沈み、陽が昇る。


 美しいあの日は海に還る。


 悲しみや苦しみが波間を漂いまた涙と共に岸辺に流れ着いたとしても、

 今は目の前にあるその日の新しい太陽が、いつか再び巡り会う愛の形を教えてくれる。





 だから生きて行く。

 永遠の一瞬を、生き続ける。






                                       〜Fin〜



第十五章(3)へモドル | 009

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