こどものじかん



− 第3話 ゆめかもしれない −


act 1

私立の中学校に進学してから、ビビは男の子に声を掛けられることが増えた。
この辺りでは“お嬢様学校”として有名な制服が人目を引くからかもしれないし
同じ年頃の女の子達より、少しばかり発育の目立つ胸の所為かもしれない。

街角で呼び止められて手紙を渡されたり、告白されたり。
その度に丁重にお断りしているが、年を追う毎にその数は増えていく。
ビビには面倒事でしかなかった。
堪りかねてサンジに相談してみると、返ってきた答えはこうだ。

「折角モテるんだし、誰かと付き合ってみれば?」

ビビが大好きな海の色の目を細めて。

「決まった彼氏が出来れば、他の野郎共は言い寄ってこなくなるだろうし。
 断わるのもカンタンだし。
 何事も経験だよ?素敵な女性になるためにはさ」

…だから。
中学三年の秋、二つ年上の工業高校の男子生徒からの告白に頷いた。
小麦の穂色の髪が光に透けて、キラキラしていたからかもしれないし
その告白がとても堂々としていて、好感が持てたからかもしれない。

初めてのデ−トで何を着ていけばいいか、とか。
彼の家に遊びに行くけれど、お家の人には何て挨拶すればいいか、とか。
相談する度に、サンジは笑いながらあれこれとアドバイスをくれた。

「やっぱり彼氏が出来ると、女の子ってな綺麗になってくモンだね〜。
 ビビちゃんも、どんどん大人っぽくなってvv」

そんな時の言葉の響きが、眸の色が。いつもと少し違うのを確かめながら。

年上の彼は、生真面目で努力家で。少しぶっきらぼうだけど、ビビには優しかった。
人に頼られる性質らしく、生徒会役員や学校行事の実行委員を引き受けてしまうので
いつも忙しそうにしていたけれど。

彼のことは、好きだった。
好きだと思っていた。
けれど、それは“友達として”でしかなかったことに、一年経ってやっと気づいた。
唇へのキスを求められて、応えることが出来なかったのだ。
突き飛ばすように胸を押し返して、ハッとした。

「なんとなく、判ってはいたけどな」

そう、彼は言った。
公園の花壇に植えられた秋桜が、風にそよいで揺れる。

「他に、好きな奴がいるってことは」

「…ごめんなさい…」

俯くと、僅かに色づいた銀杏の葉が濃茶の編み上げ靴のつま先に落ちていた。

「それでも、いつかは…って思ってたけど無理なんだな。
 一年頑張ってダメなんじゃ、諦めるしかないか」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

それしか、ビビには言えなかった。
彼と一緒に居るのは、本当に楽しかったのだ。
映画を観たり、図書館で勉強したり
クラブの試合の応援や、高校の文化祭や体育祭に行ったり

そういう時間が、全部無意味になってしまうように思えて
悲しかった。

「謝るなよ。代りに、約束な。
 誰かは聞かないけど、そいつにちゃんと告白しろよ。
 フラれるにせよ、上手くいくにせよ。
 …でないと、そこから何処にも動けないぜ?」

顔を上げたら、彼はもうビビに背を向けて歩き出していた。
背を向けたままで、右手を上げていた。

それが、『サヨナラ』の合図だった。

ビビは遠のいていく背中に、深々と頭を下げた。
銀杏の葉の黄色が滲んで、ぎゅっと目を閉じる。

……こんなのは、嫌だ。

ビビは思った。

……こんな風に、自分で自分を恥ずかしく、情けなく思うのは嫌だ。

こんなことは、これっきりにしなければと思った。
誰からも微笑まれ、羨ましがられる。
そんな交際を、相手を、“選んで”いた。

……自分に嘘を吐くのは嫌だ。
   自分で自分を好きになれなくなるのは嫌だ。絶対に嫌だ。

誰かを傷つけても、心配をかけても、非難されても。
…自分が傷ついても。
楽な方へと流されたりは、二度とするまいと思った。


やがて顔を上げ、ビビは公園を後にする。
風に薙いだ秋桜は、また真っ直ぐにその頭をもたげていた。


   * * *


カヤが小学校に上がり午後の授業も受けるようになると、ビビが毎日のように
この家に来ることはなくなった。

サンジがビビから男の子との交際について相談を受けるようになったのも、
ちょうどその頃からだ。

それでも、週に三日は顔を見せる。
ウソップが高校の美術部で遅くなる日には、必ず。
ただ、今日は肝心のカヤが

「アイサちゃんと遊ぶの−!!」

と言って、ランドセルを置くなりチョッパ−と一緒にみかんの丘を登って行った後だった。
“アイサちゃん”とは、去年生まれたルフィとチョッパ−の妹だ。
最近のカヤはよちよち歩きを始めた幼児に夢中で、放任主義の両親よりその成長を
良く把握しているのではあるまいか。

子供は自分より年下の子供と接することで、成長するのかもしれない。
ちょうど、目の前の少女がそうであったように。

「ごめんね−、わざわざ来てくれたのに」

台所のテ−ブルに座ったビビの前に、サンジは暖かい紅茶を淹れたカップを置いた。

「ううん、いいの。私が勝手に来てるだけだし。
 …それに、お兄ちゃんに話したいことがあったから…」

ビビの表情は真剣だ。
おやつにと準備した焼きたてのタルト・タタン(リンゴのタルト)を勧めても、首を横に振る。
彼氏と喧嘩でもしたのだろうかとサンジは思った。

ビビの彼氏のことは、多少知っている。
彼女の口から聞いた話はもちろん、そう大きくは無い街だから
工業高校で二期に渡って生徒会長を務めた生徒の顔ぐらいは。
イマドキは、髪を脱色していても優等生で通るらしい。
背が高く、がっしりとした体格のその生徒は、歳の割りに男臭い印象が
何処かの誰かを思い出させた。

そういえば、付き合い始めて一年にはなるだろう。
これまでは、あの親馬鹿のコブラ義兄でさえ公認するほどの健全な交際だったが
そろそろ、あ〜だのこ〜だのという話が出てきても不思議ではない。
…というか、サンジ自身の高校時代を振り返れば遅すぎるくらいだ。
そんな認識とは裏腹に、無性に不愉快になった。
表面はどう取り繕おうと、所詮若い男の考えることは同じなのだ。

……ホント、コレじゃあ丸っきり父親だよなァ…。

カヤに彼氏が出来た時の予行練習のようなモノだろうか?
それとも、その時相談相手になるのは実の兄のように慕っているイトコなのか
目の前の彼女なのか…。
内心で苦笑しながら、ビビに断わりを入れてタバコに火を点ける。
何にせよ、ニコチン無しで聞ける話ではなさそうだ。

……ま、すんなとは言わねェけどよ…。
   あのガキが女のコの身体を大事に出来ねェようなクソ野郎なら、
   今度こそオロしてフカの餌にしてやるぜ。

だが、ビビの話はサンジの予想を裏切るものだった。

「そっか…」

話を聞いている間に、ほとんど味わうこともなく灰になったタバコを灰皿に
押し付けてサンジは言った。

「俺が余計な事言っちまったから、ビビちゃん、かえってツライ想いをすることに
 なったのかな?」

彼氏と別れたことを告げ終えたビビは、妙に落ち着いていた。
年齢より子供っぽいところもあれば、大人びたところもある不思議な子だと
サンジは次姉の残した姪っ子を見て思う。
そんな風に思うようになったのは、何時ぐらいからだろう?
思い出しかけて、それを止める。
この年頃の女の子というものは、皆そうなのだろう。

……もう、高校生だもんなァ…。

あの小さかった赤ん坊が。
ふと、今のビビが初めて会った時の次姉と同じ歳になろうとしていることに気がついた。
未婚でサンジを産んで育てた母親が死んだ後、突然現われた父親と二人の姉。
十歳の自分には、十六歳の彼女はずっと大人に見えたものだったのに。

「ううん、そんなことない。
 よく判ったの。色んなことが…」

ビビの眸が、真っ直ぐにサンジを見つめる。
そういう風に見つめる相手は選んだ方がイイと、そろそろ言って聞かせなければ。
頭の片隅で、サンジは思った。

…昔、同じ事を二度、言った。

『選んでるわよ?だって、家族ですもの』

一人には明るく笑って答えられて、二の句も継げず。もう一人には大真面目な顔で

『男の人はサンジさんだけにすれば良いのね?』

と切り返されて、苦笑した。
…ずっと昔の話だ。

「私、早く大人になりたかった。素敵な、大人の女性に。
 男の子と付き合うことで、そうなれるのかなって思ってたの」

「ンなに急ぐことねェでしょ?
 ビビちゃんは今のままでも充分に可愛くて綺麗なんだからv」

新しいタバコを咥えて、火を点ける。
その動作に気をとられていた所為か、気づくのが遅れた。

「…でも、お兄ちゃんの目から見たら、まだ子供でしょう…?」

「…………。」

その場の空気が変わるのを、肌で感じる。
変わったのはビビなのか、それとも自分なのか。

「私、お兄ちゃんの傍にいても、おかしくないようになりたかった。
 隣に立っていても、妹だとか、…姪だとか。そんなんじゃなくて…」

ビビの言葉はたどたどしく、そして真摯だった。
演技や駆け引きや演出は一切無かった。
そんな“女性”の言葉を聞いたのは、随分久しぶりだと思った。

「私…。知ってるの。
 私のママがお祖父ちゃんの養女で、本当はお兄ちゃんのお姉さんじゃなかったってこと。
 だから私も、本当はウソップともカヤちゃんともお兄ちゃんとも、血が繋がってないってこと」

そろそろ、ビビも気づいているだろうとは思っていた。
ネフェルタリ家は人の出入りも多いし、こういうことは人の口に上りやすい。
…気づいていても、周りに気を遣わせないように黙っている子だろうと思っていた。
いや、そうあって欲しいと思っていたのは自分だけなのか。

「…でも、私嬉しかったの。だって、私…。
 小さな頃ね、お兄ちゃんのお嫁さんになれないってことが、凄く悔しかったの。
 笑われるかもしれないけれど、でも、ずっと…」

カ−ディガンを羽織ったビビの肩は、小さく震えていた。
テ−ブルの下では、きっと膝ごと制服のスカ−トを握り締めているのだろう。
緊張している時の彼女の癖だ。

可愛いな、と思う。
愛しいな、とも思う。
…けれど、それは。

「ビビちゃん」

サンジは、ビビの名を呼んだ。
そうしないワケにはいかなかった。

……間違えるな。
   この子はこの子であって、他の誰でもない。

それは結果として、ビビの言葉を遮ることになった。
意図したことではなかった。
…少なくとも、サンジにそんなつもりは無かったのだ。
レディ−の話の腰を折るなど、フェミニストにあるまじき愚行だ。

ビビはショックを受けた様子で、大きな眸を零れ落ちんばかりに見開いている。
居たたまれなかった。

そうして口にした言葉は、サンジにとっては長い時間を掛けて築いた真実だった。
だが、それはビビを遠ざける言葉でもあった。

「ティティ姉さんは、俺の自慢の美人の姉さんで、
 ビビちゃんはその姉さんにそっくりな、俺の大事な姪だよ。
 ずっとそうだったし、これからもそうだよ」

彼女には、判らないだろう。
サンジは随分長い間、ビビに会うことが出来なかったのだ。
衰弱する次姉の傍らで泣き叫ぶ赤ん坊が、彼女の命を食い荒らしたように思われて。
…それは間違っていると頭では判っていても、血の繋がらない姪を避けた。

ようやくまともに顔を合わせたのは、ビビが三つだったか四つだったか。
空の色をした髪の女の子。
小さかったビビに笑って会える自分になるまでに、それだけの時間が掛かったのだ。
海の見えない街で、はっきりと自分の未来を思い描けるようになるまでに。

サンジを見つめていた眸が、伏せらせた。

「…私じゃ、ダメなの…?」

ほっとしたのも束の間、ついと上げられた視線に再び捕らえられる。

明るくて、真っ直ぐで、前向きで、逞しくて、強くて、優しくて、綺麗な。


「私じゃ“未来の日本一のコックさんのお嫁さん”に、なれませんか?」


自分が何処に居るのか、判らなくなる
目の前に居るのが誰か、判らなくなる

だから確かめるように、強く呼んだ。

「ビビちゃん」

彼女の眸に映る自分は、酷く困った顔をしていた。
自分のこんな態度が彼女を傷つけるだろうと判っていても、軽く受け流すことは出来なかった。

ハッキリと、思い知る。
ビビは“ビビ”であって、けれどサンジにとってそれだけではない存在だった。

彼女の知らない過去の事情で
サンジ自身の都合で
勝手に“そういう存在”にさせられていた。

ビビを“ビビ”として見ることは、サンジには出来ない。

説明の仕様が無かった。
…言い訳の仕様も。

見開かれていた眸が、ぎゅっと閉じられた。

 ガタン!!

音を立てて、ビビが立ち上がる。
次の瞬間には蒼いポニ−テ−ルが翻っていた。

「…ごめんなさい…!!」

その一言を残して台所を飛び出していく背中に、伸ばしかけた手を握り締める。
玄関の引き戸が乱暴に閉められる音。
燃え尽きて灰になっていくタバコを眺めながら、サンジは苦々しく呟いた。

「…クソ野郎…」

どれだけの時間が経ったのか。
立ち上がり、上着と財布だけを手に取ると、サンジは奥の間に居るゼフに声を掛ける。
幸いと言うべきか、今日は店の定休日だった。

「ちょっと出てくる。
 明日の昼の営業時間までには戻るからよ」

海の見える場所には、居られない。
襖の向こうから、ゼフの声が聞こえたような気がした。


「進歩がねぇな、てめぇはよ」



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(2003.10.19 文責/上緒 愛)