月は夜ごと海に還り
(2)
メンテナンス室の奥のベッド脇。
椅子に腰掛けたまま上半身を白いシーツの上に俯せた姿勢で、009はぼんやりまどろんでいた。
体の損傷は修復されたとはいえ、一昨日やっと起き出した所なのだ。まだ生体組織に馴染みきらない新しいパーツの違和感が皮膚下に燻って、
どこかまだ重苦しい。すでに痛みは無いが、重症を負っていた体はサイボーグと言えども容易にリセットされはしない。
だるい首をもたげて上目使いに見遣ったベッドの主の顔。それが予想以上に自分と近くて内心慌てはしたものの、他にする事もない009は相手の意識が無い
のを良いことに、そのままの姿勢でリアを眺めた。
右目の包帯と顔の青白さが目を引きはしたが、包帯だらけの体がシーツで覆われて見えない今はただ眠っているだけの様に見える。血は綺麗に落され、傷は修
復され、黒い前髪が顔にはらりとかかり、その下に透けて見える眉は極上の墨と筆でさっと掃き流したよう。
今まで何度も至近距離で対峙したのに、睫毛の鮮やかな濃さと長さは気付かなかった。
目の前の彼が余りにもすっきりと綺麗だったから、ほんの僅かなふれあいで直ぐに目を覚ますのではないかと、そんな事を009は考えていた。
ぼんやり考えているうちにとろとろと意識は遠のいて、既に半分夢の中だった意識はドアの開くエアノイズを捕えてゆっくり引き戻された。
頭を上げ、とろんとした眼を向けた先には何となく不機嫌そうな004。
「・・・やあ」
「やあ、じゃない。いつまでここに張り付いている気だ」
009は眠そうな眼を擦った。
「いつまでって・・・リアが起きるまでだよ」
「いつ目覚めるかわからんってのにか」
しれっと言いきる009に内心苛々して004は呆れた声を出す。
「だから居るんじゃないか」
何を分からない事を言っているんだとでも言わんばかりに009は言葉を返した。
「・・・あのなあ・・・」
溜め息と共にゆっくり009に近付いて、背後の空いたベッドに腰を下ろした。
「いいか。お前さんはようやく起き出したばかりで体力は完全には回復していない。そんな状態でろくに睡眠も取らずにいつ起きるか知れない奴の目覚めを待っ
ているというのか」
009は振り返って不満気に相手を見る。
「僕はここに座っているだけで体力は必要無い。それに任務はちゃんと遂行しているだろ。迷惑は掛けていない筈だよ」
「今はミッション中も同然だ。僅かな情報を聞き漏らさないように、時間が空いた時は出来るだけコックピットに顔を出すのが俺達の義務だろう」
淡々とした説教に、009はぐっと言葉に詰まった。自分の信念を間違った形で捉えられるのは嫌だった。何より004には納得してもらいたいのに。
「もちろんそうだけど、瀕死の怪我人をその連れてきた本人が看病する。それは僕自身の義務に他ならないもの」
「・・・だからってな・・・!」
009の言い分は間違ってはいない。
間違ってはいないが、004は気に入らないのだ。
任務と最低限の睡眠や食事の他は四六時中メンテナンス室に入り浸りで、いつ起きるか知れない相手に付きっきり。コックピットにも
デッキにも姿を見せない上に004自身も任務があるから、すれ違いになって当然顔を合わせる機会はほとんど無い。
会いたいなら自分がメンテナンス室に赴けば良いのであるが、その彼がべったりの当の相手と言うのが・・・!
苦虫を噛み潰した顔で、小生意気な009とベッドの上を見比べる。彼に心情を説明した所で分かってはもらえないだろう。
なにせ彼にはリアの命を自ら救ったという大義名分がある。第一、身勝手な嫉妬と悟られるのも避けたかった。
004は不満な表情の009の腕を引っ張って、自分の隣に腰掛けさせた。
眼の前の赤い瞳にちらりよぎったと怯えの影を素通りする訳にはいかないと思った。
そうは言っても彼から一体何を聞き出そうと云うのか。
リアの件に関しては、009は目覚めた時に皆に話した内容以外の事は何も言わない。
004は009の両肩に手を置き、顔を覗き込む。しばらくじっと見つめて、そのまま何も言わず相手の頭を自分の肩に引き寄せた。
009は大人しくされるがままになった。
柔らかな茶色い髪に指を潜らせて004は暫しじっとする。
「・・・なあ、009・・・、」
「・・・なあに・・・?」
小さな頭が微かに揺れた。そのまま言葉は続かず、部屋が海の底の様に静まり返る。
言葉とは何と頼りなく脆いのだろう。あんなにも自分の心にしかと住み着いていた思いは、それが言葉となって口から発せられた途端にその真の意味をみるみ
る失っていく。言葉は目で確かめることが出来ないまま相手の耳と空気に吸い込まれるだろう。
009は黙って俯き、取り繕うように指を開いたり閉じたりしてもて遊んでいる。
そのままの姿勢でしばらくじっとした後、ふんわりした髪に唇を埋めて004は囁いた。
「全く、時々お前さんを鎖で繋いで傍に置いておきたくなるよ」
「ひどいなあ。僕は犬かい?」
「犬ならいい。もっと反応が素直だ。手を掛けたら掛けた分だけな」
そっと耳横の髪を掻き上げ、手を頬に添える。彼のまるい唇を親指でゆっくりなぞった。
鋼鉄の指先でさえも感じるその柔らかさ。じっと見つめてから眼を逸し、前髪を掻き分けて急いで額に口づけた
これ以上触れていると、ここがメンテナンス室だということを忘れてしまいそうになる。それでなくても、さっきから009は傍らのベッドの主を横目でちら
ちら気にしているというのに。
004は苦笑いして、体を離した。
立ち上がり、相手の小さな頭に手を置く。
「とにかく、余り無理はするな」
手の下で009がきゅっと頭を上げた。
「僕は・・・僕はね、捕まっている間君の事ばかり考えていたよ。だからせめて今はリアの事を考えていたいんだ・・・」
消えゆく語尾と共に009はすっと立ち上がった。
「さあ、もうすぐ僕の見回りの時間だね」
打って変った口調で明るく言うと、009はドアまで歩いて行った。
廊下に出る直前、009はつとこちらを振り返った。004が捕らえた彼の顔には喜びとも苦しみともつかない複雑な色が浮かんでいた。
そのまま言葉は無く、ドアは閉まった。
残された004は、先ほどまで座っていたベッドへ再び腰を下ろす。膝に両肘をつき、組んだ手に顎を乗せて息を吐いた。
目の前の病人をとくと眺めて、意識がまだ戻っていないことを確認する。
顎の下で右手の指がぴくりと動いた。
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