こどものじかん − 第2話 なつのおもいで − act 5 シャッ 音を立てて、スケッチブックに大きく×(バツ)印が描かれる。 これでもう、何枚無駄にしてしまっただろう。 白いペ−ジを開きながら、ウソップは小さく舌打ちをした。 目の前には、連なる山々。鏡のような湖面。 頭上には、空の蒼さを引き立てるように浮かぶ真っ白な雲。 目を閉じれば、頬を撫でる風と木の葉のそよぐ音。 土と、水と、緑のニオイ。 絵心のある者ならば、筆を取らずにはいられない筈だ。 だが、ダ・ビンチの再来と謳(うた)われるア−ティストソウルを持つウソップの心は スケッチブックから離れ、湖面を漂う。 そう、ちょうどボ−トに乗った空色の髪の少女の方にである。 「おね−ちゃん、おさかな、おさかな」 「ほんと!いっぱいいるわね〜。ウソップ〜、ルフィさ〜ん!まだ釣れないの〜〜!?」 湖の上から、ビビが手を振る。 ウソップの隣で今まで船を漕いでいたルフィが、ハッと目を覚まして言った。 「どこいった、バタ−ソテ−は〜〜ッ!?」 「まだ釣れてねぇよっ!! てか、ルフィ。涎垂らしてねぇで、ちゃんと見てろよ」 二人の前には釣竿があるのだが、水の中に垂れた糸はピクリとも動く気配がない。 ルフィは麦藁帽子を被った頭をぐるんと向けると、不思議そうに言った。 「なんだよ、ウソップ。 機嫌悪ィな〜。あ、わかった。“アノ日”だろ」 「そう、今日は二日目でツラくてツラくて……なワケ、あるかぁ!!」 ビビが居たら、間違いなく一発づつどつかれるだろう。 だが、ボ−トの上のビビの視線はオ−ルを持ったサンジの方に向いていて、 もう、こっちを見てはいない。 「ンなに覗き込むと危ねェよ」 日の光に濃い金髪がキラキラと光るのに、ビビは目を細めている。 あそこにいるのは、自分の叔父と、そしてイトコだ。 ずっと、そう思っていた。 でも、あの二人は叔父と姪ではなく、自分達もイトコ同士ではないらしい。 赤の他人だ。 …昨夜、聞いてしまった話によると。 * * * あの後、ウソップの口を押さえたまま、コテ−ジの玄関まで引き摺っていったビビは ようやく手を離した。 『ぶはっ!お、脅かすなよ、ビビ』 『驚いたのはこっちよ。 窓から下を見たら、何かごそごそ動いてるし。泥棒かと思ったじゃないの。 一体、何やってたのよウソップ?あんなところで』 そういうビビの手には、モップの柄が握られている。 確かにビビが泊まっている寝室の窓からは、ウソップが隠れていた茂みが丸見えだ。 …そしてもちろん、テラスも見える。 『いや、俺様はトイレ……あ、いやその』 当初の目的を思い出したウソップに、ビビは顔を赤くして呆れたように言った。 『じゃあ、早く行って来なさいよ!…もう』 用を済ませたウソップが出て来ると、ビビは 『また明日ね』 とだけ言って、コテ−ジの扉を閉めた。 テラスには、まだ明かりが付いていたが、ウソップは真っ直ぐにテントに戻り ルフィの隣の寝袋に潜り込んだ。 だが、頭の中ではさっきの会話がぐるぐるとして、寝付けない。 サンジとウソップの母親とビビの母親は、姉弟だというのに全く似ていなかった。 全員、母親が違うのだということは早くから聞いている。 ゼフは、…平たく言えば、女癖が悪かったのだ。 ウソップの祖母とビビの祖母はゼフの“妻”だったが、サンジの母親とは正式に結婚していない。 そういったことは、大人達の会話の端々から、少しずつ耳に入ってきた。 知りたかろうと、なかろうと。 ……ビビは、知ってんのか…? ビビが何時から自分の後ろに立っていたのか判らない。 けれど…。 忘れていた思い出が蘇る。 『ビビは、に−ちゃんとはケッコンできね〜んだぞ!おじさんなんだから!!』 お転婆なビビが、たまに帰って来るサンジの前では大人しく女の子らしくしているのが 面白くなくてそう言うと、ビビは頬を膨らませて怒った。 『そんなの…、しってるもん!ウソップのいじわる!!』 そして、しばらくは口も利いてくれなくなるのだ。 まだ、カヤやチョッパ−と同じくらい。 ウソップの父親も母親も、彼の傍に居た頃…。 “昔は良かった”なんて想いに囚われるほど、ウソップは長く生きてはいない。 けれど、胸がひりりとして、寝袋の中で何度も寝返りを打っていた。 夜明け前に、ウソップはやっと眠りについた…… ところを、ルフィに叩き起こされたのである。 『おおぉ〜〜、朝だぞ――!! 今日もイイ天気だああぁ〜〜〜!!!』 確かに、山々の間からゆっくりとその姿を見せる日の出は素晴らしく清々しく 心を洗われる光景ではあったが、寝不足には堪えた。 『キレイね〜。ルフィさんのおかげで、こんな素敵な日の出が見れたわ!!』 そう言って笑うビビの目も、充分に眠たそうではあったのだが。 朝一番に顔を合わせた時も、朝食の席でも、ビビはいつもと変わらない。 カマドの火と大きなフライパンで焼いた、トマトソ−スとチ−ズのシンプルなピザと カリカリに炒めたベ−コンを油ごと茹でたジャガイモとレタスで和えたサラダの朝食を 食べながら、会話は今日の予定になる。 『この湖って、鱒(マス)が釣れるんですって?』 『鱒はバタ−ソテ−が最高ですよ、ナミさんv』 女性に給仕をする時は、決まって上機嫌なサンジが焼きたてをカットしながら言う。 『バタ−ソテ−!?美味そうだな、ソレ』 切った端から掴み取るルフィには、手短に。 『じゃ、釣って来い。 物置に釣竿が置いてあったしな』 『おお!!釣るぞ〜〜っ!!!』 というワケで、今日は湖で鱒釣りとなった。 釣りのポイントは、ここから湖を半周したところだったので急遽弁当を作り、 パラソルやらレジャ−シ−トやらを車に積む。 ウソップは画材を準備した。 せっかくの美しい景色、書かないのは勿体無い。 だが、午後になってもスケッチ一枚仕上がらないまま、時間だけが過ぎていった。 * * * 「楽しかったね〜♪」 「オラ、交代だぜ。クソ剣士」 「あ−?」 「あ−、じゃないでしょ? あんたも偶には家族サ−ビスしなさいよ」 釣り場には、この近辺に点在する別荘に避暑に訪れる客のために、船着場とボ−トがあった。 その一隻を一日借り切って、交代で乗っている。 船上の人となったゾロとナミ、チョッパ−の三人を見て、ルフィが口を尖らせる。 「つまんね−、ぜんぜん釣れね〜し。よぉ〜し!!」 ルフィは立ち上がって赤いシャツを脱ぐと、サンジ達と戻って来たビビに麦わら帽子を渡した。 「にししっ、預かっといてくれ!」 そしてサブザブと湖に入っていく。 「お−、つべて――!! でも、気持ちい〜ぞ!!!ウソップも来いよ〜〜」 水の中からルフィが呼ぶ。 「俺様はなぁ〜、ただ今、創造的作業の最中なんだよッ!!」 そう答えながらも、ウソップの目は横に座るビビに吸い寄せられてしまう。 上は長袖のパ−カ−だが、白いショ−トパンツから長い脚がすらりと伸びて、 そこらのアイドルなんかより、ずっと可愛い。 だから当然、ものすごくモテる。 ビビがウソップのイトコだと知ると、学校の男連中は口を揃えて羨ましがった。 紹介してくれとか手紙を渡してくれとか、色々言ってくる。 片っ端から、断わっているが。 ウソップの隣に座ったビビは、ルフィの麦わら帽子を脚の上に乗せる。 まるでウソップの視線を遮ろうとしているかのようで、慌てて目をそらす。 ルフィが再び声を掛けてきた。 「スッキリすんぞ!!」 「……!」 ルフィは時々、こんな風に人の心が読めるかのようなセリフを吐く。 「…よ〜し!」 シャツと靴を脱ぎ捨て、ウソップも湖に飛び込んだ。 …とたんに、激しく後悔した。 「ギャ−、づべでぇ〜〜!!」 ジタバタするウソップに、ゲラゲラ笑いながら水をかけるルフィ。 レジャ−シ−トに座ったビビは、羨ましそうに言った。 「いいなぁ、男の子って」 「ビビも来いよ〜〜」 「やぁよ。濡れたら下着まで透けちゃうじゃない」 「ブッ!?」 想像してしまったウソップが、赤くなった鼻を隠そうと、湖に沈む。 膝の上でうとうととしはじめたカヤの頭を撫でながら、サンジが笑いを噛み殺す。 それに気づいたビビは、耳まで真っ赤になって俯いた。 ……知ってんのかな、やっぱり…。 ウソップの背中に、いきなりルフィが飛び乗ってきた。 しばらくルフィと水の中で取っ組み合った後、濡れた身体でレジャ−シ−トの上にうつ伏せに 寝転がったウソップは、そのまま眠り込んでしまった。 昨夜の睡眠不足がたたったらしい。 陽が傾きはじめた頃、ようやく目を覚ましたウソップは、背中の痛みに飛び上がった。 「山に来て、日焼けのしすぎだなんてアホだな。おめェは」 サンジが消炎スプレ−と冷やしたタオルを手に呆れたように言う。 「痛ぇ、痛ぇ、痛ぇ〜〜!!」 真っ赤に焼けた背中にスプレ−を吹き付けられながら、ウソップは涙目になっていた。 * * * ウソップが眠っている間に、鱒は大量に捕れていた。 釣ったのではない。 ボ−ト漕ぎから開放されたゾロは、ついでとばかりに手に長い木の枝を持って ザバザバと湖の中に入り、暫く突っ立っていたかと思うと その枝の先で次々と魚を串刺したのだ。 それが終わると今日の仕事は終了とばかりに、また昼寝に戻った。 釣竿の番をする必要が無くなったルフィは、喜び勇んでチョッパ−と共に森へ分け入り キノコやら木の実やらをそれぞれの帽子一杯に捕ってきた。 ウソップ同様、但しパラソルの下で昼寝をしていたビビは、一緒に行けなかったことを しきりに悔しがっていた。 コテ−ジに戻っての夕食は、捕れたての鱒のソテ−とキノコのホイル包み焼きを中心とした バ−ベキュ−だ。 野生の木の実はさっとシロップで煮立たせて、デザ−トのフロ−ズンヨ−グルトに添えられた。 夕食の最中も、ウソップはほとんどビビと話をしなかった。 背中がひりひりと痛んで、ルフィに鱒を盗られてしまったが、文句を言う気力も無い。 サンジに睨まれて苦手なキノコを一息に飲み込み、慌ててデザ−トで口直しをする。 「よ−し、真っ暗になったら、花火すんぞ〜〜!!!」 デザ−トの器を置くやいなや、ルフィが言う。 早いぺ−スで食事が進んだおかげで、空はまだ明るさを残している。 「元気だなァ、お前はいつも…」 「何言ってんだ、ウソップ。 キャンプは花火って決まってんだろうが!?いっぱい買ってきてんだぞ〜〜♪」 ルフィがジ−プの方へと走っていく。 積んである花火を取りに行ったのだろう。 ルフィと話すのは普通の時なら楽しいが、そうでない時は疲れてしまう。 コテ−ジの裏手に回ったウソップは、ふいに呼び止められてその場に立ち竦んだ。 「ウソップ」 ひりひりする背中から声をかけられて、首だけで振り向いたら物凄く痛い。 「ちょっと、良い?」 夕日が沈み切り、暗くなり始めた空の下で、ビビの白い顔は何時も以上に真面目だった。 * * * 「何か怒ってるの?ウソップ」 コテ−ジから少し離れた森の入口で、ビビは単刀直入に切り出した。 「今朝から何か変よ。 話しかけても上の空だし、こっちを向いてもムスッとしちゃって…。 あ、ウソップがお兄ちゃん達の話を立ち聞きしてたこと、私、誰にも言ってないからね」 「そんなんじゃねぇよ!」 背中がひりひりして、何もかもが上手くいかなくていらいらして つい、ウソップは怒鳴った。 「何よ、そんな大声出さなくても聞こえるわよ! やっぱり変よウソップ。凄くおかしい」 「おかしいのは、そっちだろ!?」 ひりひりして、いらいらして。 腹が立った。 「…何がよ」 ビビの眉間に皺が寄る。 怒らせたら、やっかいだ。 それが判っているのに、止まらない。 「おまえ、知ってたんだろ…。 おまえの母ちゃん、本当は祖父ちゃんの子供じゃないんだって。 だから、俺ともカヤとも祖父ちゃんとも兄ちゃんとも、全然、血が繋がってないって。 親戚なんかじゃねぇって!」 …沈黙。 ウソップは、しまったと思った。 ビビは知らなかったのかもしれないのに。 けれど。 「知ってたわ」 一呼吸置いて、ビビは言った。 「中学に上がる、少し前かな。 私のパスポ−トを取る手続きの書類が、パパの書斎にあって…。 ちょっと、覗いてみたの。そしたら戸籍で私のママ、“養女”ってなってたから」 当然のことのように返されて、ウソップは無性に腹が立った。 やっぱり、ビビは知っていたのだ。 それも、ずっと前から。 自分だけが知らなかったのだ。 彼がもう少し大人だったら、人一倍表情豊かなビビが何故、大人びた顔で淡々と話すのか。 その心中を推し量ることが出来たかもしれない。 けれど彼はまだ、それが出来る年齢ではなかった。 「だってお前、そんなのずり−じゃねぇか!」 自分が何を言いたいのか、何を言おうとしているのか 考えるより先に、言葉が口をついていた。 「…何がよ!?」 さっきと同じ言葉を、さっきよりずっとキツイ口調で返してくる。 それでも、止まらなかった。 「だってお前! カヤの母ちゃんが居た頃は、たまにしかあの家に遊びに来なかったじゃね−か! 俺の母ちゃんが病気になって、あの家に預けられた時も、 母ちゃんが死んじまって、あの家に引き取られてからも、 俺んトコには来なかったじゃね−か!! なのに、兄ちゃんが一人になったとたん…。 そ−いうのって、ずり−んじゃね−かよ!?」 それはずっと、心のどこかに引っかかっていたことだった。 ビビは何で、毎日のようにウチに来るんだろう? 稽古事の無い日は、学校が終わると送り迎えの車でウチに来て 夕方までカヤの相手をしている。 カヤの母親の葬式の日、ウソップと一緒に言ったからだろうか? 『カヤは、ウチの家族みんなで育てるんだからな!』 …本当は、イトコでも親戚でもないのに? 「違う!そんなんじゃないわよ!!」 どんどん暗く陰っていく樹々の下で、ビビの顔が強張ったように見えた。 「なにが違うんだよ!? カヤが可哀想だとかカッコイイこと言って、ほんとは兄ちゃんの傍に居たかっただけ じゃねぇか!! そんなん、すげぇずりィ。汚ねぇじゃんか!!」 パンッ!! 乾いた音がして、頬にひりりと痛みが走る。 「ウソップの馬鹿!!あんたなんか大嫌い!!!」 その声を残し、夕暮れの中に空色が溶け込んで消えた。 − Next − ≪ウィンドウを閉じてお戻りください≫ *************************************** (2003.8.23 文責/上緒 愛) |