甲骨文や金文などの古代の漢字は、今よりずっとおおらかに描かれていました。いくつかの構成要素(この文では「部品」と呼びます)から成り立つ漢字は、その部品さえ揃っていれば、それぞれの位置関係には無頓着に、いろいろなかたちの字が通用したことも多かったようです。
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「男」甲骨文 田と鋤(すき)の象形から成る |
「好」甲骨文 女と子から成る |
このように、発音や意味が同じで、部品の配置だけが違う漢字のことを「動用字」といいます。ウェブサイトを調べてみると、現代にも生き残っている動用字がいくつも載っていますが、「康煕字典」などの古い字書を探すと、もっと多くの動用字を見つけられます。
以下に、「常用漢字(旧字体を含む)・人名用漢字+JIS第4水準までに含まれる字形」のセットに絞って(例外もありますが)、動用字の例を挙げます。左側が常用漢字などですが、右側の字も、古い看板などで見かけたことがありませんか?歴史的に見ると、右側の方が「由緒正しい」字であるものも多いのです。
★左右と上下
峰 = 峯
松 = 枩
崎 = 㟢
略 = 畧
群 = 羣
町 = 甼
期 = 朞
魂 = 䰟
椎 = 㮅
「椎」には「つち(槌)」などという意味もありますが、「しい」という植物名を意味するときだけ、㮅と動用字となります。ただし、康煕字典の引く字書によると、椎はクリに似て(集韻)、㮅はカツラに似ている(廣韻)とありますので、ひょっとしたら別の木かもしれません。その場合はごめんなさい。
棋 = 棊
椎までは、常用漢字の「へん」が上に移動しますが、この字以下は下に付きます。
鑑 = 鑒
これも「かねへん」が下に。皿は小さくなって右上に移動。「鑑真和上」の鑑は、右の字で書かれることもあります。
海 =
はJISに無い字ですが、弘法大師・空海は自らの名を書くときに、この字体をよく使いました(「風信帖」ほか)。
愉 = 愈
稿 = 稾
概 = 㮣
胸 = 胷
★上下と左右
勇 = 勈
これは多分ほかのウェブサイトには載っていないと思います。「勇」の構成は「マ+男」ではなかったのですね。
「甬」は、涌・俑・蛹・踊(音ヨウ・ユウ)、通・痛・桶(音ツウ・トウ)、誦(音ショウ)など多くの漢字に声符として使われている部品で、勇の場合も「ユウ」という音を示しています。
界 = 畍
島 = 嶋
正確に言えば、島の元の字形である「㠀」と嶋が動用字であることになります。
崖 = 崕
岸 = 㟁
翌 = 翊
翊は「たすける」という意味も持っています。
★左右入れ替え
秋 = 秌
隣 = 鄰
「こざとへん」と「おおざと」は意味が違うので、通常は入れ替わりません。この字については
こちらを参照。
和 = 咊
部首は口で禾は声符。ほかの字は普通、口が「へん」の位置に来るので、右の字の方が納まりが良いと思います。
★上下入れ替え
島 = 嶌
★その他
呪 = 咒
白川説では、兄の上部の口は、「のりと」を入れる器を表す「サイ」です。右の字ではこれが二つ並んでいるので、左側の字の「くちへん」も「くち」ではなくサイかもしれません。
蘇 = 蘓
雜 = 襍
雜は雑の旧字体。𠅃の部分は衣の異体字です。これが「へん」になり、木が右下に移ったのが右の字です。
野 = 㙒
讐 = 讎
讐は常用漢字ではないけれど、変形のしかたが面白いので載せました。
さて、次のペアももともとは動用字です。でも、だんだん使う場面が固定化され、字体によって引き受ける意味も限定されてきたので、今では別の字のように思われています。
裏 ≒ 裡
どちらも部首の「衣」と発音を表す「里」からなる形声文字です。裡は、現在では、「成功裡(り)に終わった」とか「心の裡(うち)を明かす」というふうに使われ、人名用漢字にもなっていて、裏と入れ替え可能とはいかなくなってきました。
脇 ≒ 脅
これは両方とも常用漢字で、現在では全く別の字として扱われています。しかし、漢代の「説文解字」には、字形は脅で、意味は「わき」だと載っているので、元は同じ字だとわかります。この字が同音の「怯」や「劫」に通用したために「おどす」という意味を持つようになり、その意味を「脅」の方が引き受けたため、形も意味も別の字のようになったのだと言われています。
同じ部品でできている漢字は全て動用字かというと、もちろんそうではありません。違った経過で作られた字が、結果として同じ部品でできていた、ということも多いのです。例をあげましょう。
含 ≠ 吟
細 ≠ 累
集 ≠ 椎
査 ≠ 柤
紫 ≠ 紪
棗 ≠ 棘
猶 ≠ 猷
架 ≠ 枷 ただし架について「また枷に作る」とする字書もあり(類篇)
いかがですか。同じ部品でできている字がこんなにいろいろあります。ほかにもたくさんありますから、探してみるのも面白いですよ。
さて最後に、「動用字かどうかよくわからないもの」を取り上げます。
忘 ≟ 忙
どちらも心+亡、音はボウですが、意味は「わすれる」と「いそがしい」。この意味の違いについては、「『心ここにあらず』というような視点から眺めれば、意味の共通性がありえます。」と書いている人もいます(大修館書店「漢字文化資料館」)。さっきの脇と脅に比べれば、これぐらいの意味の違いは大したことはないと思ってしまいます。
漢代(西暦100年頃)の「説文解字」には、忙の字形は載っておらず、このことからも、忘と忙の字はまだ分かれていなかった可能性があるともいえます。ちなみに同書では、忘の意味は「不識也」(知らないということ)とされています。
忙の字形がいつできたかよく分かりませんが、宋代の字書には忘とは別字として掲げられ、「心迫也」(集韻:11世紀)、「怖也」(廣韻:11世紀)と、今と違って「こわがる」に近い意味が挙げられています。13世紀の「篇海」で、「不暇也」と、「いそがしい」という意味が前面に出てきます。
結局のところ、忘と忙が動用字である証拠は見つかりません。でもそうではないと断言できるわけでもないと思います。漢字の歴史には、はっきりしない部分も多いのです。
参考・引用資料
説文解字 後漢・許慎撰、100年:下記「説文解字注」より
説文解字注 清・段玉裁注、1815年:影印本第4次印刷 浙江古籍出版社 2010年
新訂字統 普及版第5刷 白川静著、平凡社 2011年
康煕字典(内府本) 清、1716年[東京大学東洋文化研究所所蔵]:PDF版 初版 パーソナルメディア 2011年
大漢和辞典 修訂版 諸橋轍次著、大修館書店 1986年
漢字文化資料館 漢字Q&A(旧版)Q0082 大修館書店ウェブサイト
画像引用元
甲骨文、金文、小篆 漢字古今字資料庫(台湾・中央研究院ウェブサイト)
JIS規格外漢字(明朝体) グリフウィキ(ウェブサイト)