――こんな怖い、得体の知れない世界は嫌。帰る。絶対帰る。
世界が滅びる云々の話が本当でも、どうなろうともう知らない。
「椎香! 椎香、待ってください!」
聞き覚えのある声に、椎香は思わず走るスピードを緩めた。その瞬間を逃さず、彼女の前に回ってきたのは。
「雪路……。」
「やっと止まってくれましたね…。」
「……実体じゃないのに、追いかけたり出来んのね。」
「は、はい。」
走っているときは意識しなかったが息があがっている。足も疲れた。走りつづけても意味がないと知った椎香は、木陰に腰掛けた。
「……椎香。皆様に呼び出され、話を聞いてきました。」
「なら話速いわ。私を帰して。」
雪路は椎香たちをここへ連れてきた。だったら元の世界に戻すことも容易いのだろう。
「…それは出来ません。」
「は? それってどういう――」
即答した雪路に対して椎香は怪訝な顔で文句を言いかけた、が遮られた。
「椎香、ここに来る前に自分以外の時間が止まったことを覚えていますか?」
「……それが?」
「あれは、私と紫杏が二人がかりで行ったものです。あなた達がこちらの世界でウイルス退治をしている間、それぞれの元の世界で“人間が人知れず消えた”と騒ぎになっては大変なので。ウイルス問題が完全に解決するまで時間は動かせないように設定しています。」
「…なによそれ!」
椎香の苛立ちは怒りに変わった。平手の一発でも食らわせようかと手を上げるが、椎香の手は雪路の“映像”をすり抜ける。
「ふざけないでよ。私はこの世界と無関係なのに、あんたにどうして私をここに縛り付ける権利があるの?」
「……ごめんなさい。ですが椎香達でないと駄目で……」
「この間もそれは聞いたわよ。だけどもしこの世界で私やみんながウイルスで死んだら? あんた責任取れるの?」
最初はそんなこと考えていなかった。ラッシャと戦うまでは。
「どうせ知ってるんでしょ。あの時、もし羅歌が雲を出すのが遅れたら? 私が逃げ遅れて、あの大きい鋭い爪で引っかかれたら? ウイルス退治は、常にそんな危険が伴うわけ?」
「死なせません、絶対です。」
「…ずいぶん無責任に言い切ってくれるわね。」
「絶対に死なないよう、椎香のことは私の姉様が守ってくれます。」
椎香の不機嫌な怒りの表情に、さらに怪訝さが加わった。
「姉様? どこにいるってのよ。」
「…今はまだ姉様の姿は椎香にも私にも見えません。ですが、いつも椎香のすぐそばにいるのです。」
「……何それ、意味分かんない。」
「…信じてください、椎香。」
ためいきをつきそっぽを向く椎香を、雪路はまっすぐに見ている。
こんな戯言、無視しちゃえばいい。雪路を脅して元の世界に帰してもらえばいい。
ウイルス問題が解決するまで帰れないなら、どこか安全な場所に隠れてればいい。
椎香の頭にずるい考えが浮かぶたび、無意識に“それは駄目”と却下する。まるで彼女の内に、もう一人の自分がいるみたいに。
「椎香、聞いてください。私達はあなた方を呼べる状態になるのをずっと待っていました。」
椎香はは雪路の言葉を相づちを打たずに聞く。だが、顔だけは雪路のほうへ向けた。
「早く手を打たないとウイルスはどんどん増える、あなた方を呼び出すまでの手順に少しの失敗も許されない。確かに、この方法は一番危険です。ですがこれが唯一世界を救える方法なんです。」
「……世界世界言われても、少なくとも私のいた日本は平和だったんだから、信じろって方が難しいのよ。」
「分かっています。でも、椎香。あなたでないといけない。あなた方だけが、ウイルスに立ち向かえるのです。」
「なんで私達なの?“世界”には他にもたくさん人間がいるじゃない。」
――そう。わざわざ私なんかを呼ばなくても、強い人間も素直で扱いやすい人間もたくさんいる。私じゃなくても。
「それは椎香こそが私の姉様に守られた、いわば“碧の宮の人間と一心同体の状態にある”人間だからです。」
「一心……同体?」
「ええ、ちなみに他の皆様も同じ、碧の宮の人間と一心同体なのです。だからこそ抵抗無くこの世界に来れた。碧の宮とまったく無関係の人間なら、ウイルス退治以前に無事に世界を越えられるかどうかも危ないんです。」
「……根拠は?」
「私と姉様は双子の姉妹で、同じ顔をしています。私と椎香も同じ顔をしているでしょう? 根拠としては弱いですが……。」
「………。」
確かに弱いし、すぐには信じられない。突拍子もない説明なのには変わりはない。
だけど、椎香はどうしても完全に嘘だと決めつけることができない。
それは雪路の表情が真剣だからか、それとも…本当に雪路の姉様と椎香がが一心同体の関係にあるからだろうか。
「………分かったわよ。」
「椎香?」
「…みんなの所に戻るわ。迷惑かけて悪かった。」
どうせもう、どんなに目や耳を塞いで否定したって、自分もこの「ウイルス退治物語」の登場人物になってしまっているんだろう。
半ば諦め、せいぜい早く終わることを祈りながら立ち上がる。
「その代わり、本当に死んだら末代まで呪うからね。」
「椎香……ありがとうございます。」
時間がきたらしく、雪路の姿がだんだん薄らいでいく。
「椎香ーっ!」
「しーかー、だいじょーぶー!?」
ふと後ろから聞こえてきた声に振り向くと、緋凪や瑠々たちが椎香たちのいる方へ向かって来ている。
「皆様、椎香を心配して来たのですね。すっかり仲良くなられて。」
「……。」
肯定も否定もする気にならず、椎香は雪路に背を向ける。
「…椎香、またお話しましょうね。」
最後に聞こえたその言葉にもう一度雪路を見ると、少し寂しそうに微笑みながら消えていった。
“姉様”とやらの面影か何かを、自分の中に見ていたのだろうか。そう思いつつ、仲間のほうへ歩き出した。