漢字教育士ひろりんの書斎漢字の書架
2015.1.           掲載
2015.2.     字統1 時点修正
2015.7.  字統1・3修正、4追加
甲骨文字小字典 新設
2016.4.        字統5追加
SPIN OFF

 資料調べは気を付けて

 このホームページに掲載した論考等の執筆にあたっては、当然のことながら、辞書をはじめ、既存の資料を活用した。これは「ネタ探し」のためもあるが、大半は自分の思いついたことが正しいかどうか確認するためである。ところが、この確認作業が一筋縄ではいかない。正しいはずの「規範的な」辞書にも間違いが多いからである。
 以下、各論考等で触れた部分と重複するが、筆者が気づいた間違いや注意すべき点について、資料ごとに挙げていく。
 なお、このページは、今後も問題を見つけるたびに更新していくつもりである。

「説文解字注」(清・段玉裁注、1815年:影印本第4次印刷 浙江古籍出版社 2010年)
 「説文解字」(後漢・許慎撰、100年)は、言わずと知れた文字学の「聖典」である。甲骨文の発見以前の書なので、字源説明には誤りが多く、白川静氏などに詳細に批判されている。
 また、原典がすでに失われているため、「説文解字注」などを参照するほかないが、この「注」に記された説文解字の親字や本文が、どこまで許慎の原典と一致しているかは不明である。たとえば親字として掲げられている篆書(小篆)は、唐代に李陽冰が復興するまでは忘れられていた書体であると言われており、復興されたものが許慎の時代のものと同一である保証はない。また本文についても、文意としては信用できたとしても、使われている文字の字体・字形については、宋代の大徐本を遡ることはないであろう。
 筆者が参照したのは「説文解字注」の影印本である。これは原本をそのまま撮影したものなので、段玉裁の著作と全く同一のものと思っていた。しかしこのような報告を見つけた(『説文解字注』影印本、謎の改悪)。筆者の影印本でも、この報告のとおり、「云」が「去」になっていた。油断はならない。
 「説文解字」については、本来なら宋代の大徐本や小徐本も参照すべきところであるが、至っていない。

「康煕字典(内府本)」(清、1716年[東京大学東洋文化研究所所蔵]: PDF版 初版 パーソナルメディア 2011年発行)
 これまた言わずと知れた、近代漢字の規範とされている字書である。内府本とは武英殿版のことで、清の宮廷で刊行された原典である。権威のあるものであるが、多数の人手により作られたために、誤りや方針の不統一が多いことが古くから指摘され、校訂の書も複数出版されている。
 筆者が遭遇した問題点を報告する。

1 画数を明示して各文字を収録しているのに、親字として掲げられた字がその画数では書き表せない場合がある(木部8画「棄」、木部4画「柿」(こけら)、艸部8画「hanakouki.png(5860 byte) 」〈長い横線が一本につながっているので7画となる〉)。これは、文字の配列を決定した者と、製版のための版下を書いた者との意思の疎通が不十分だったためかと思われる。

2 同一であるはずの構成要素の画数が違う場合がある。流は水部6画だが、疏・硫・琉はそれぞれ各部の7画とされている。流については、序文では7画の字体や別字体が使われている(「『棄』をめぐる混乱」参照)。

3 他の字書を引用している部分で、引用の際に字形を誤ったものがある。
例:木部4画のkokeraJIS.png(412 byte)(こけら)の解説で、説文解字の「削木札樸也」という定義が引用されているが、それに続けて「从木朮声」とある。右肩に点のある朮は、術や述の構成要素であり、音はジュツ。kokeraJIS.png(412 byte)の旁(音ハイ)とは全くの別字で、康煕字典作成時の転記ミスである。またこの後に「柿」という字体が掲載されており、正字通の「同kokeraJIS.png(412 byte)」という記述が引用されているが、このkokeraJIS.png(412 byte)にも肩に点がある。

miyabikouki.png(5938 byte) mekouki.png(5416 byte)

4 「雅」「芽」など「牙」を構成要素とする文字の親字の表記が、右図のような異体字となっている(「牙」「邪」は正字)。この異体字は説文解字の篆文に近く、その意味では由緒ある字体だが、説文解字では「牙」「邪」も同字体である。つまり、康煕字典の親字の字体に、同じ構成要素の場合も不統一が見られる。
 芽については、本文(引用文)中の字体は正字となっているが、これは引用元の字書類の字体を尊重したものか。ただし、白川静「文字答問」(平凡社)によれば、他の辞書からの引用文に使われている字形は、その辞書で使われている字形ではなく、康煕字典編者が置き換えたものとなっている場合が多いとのことである。

5 親字ごとに、過去の字書をはじめとする文献での記述を列挙しており、説文解字・集韻・玉篇・正字通などは多くの字で引用されているため、これらの字書に記載された文字の解説はすべて康煕字典に引用されていると思いやすい。しかし、「疏」に関する正字通の記載は、引用されていない(正字通の記載については大漢和辞典で確認できた)。
 それまでの主な字書の内容のすべてを集大成している、というわけではないことに注意する必要がある。


「大漢和辞典」修訂版(諸橋轍次著、大修館書店 1986年)
 日本最大の漢和辞典で、JISの文字コードの策定にも大きな影響を与えた。親字の解説は康煕字典(殿本=内府本)をはじめ各種字書から引いている。康煕字典の丸写しかと思ったが、同字典が引いていない記述も見られる(康煕字典の項5参照)。
 同じ親字が別の部に重複して出ているという話もあるが(ウィキペディア)、未確認。
 筆者が見つけた問題は次のとおり。

・「棄」字について、木部8画に配列されているが、その字形は9画でないと書けないものである(「『棄』をめぐる混乱」参照)。


「字統」新訂版 普及版第5刷(白川静著、平凡社 2011年)
 白川文字学の集大成といえる字源字典である。白川文字学そのものについての批判もあるが(落合淳思氏など)、筆者の指摘はもっと次元の低いものである。

1 肺・沛・旆の3文字(いずれも音ハイ)の篆文において、haitukuri_50px.png(247 byte)(4画)の字形が、柿・姉の旁と同じkakitukuritensyo.png(1693 byte)になっているが、正しくはkokeratukuritensyo.png(1697 byte)であるはずである(「『柿』と『こけら』」及び別掲「肺や沛(音ハイ)の篆文の旁には中央の横画が無いとする根拠」参照)。この問題は、「字通」「常用字解」にも共通であり、最新の「字通 普及版」(2014年)でも同様である。この件について、字通の校正を担当された田中栞氏の口添えを得て平凡社に連絡した結果、「今後、重版の際に、段階的に訂正していきたい」との回答を得た(2015.1.26)。見ず知らずの筆者の突然の依頼に、快くまた迅速に対応していただいた田中様に感謝します。
 なお、字統の凡例によれば、篆文の字形は「説文解字篆韻譜」(南唐 徐u9347_50px.png(571 byte) )所収のものとされている(版の記載はない)。そこで、筆者が同書(天理図書館善本叢書第6巻 元刊本影印本、八木書店 1981年)を参照したところ、肺及び「こけら」は予想どおりkakitukuritensyo.png(1693 byte)に従っていたが、沛・旆などは正しくkokeratukuritensyo.png(1697 byte)に従っていた。前者のグループは去声の「廢」の部、後者のグループは「泰」の部に属しており、何らかの理由により廢の部のものについて誤って記載されたものと思われる。
 字統などでは前述のとおり廢・泰両部の字がともにkakitukuritensyo.png(1693 byte)に従っているが、この異同については、編纂時に引用した篆韻譜と上記のものと、版が異なるために生じたものと思われる。
 このような貴重書であればなおさら、版ごとに異同が生じている可能性が高い。引用する際には版に関する情報も明記する必要があると思い知った。

2 「hai.png(299 byte) 」(ハイ)と「沛の旁」は篆文としては同形のはずであるが、字統の解説では、前者は「草木の花の咲き出る形」、後者は「木の葉の茂るさまをいう字で、勢いの盛んなものをいう」とされている。花と葉では、同じものとは言えない(「『柿』と『こけら』」 参照)。

3 「含」について、「載書のうえにふた(今)を置いて、呪能を内側に含ませること」とあるが(旧版も同様)、「常用字解」では同字について「今と口とを組み合わせた形。(中略)含は人が死亡したとき、その死気が抜け出ることを防ぐために玉を口に含ませて蓋をすること」とあり、さらに字通では「含は含玉の意であるから、今を口に加えて、死気を遮閉する意とみてよい」となっており、口について解釈が一定しない(漢検漢字教育サポーター養成講座レポート 漢字学各論Ⅰ 参照)。
 同様に、「屋」に含まれる「尸」についても、字統では旧版、新訂版とも「尸は屍(しかばね)の象である」とされ、常用字解では「屋根の形であろう」とされている。一方、字通では、説文解字の「尸は主(つかさど)るところなり。一に曰く、尸は屋の形に象る」を引用するのみである。
 常用字解の執筆にあたって字統(旧版)を参照しなかったとは考えにくい。また、もし字統(旧版)から常用字解執筆の間に著者の見解が変化していたとすると、その結果は当然、新訂字統に反映されたはずだと考えられる。新旧字統の見解が同じで、その中間に発表された常用字解の見解が異なっているという現状は、不可解と言わざるを得ない。

4 それぞれの親字には、甲骨文・金文・篆文等の古代文字の字形が記載されているが、存在するもので最も古いものは当然掲げられているものと思っていた。
 ところが、落合淳思氏によると、「甘」「名」については、甲骨文があるのに記載されておらず、そのために字源の検証も誤っているとのことである(「落合淳思氏の白川文字学への批判について」参照)。
 筆者が、「古代文字字典 甲骨・金文編」(城南山人編、マール社)により確認したところ、字統が採集対象とした中国科学院考古研究所の「甲骨文編」、金祥恒の「続甲骨文編」等に、甘・名の甲骨文が存在した。
 また、「将」についても、字統は篆文のみを掲げているが、落合や「漢字古今字資料庫」(台湾・中央研究院Webページ)は甲骨文が存在するとしている(「『ノツ』というかたち」及び次項参照)。この字については、字統が採集対象とした字書類にも載っておらず、遅れて発見された字のようである。
 上記の例はたまたま見つかった氷山の一角かもしれず、甲骨文や金文が記載されていなくても存在する可能性があることに注意が必要である。

5 「召」について、「卜文・金文の字形は明らかに人の降下する形である。」とあるが、掲出されている甲骨文のうち召の字体のものは、明らかに刀に従っている。凡例によれば甲骨文の字形は「甲骨文編」等からとっており、この甲骨文編等が、白川氏の見解と違って召字は刀に従うものとしていることによると思われる(拙稿「『召』の上部は『かたな』か『ひと』か」参照)。
 筆者の見解と引用資料が整合していないという問題である。


「甲骨文字小字典」(落合淳思著、筑摩書房 2011年)
 「漢字古今字資料庫」(台湾・中央研究院Webページ)との見解の相違について述べる。
 「将」について、小篆では爿と肉と寸に従う字となっており、「字統」には甲骨文を掲載していないが(上記「字統」4参照)、落合・資料庫とも将の甲骨文は存在するとしている。「漢字古今字資料庫」では、甲骨文として爿と二つの手(又)からなる字形のみを8例掲載しているが、落合氏は「将の甲骨文字には手の替わりに供物の肉を載せた異体字もある」としている。この異体字を落合氏作成の「甲骨文字データベース」で確認すると、一文字だけ両手と肉の形に従う字があるが、前後の文字が欠落していて文脈がとれず、「将」であると判断した根拠は不明である。(「『ノツ』というかたち」参照)

画像引用元

康煕字典(内府本)  清、1716年[東京大学東洋文化研究所所蔵]:PDF版 初版 パーソナルメディア 2011年

JIS規格外漢字(明朝体)  グリフウィキ(ウェブサイト)

小篆  漢字古今字資料庫(台湾・中央研究院ウェブサイト)