花降りしきる午後



− 7 −

桜が散り、深緑の葉桜が枝を覆い始めた頃。
小狼は、赤レンガ造りの邸宅を訪れていた。

「雨宮伯爵。この度は、まことにお世話になりました。
 あらためての御挨拶が遅れましたこと、お詫びいたします」

喪中でもあり、黒い礼服を着た小狼が、恰幅の良い老紳士に頭を下げる。

「いや、お気になさらず。
 しかし、少しお会いしないうちに、お元気になられて安心しました。
 帰国して間もない頃は、御心労な様子で…突然のことだっただけに、無理もないが。
 だが、今は立派に子爵家をお継ぎになった。亡き先代と奥方も、安心なさるでしょう」

「恐れ入ります。若輩者ですが、どうか今後も、よろしくお願いいたします」

「なになに。我が家と李家とは、先々代の頃よりの懇意。
 他人行儀な挨拶は、これくらいにしよう。さあ、こちらへ」

小狼が老伯爵に案内されたのは、プライベートな居間だった。
豪華だが整然として冷たい印象のある客間とは違い、舶来の地球儀やら洋書やらが
雑然と置かれたその部屋には、不思議な居心地良さがある。
ドアをくぐった小狼は、興味深げに巡らせかけた視線を、壁の一方で止めた。
立ち尽くす小狼の視線を追った雨宮伯爵が、静かに言った。

「私の、娘です」

「…娘…」

伯爵の言葉を、小狼は繰り返した。

「貴方にお話するのは、始めてでしたか。
 恥ずかしながら、勘当したのです。貧しい学者などに惚れて、家を飛び出しましてな。
 贅沢に育った世間知らずに、貧しい暮らしなど耐えられる筈がないと、タカをくくって
 おりましたが…。
 結局、帰っては来ないまま、十年前に病で……」

眸を細める老伯爵の隣で、小狼はただ、それをじっと見つめていた。


撫子の花を手に、こちらに向かって微笑みかける、美しい少女の肖像画。
ゆるくウェーブのかかった、長い髪に囲まれた白い顔は……さくらに、瓜二つだった。



− 8 −

「夜会に出席なさるんですか?」

子爵家の書斎では、山崎が社交嫌いの主に疑問を投げかけていた。
それに答える主の口調は、『だからどうした?』と言わんばかりに素っ気無い。

「ああ、そうだ。来週、イギリス大使を迎えての鹿鳴館でのレセプション。
 もし、招待状が届いていないようなら、なんとか手を打ってくれ」

「招待状は届いておりますので、その御心配はありませんが。
 それにしても……」

「なんだ?」

「夜会は、確かに婦人同伴が礼儀ですが…。
 この御注文の品は、私ではいささか」

「なら、三原にでも相談しろ。とにかく、そっちのほうも夜会に間に合わせるんだ」

「はあ…」

 コン コン

ノックの音から一拍の間を置いて、書斎の扉が開き、さくらが入って来た。

「お紅茶をお持ちしました…。あ、山崎さん。
 あの、お邪魔でしたら、また後で…」

「いや。今、終ったところだ。山崎、頼んだぞ」

「わかりました」

ため息をついて書斎を出ていく山崎は、すれ違い様チラリと、さくらに意味深げな視線を
投げかけた。

小狼に紅茶を運んださくらは、そのまま椅子に座って絵のモデルをしていた。
既に、イーゼルには白いカンバスが立てかけられ、本格的な下書きに入っているようだ。
身体を動かさないようにして、さくらは小狼に話しかけていた。

「小狼さまは、以前は外国に留学なさっていたそうですが、それはやっぱり、絵の勉強に?」

「ああ…」

答えた小狼の重い口調に、さくらは微かに首を傾げた。

「どうかなさったんですか?」

「…本当は、日本に戻った時、もう絵を描くのはやめようと思っていたんだ」

画布の上に、少女の柔らかな輪郭を描きながら、小狼は言った。

「えっ、何故ですか?…あ、すみません。わたし…」

「いや…構わない。
 絵を学びたいというおれの我が侭を許して、父と母はおれを仏蘭西へ送り出してくれた。
 向こうで色々な技術や、新しい絵画を流れをこの目で見て、学ぶことは出来た。
 だが、学べば学ぶほどに、おれは自分が描きたい絵がわからなくなったんだ。
 送り出してくれた両親に申し訳なくて、ろくに便りも出さず、荒れた生活をしていた…。
 そんな矢先の事故で、親の死に目はおろか、葬式にすら間に合わず、何もかも人任せに
 なってしまった。
 だから、もう…絵のことは、忘れようと思っていた。けれど…」

白いカンバスを見つめ、何かをふっ切ろうとするかのように、小狼は続けた。

「おれには、絵を描くことが必要なんだ。
 そのために、誰かに迷惑をかけても。不幸にしても。
 それでもやっぱり、絵を描くことを捨てられない…。そう、思うんだ」

少女の眸が、生涯の夢を定めた一人の青年の姿を映し、その唇を開かせた。

「あの、わたし、小狼さまの絵が見たいなって思います」

頬を染め、さくらは一生懸命に言う。

「きっと、見る人がみんな幸せになれるような、素敵な絵だと思います」

小狼の眸が、カンバスに引かれた線から、さくらへと移る。

「そんな絵が、いつか描ければと思うよ」

「だいじょうぶです。小狼さまなら、きっと…!
 …あ、すみません。わたしったら、絵のことなんか全然わかりもしないのに…」

さくらは耳まで真っ赤になって、膝の上で握りしめた手に、視線を落とした。
小狼は眸を細めると、低く囁くように言った。

「…不思議だな。君が言うと、本当にそうなれる気がする。ありがとう」


柱時計が、午後四時の鐘を鳴らした。

「じゃあ、今日はこれで…」

ぴょこんと椅子から立ち上がり、お辞儀をすると、さくらは空になったティーカップを盆に乗せ、
書斎を出ようとした。

「あ、ちょっと待ってくれないか」

呼びとめられ、振り返った眸に、何かをためらうような小狼の顔が映る。

「なんでしょうか?」

「……実は、ちょっと困っていることがあって。君に助けて欲しいんだが…」

言いにくそうに切り出された言葉に、さくらは顔を輝かせて答えた。

「はい、わたしに出来ることでしたら…!」



− 9 −

開け放された窓からは、気持ちの良い五月の風が入り、庭の藤の花が揺れているのが見える。
装飾のない木のベッドと、洋服ダンスが三つづつ。
そして、共同で使っているらしい化粧台の鏡には、髪を結い上げたさくらが映っていた。

「すご−い!さくらちゃん、綺麗〜!!」

千春が手を叩いて言った。

「ホント?ホントに似合う?千春ちゃん」

不安そうに問いかけるさくらに、メイド仲間の千春は、興奮した口調で答える。

「ほんとほんと。すっごく似合ってる!
 いいな〜さくらちゃん。夜会だなんて、私も行ってみたいな。
 ここのお屋敷、全然そういうの、しないしね。
 まあ、もしそんなことになったら、私達なんて大忙しなんだけれど。
 あ、もうこんな時間。山崎さん、ちゃんと馬車の用意してくれてるのかしら?
 わたし、ちょっと行って見てくるわね」

パタパタと千春が出ていってしまうと、さくらは着付けを手伝ってくれている利佳に向かって、
もう一度尋ねた。

「…どうしよう…利佳ちゃん。わたし、こんなドレス着るの初めてだよ。
 ホントに似合ってる?」

「大丈夫、よく似合ってるわ」

夜会巻きにした髪に薄紅色の薔薇の花を飾りながら、利佳が言う。
それでも、さくらは不安そうだ。

「ホント?小狼さま、ガッカリしないかな?
 急に夜会に出席しなくちゃならなくなって、でも、同伴してくださる御婦人がいらっしゃらない
 からって…。
 わたしなんかで、たいじょうぶかな…?」

「…さくらちゃん」

ふいに、利佳がいつもの優しい微笑みを消した。

「なあに、利佳ちゃん?」

鏡ごしに尋ねるさくらに、利佳もまた鏡ごしに話し始めた。

「…私ね、好きな人がいるの。
 あと、もう少ししたら結婚するの…。
 だからね、今は花嫁衣装やお道具のお金を貯めたくて、働いているの」

「わあ、おめでとう!」

「ありがとう、さくらちゃん。…あのね…」

さくらの心からの祝福に、はにかんだ利佳の表情が、いっそう沈んだものに戻る。

「…私は、待ちさえすれば好きな人と結ばれるわ。でも、さくらちゃんは…」

「利佳ちゃん…」

利佳の眸は鏡の中のさくらからもそらされ、俯いている。

「ごめんなさい、嫌なことを言って。御主人様は良い方だわ。
 でも…でもね。このままじゃ、さくらちゃん好きなひとの≪お嫁さん≫にはなれないわ…。
 それでも、いいの…?」

 バターン!

勢い良く扉が開き、千春が駆け込んでくる。

「さくらちゃん、もう馬車の準備も出来てるから玄関に来て!
 …わあ、素敵!本当に、外国の童話に出てくるお姫様みたいよ!!」



− 10 −

馬のひづめの音と、微かな振動。
鹿鳴館へと向かう馬車の中で、ほとんど何も話さないさくらに、小狼は気遣うように声をかけた。

「どうした?気分でも悪いのか」

「…いえ、何でもありません」

物思いに沈む顔を覗き込み、小狼は元気づけるように言った。

「突然で、すまなかった。
 だが、そんなに緊張しなくても大丈夫だ。ずっと傍についているから」


やがて、馬車はすべるように鹿鳴館の正面玄関に到着した。
小狼に手を取られて馬車を降り、夜露をさけるためのケープを外す。
黒い燕尾服の小狼と、薄紅色のシルクに白いレースをあしらったローブ・デコルテ
(婦人の最礼装。イブニングドレス)を着たさくら。
ホールのそこかしこで、さざめきの声が上がった。

「あら、お珍しい。李家の子爵様よ」

「爵位をお継ぎになってから、社交の場にいらっしゃるのは初めてではないかな?」

「お連れは、どこの御令嬢だ?」

「まあ、お可愛らしい。どうりで降るような御縁談にもつれないこと」


「…なんだか…見られてるみたいなんですけれど…」

小狼の腕をとったさくらは、青ざめて小さく震えている。
白い手袋をした細い手に、自分の手を重ねて小狼は囁いた。

「大丈夫だ。真っ直ぐ前を見て」

やがて、オーケストラが聞き覚えのある音楽を奏で始める。
さくらの母親が好きだった曲。
二人が書斎で踊った、あのワルツだ。

「踊ろうか?」

「でもでも、わたし…!」

「この前と同じでいい。…さあ」


小狼に促されたさくらの足が、軽くステップを踏む。
品定められるような囁き声も、視線も、遠のいていく。

キラキラと輝くシャンデリア
グラスの中で弾けるシャンパンの泡
衣擦れの音
薔薇の香り
優しく細められた鳶色の眸に映るのは、美しいお姫様


(これは、小さかった頃、お母さんが話してくれたお伽噺の世界。
 貧しい娘が魔法で美しい姫君になって、王子様と踊る。
 そして、二人は恋におちる。
 でも……。
 いつか、12時の鐘は鳴る。
 黄金の馬車はカボチャに。
 白馬はネズミに。
 姫君は、元の灰被りの娘に。
 ガラスの靴は残してはいけない。
 だって、これは現実だから……。)


「本当に、羽根みたいに軽いな。
 …それから…。そのドレス、良く似合ってる」

「あ、ありがとうございます」

翠の眸を縁取る睫毛が、そっと伏せられた。
永遠に留めていたい面影を、覆い隠そうとするかのように。


(…明日、お屋敷を出ていこう。
 これ以上、好きになってしまう前に。
 だいじょうぶだよ、何とかなるよ。
 ひとりでも、きっと……。)


「疲れただろう?」

植込みに囲まれた庭の噴水のほとりに、小狼はさくらを座らせた。

「だいじょうぶです。ちょっと、人に酔ったみたいで…。
 あの、今夜は本当にありがとうございました。
 ドレスも、ダンスも。何もかも、まるで夢のようで…。
 きっと、一生忘れないと思います」

薔薇色に染まった頬と、潤んだ眸。
大きく開いた襟元からのぞく、華奢な肩。白いうなじ。
思わず目を奪われた小狼は、ぎこちなく視線をそらすと、小さく呟いた。

「…一晩だけの夢を見させるために、ここに連れてきたわけじゃない…」

「え…?」

その時、こちらに近づいてくる人の気配に、小狼はスッと立ちあがった。
そして、現れた人物に深々と一礼する。

「どうしたのかね、子爵?
 君の秘書から手紙を受け取ったのだが、こんなところで折り入っての話とは」

「雨宮伯爵。このような場所にお呼び立てして、申し訳ありません。実は…」

伯爵、と聞いたさくらも慌てて立ちあがり、ドレスの裾をつまんでお辞儀をする。
だが、顔を上げた瞬間、伯爵はうめくように言った。

「撫子…!?」

「ほえ…?どうして伯爵様が、お母さんの名前を…」


ワルツが華やかに最終楽章の演奏を終え、夜の向こうからさざめくような拍手が聞こえてきた。



                                   − つづく −


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