兄貴の一番長い日



− 序 −

「はい、とーやくん」

にっこり笑う母さんから、差し出されたそれ。
七歳児の腕には軽くない重みに、父さんの手がおれの背中を支える。

真っ白な病室の中、初めて間近に見る“いもうと”なる生き物。
ゴムボールよりぐにゃぐにゃで、湯たんぽみたいにあったかくて。
うすいピンクの産着からのぞく、顔はというと。

「……サルみたい」

おれの正直な感想に、母さんが鈴の鳴るような声で言う。

「とーやくんだって、うまれたばっかりのときは、ちっちゃなおサルさんみたいで
 すっごくかわいかったのよ」

びっくりして顔を上げると、父さんもメガネの奥で目を細めている。
おれは仕方なく、腕の中のサルもどきを、もう一度見直した。
まばらにしか毛の無い頭。真っ赤っかなシワくちゃ顔。

友だちの家で遊んだ“おとうと”や、こないだ写真を見せてもらった
“はとこのともよちゃん”とは、ぜんぜん違う。
おれの“いもうと”なる生き物は、やっぱり、ちっともかわいくない。

あらためてガッカリして、肩を落とした、とたん。
シワに埋もれていた目が、ぱちりと開いた。

母さんと同じ、きれいな翠(みどり)…。
ラムネの中のビー玉みたいにまんまるで、すきとおって。
じいっと、おれを見上げている。

消毒液のツンとした臭いに混じる、甘酸っぱいミルクの匂い。
それと、微かな花の香り。
引き結んでいた口を、やっと開いた。


「……さくら」


窓の向こうでは、妹と同じ名の花が満開に咲き誇っていた。



− 1 −

大学を卒業し、就職して三年目の夏。
ようやく、俺もそれなりの仕事を任されるようになった。
五月の連休から残業と休日出勤が続いたが、それも−段落して、久々にのんびりした
週末だ。

まずは昼までたっぷり眠り、睡眠不足の解消を図る。
午後からは、自分の部屋の掃除だ。
あちこちに積もった埃を払い、古い雑誌や仕事の資料を片付け、ようやくスッキリした。

さて、夕食当番も暫く免除されていたから、今夜は久しぶりに腕を振るうか。
そう思い、エプロン片手に一階に降りると、台所からは野菜を刻む小気味良い音。
てっきり父さんだと思ったが、俺の足音に振り向いたのは、七歳年下の妹だ。

「今日のばんごはんは、わたしが作るから。
 お兄ちゃんは、ゆっくりしてて」

見れば、コンロの上では幾つかの鍋が湯気を上げ、良い匂いを漂わせている。
下ごしらえも済んでいるようだ。
俺は妹の厚意を尊重することにして、リビングのソファーに腰掛けた。

さくらも随分、しっかりしてきたな。
時間を持て余した俺は、かつての小さな“怪獣”を思い出し、感慨に浸る。

小学校に上がる頃から、少しづつ家事当番をこなすようになったさくらも、最初は
失敗ばかりだった。
洗濯すれば、色物を一緒くたにしたり、パンツまでパリパリに糊付けしたり。
掃除をすれば、掃除機のゴミパックの中身をぶちまけて、埃まみれになったり。
夕食を作る度、指を絆創膏だらけにしてたっけ。

揚げ物なんか危なっかしくて、一人の時は絶対メニューには入れさせなかったな。
四年生ぐらいになるまで、さくらが当番の夕食は、カレーかシチューか肉じゃがか、
せいぜいハンバーグかグラタンか…。
それが今では手際よく、揚げ物・汁物・和え物と、何品もの料理を作っていく。
母さんは、洗濯以外の家事は苦手だったから、そこは父さんに似たんだろう。

キッチンを振り返れば、食卓の上の写真立ての中で微笑む母さんの姿。
真っ白なフリルのエプロンを着け、真っ黒なオムレツを皿に盛っているところだ。
その向こうでは、シンプルなワークエプロンを着けて、くるくると動くさくら。
油の中で肉を揚げる音。

家族の欲目を抜きに、感心する。
高校生で、これだけ家のことができるなんて、今時珍しいだろう。
今すぐ嫁に出してたって、恥ずかしくな……………

「あれ、お兄ちゃん?
 もう少しで、出来るけど……って、ああ〜ッ!?つまみ食い!!
 最近はケロちゃんだってしないのに、いい大人がお行儀悪いよ。
 味見を手伝うとか言うんなら、お茶碗とお箸出して、お父さん呼んできて!!」

ひとしきり文句を並べたさくらは、無言のまま指についた油を舐める俺に、急に不安な
顔になった。

「……ええと…。もしかして、美味しくない…?」

翠色が、俺を見上げる。
まるく、透き通って。ぱちりと一度、まばたきをする。

「いや、美味い。怪獣が作ったにしては」

とたんに膨れっ面の“怪獣顔”になったさくらが、俺の足を踏みつけようとした。
素早く避けながら、昔と変わらない妹にホッとする。
だから、この時はそれ以上、気にしなかったのだ。
さくらの、妙に俺の機嫌を伺う様子にも。誰に教わったのか、我が家の食卓には珍しい
中華風の味付けにも。


   * * *


一ヶ月ぶりの、家族三人が揃っての夕食だった。
食卓に並ぶメニューが、やや豪華なのも、サービス良く冷えたビールとグラスが
運ばれてきたのも、久しぶりの団欒だからだろう。
箸を置いたさくらが、意を決したように尋ねてくるまでは、そう思っていた。

「お兄ちゃん、明日の日曜日って、お家に居る…?」
「ん?別に、出掛ける予定はないな。
 ちょっと、ゆきのところに顔を出そうかと思ってるぐらいで…。」

あからさまにホッとした顔だ。
飯を一口頬張り、飲み込んだ後、いつもの調子で言っておく。

「なんだ、食事当番か?別に、やらんでもないけどな…。
 夏休みだからって、遊び呆けてばかりいると後で泣きを見るぞ、受験生」

まったく、口を開けば息抜きだのデートだの。
だいたい、仕事で留守がちだからって、父さんはコイツに甘すぎる。
その分、俺が目を配り、小まめに口を出す羽目になるんだ。
高校3年にもなって、相変わらずフワフワしてて、危なっかしいからな。
こういうところは、母さんそっくりだ。

「そうじゃありませんよ、桃矢君」

俺は、サラダに伸ばしかけていた箸を止めた。
父さんは、いつもどおりの穏やかな顔で、後を続ける。

「李君が、僕と桃矢君に大切な話をしにいらっしゃるそうなんです」

そして、半分空いていた俺のグラスにビールを注いだ。
きっちりと縁で止まった白い泡から視線を移すと、俯いたさくらの耳は
サラダを飾るトマトより赤くなっている。

数年前に魔力を無くしてから、“先のこと”はわからなくなった。
それでも、この状況を読めないほど、カンは悪くないつもりだ。

目の前のグラスを掴み、ビールを空けた俺は、平静を装う。
それでも、さも興味無さそうに答えるのが精一杯だった。

「……ふうん」

それから後は、料理の味も、ビールの酔いも、まるで感じなかった。



− 2 −

「だからな、兄ちゃん…。え〜と、どおゆうたらええやろかなぁ…」

目の前をふよふよと漂うのは、背中に小さな羽根のついた、黄色のぬいぐるみ。
もとい、妹の“守護獣”だ。

夕食の後、何か言いたそうなさくらに背を向けて、自分の部屋に引き上げた。
少し前には、ドアの前に佇む気配も感じたが、それも気づいていないことにした。
そうして籠城を決め込んだ俺は、一人、寝酒に部屋に置いていたウィスキーでチビチビ
やっていた…ところへ、外から窓を叩いたのが、このぬいぐるみだ。
何の因果か、まん丸いスポンジ頭と差し向かいで、酒を呑むことになろうとは。

「そらな、世間一般からしたら、ちぃーっとばかし気ィが早いかもしれんけどなぁ…。
 なんだかんだゆうて、あの二人、もう六年のつきあいなんやし。
 知りおうてからやったら、かれこれ八年やろ?
 それ考えると、早過ぎるちゅうことも、あるような、ないような…。」

真の姿はトラの癖に…と言ったら、『ちゃう!!わいはライオンや!!』と否定されたが
…酒に弱い守護獣は、ボトルの蓋に注いだ酒を舐め舐め、既に呂律が怪しい。

「小僧もガキはガキやけど、あれで道士としては一人前やし。
 一応、自分でかせいどるから、“親のスネかじり”とも言えんしなぁ〜。」
「裏切り者…。」

ぼそりと呟く俺に、ぬいぐるみの額には大量の汗が滲み出る。
だいたいコイツが夕食の席にいなかったのも、考えてみれば妙だった。
久しぶりの家族水入らずに遠慮したのだろうと思っていたが、何のことは無い。
揉め事に関わるのが面倒だったのだろう。だが、今や立派な当事者だザマアミロ。

「いや、いやいやいや、兄ちゃん!!
 そら、わいかてな、小僧ごときにさくらを任せんのは、どうかと思わんでもないんやで!!
 けどな、……けど、なあぁ〜」

手足と羽根を振り回して力説しようとしたぬいぐるみは、却って酔いが回ったらしい。
へなへなと机の上に尻から落ちると、焦点の合わない目をあちらこちらに彷徨わせる。

「あのなぁ〜、さくら、今さらなんやけど、ごっつ心配しとんねん。
 こないだ、小僧にぷろぽおずされてな、ここしばらく、こう、地に足が着いてないちゅうか
 ふわふわ〜っとしとったんやけど、兄ちゃんが何も言わんと不機嫌そうにしとったの見て、
 やっと我に返ったんやろな。
 『お兄ちゃん、小狼君と仲悪かったし…。いきなりケンカになっちゃったらどうしよう…』
 とかブツブツ言うて、ぐるぐるしとんねん」

そこは、想像がつく。
色々としでかしては、後でぐるぐる悩むのは、昔からだ。
たいていは、家族や周りの人間に気を遣い、誰も困らせない方法を探そうとして…。

手酌しで杯を重ねる俺に、頼りない守護獣はにじり寄る。
意図してか、単に腰が立たないだけなのか、既に土下座の体勢だ。

「そやからな…、兄ちゃん。
 ここは一つ、さくらのために大人になったってくれへんか…?」

ゴマ粒大の目は、酔いで潤んではいるが、真剣だ。
コイツもコイツなりに、さくらを思ってくれてはいるのだろう。
それが、わからないワケじゃない。
わかった、というつもりで口を開く、その前に。

「さくらが、小僧がええ。小僧でないとアカン、言うんやから…。」

びきッ と、手にしていたグラスにヒビが入る。
ひぃイッ と、ぬいぐるみの口から悲鳴が上がった。

「……と、とにかく。暴力はアカンで、暴力は。
 何事も、話せばわかるんやから…なっ?な!?」

勝手に締めくくったぬいぐるみは、ほななぁ〜と、間の抜けた挨拶を残し、ふらふらと
窓から出て行った。
戻った先では、さくらに首尾を問い詰められているだろう。
役立たずの酔っ払いは、当分の間、部屋に閉じ込められるがいい。
ザマアミロ!!

まったく、どいつもこいつも結局は、あのガキの味方しやがって…。
ボトルの残りをがぶ飲みした俺は、ぐるぐる回る天井を眺めながら、ベッドにひっくり返った。


   * * *


翌朝、天井は回る代わりに、頭に圧し掛かってくるようだった。
カーテンを開けっ放しだった窓から差し込む太陽が、眼球から脳味噌に突き刺さる。
完全な、二日酔いだ。
俺は最悪な体調で、人生最悪の日を迎えるに至ったのだった。



− 3 −

台所では、いそいそと料理をこしらえている父さんとさくら。
リビングでは、イライラと新聞を開いたり閉じたり、TVをつけたり消したりしている俺。

……ていうか、役割が変だろコレ。
なんで父さんが、“娘に全面協力して頑固親父を包囲する良妻賢母”のスタンス?
そんで“頑固親父”が俺かよ!!

逆さまに眺めていた新聞を放り出し、ズキズキと痛む額に手を当てる。

思えば父さんが、さくらにもアイツにも劇甘なもんだから、いつも俺ばっかりが
年頃になったさくらに、門限やら服装やら、口喧しく言ってたっけ。
煩がられようが、疎まれようが、俺が言わなきゃ誰が言う。
なのに、肝心のさくらときたら、能天気な顔でのたまったものだ。

 『お兄ちゃん、小狼くんとおんなじこと言う…。』

……いや、“おんなじ”じゃねーから。絶対。
重くなる一方の頭を、思わず抱え込む。

母さん。母さんが生きていれば、父さんも求婚者を持つ娘の父親らしく振舞ってたのかな?
俺は、そんな様子を、気楽に笑って眺めていられたのかな…?
俺、母さんが生きていてくれたらと、今日ほど思った日はないよ…。

心で語りかけても、テーブルの写真立ての中の母さんは、ただ笑っているだけだ。
もしかしたら、そこら辺にいるのかもしれないが、今の俺にはわからない。
いたとしても、きっと笑っているのだろう。
写真の中のドレスのように、真っ白な羽根に包まれて…。


  ピンポーン  ピンポーン


玄関のチャイムが、二度鳴った。
俺はソファーから、弾かれたように立ち上がる。

……来やがったな…!!
まだ高校生の分際で、さくらと結婚とか、フザケタことをぬかすヤツが。
ガキで学生で未成年で、婚姻届にだって親の同意が必要なクセに。
ああ!?いい度胸してるじゃね−かッ!!

「あ、お兄ちゃん。わたしが…」

エプロンを外したさくらを無視して、ドスドスと廊下を突き進む。
乱暴にドアを開け、チェーンの隙間越しに思いっきり睨みつけた。

「……あ、あのぉ〜。お届け物ですが…」

怯え切った顔が、おずおずと荷物を差し出した。
父さん宛のお中元か。ええい、この忙しい時に紛らわしい!!
ガチャガチャとチェーンを外して荷物を受け取り、バシッとばかりに判を押すと、
宅急便屋は逃げるように背を向ける。
ドアを閉めようと、ノブに手をかけた。

「失礼します」

どうやら宅急便屋の後ろにいたらしい。
忌々しい顔が、目の前にあった。

「ご無沙汰しています。李小狼です。
 木之本藤隆さんは、ご在宅でしょうか?」

淀みのない声。
夏素材ながら、きっちり着こなされたス−ツ。
一瞬、このままドアを閉めて鍵とチェーンをかけ直したいと真剣に思った。
実際、あとコンマ一秒で、そうするところだったのだ。

「小狼くん、いらっしゃい!!」

さくらの、弾んだような声さえ背後から聞こえなければ。



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久々の更新は、書きかけのまま長らく放置されていたネタです。
ベタな王道の話になる…かどうか?
年内完結を目標に。

(2012.4.15本文一部修正)