――我が子を純粋に愛せていたのは、いつまで?
10年前、世継ぎの誕生を民衆は戸惑いながらも歓迎した。
戸惑いながら、というのは現王である神冥もまだ即位したばかりの子供なのに――という率直な感情。
それでも神詠は父、神冥と全く同じ顔の利発そうな赤ん坊で、民衆はすぐに最初の戸惑いを忘れた。
神冥の周りにいる側近もそしてもちろん神冥自身も神詠を大事に育て、王に相応しいきちんとした躾を施した。
「神詠様は神冥様や代々の王のご幼少の頃と比べて、些か様子がおかしくはないか?」
古参の大臣や世話係達の間でそんな噂が交わされるようになったのは、神詠が生まれて2年ほど経った頃。
神詠は少しわんぱくだがいつも笑顔で素直な“子供らしい子供”に育っていたが、それが年寄り達には気に食わない。
王宮の片隅で彼らが眉をひそめあっていると、ぱたぱたと軽快な足音が聞こえてきた。
「皆実、東江、北居、西子! こんなとこで何してるんだ?」
「ああ、神詠様……いえ、大した事ではございません。」
「…ふうん?」
笑顔で話しかけた神詠だが大人四人の厳しい表情に何か感じたのか、そのまま元来た方へ走っていった。
四人は顔を見合わせ、溜め息をつく。
「聞きまして? あの乱暴な言葉使い。それに王宮内を走り回るとは、何と品のない……。」
「これまでの王と違い落ち着きもありませんし、気に入らない事があると駄々をこねて……下々の子供のようですわ。」
王の子は、王の優秀な遺伝子を丸々コピーして作られる“優秀な子”。
歴代の王と違っている神詠は、王に長年仕えている彼らにとって明らかな“異端児”だった。
封建的なこの空間で他の若い使用人や役人が上司である四人の古参に逆らえる筈はなく、神詠を庇える人間は神冥以外いなくなった。
「最近、使用人達の中に我が息子である神詠を悪く言う者がいるようなのだが。」
神詠に対する使用人達の冷淡な態度や悪意が感じられる噂話に神冥が気付かないはずはなく、古参の四人を集めて状況を尋ねた。
「お言葉ですが、神冥様。神詠様は将来貴方様の後を継いで王となられるお方。ですが神詠様はあまりにも王としてのあるべき姿から掛け離れていらっしゃいます。」
自分の信頼している相手が言い放った言葉に、神冥は耳を疑った。
――まさか。この者達か、神詠を悪く思っているのは。
「…まだ二歳ではないか。多少元気なだけであろう。」
「歴代の王に誰ひとりとしてあのような者はおりませんでした。今の内に手を打たねば、近い将来この国は滅びます。」
「無礼者! 現王である私の息子に対して何と言う言い草か!」
「王はこの国の二千年余りの歴史をご自分で終わらせるおつもりか。」
国が終わる。大臣が二度言った言葉はあまりにも衝撃的だ。
王とは言え幼い神冥は自分の五倍も歳をとっている大臣に対し、今度はすぐさま反論出来なかった。
「神冥様、神詠様が今の粗暴な振る舞いを直して王のお子様らしくなられたら、我々も神詠様を認めますとも。」
穏やかに諭すふりをして今の神詠を否定する。
「神冥様、今ならまだ最初から作り直さなくても間に合います。神詠様の躾を厳しくなさってください。それが貴方がたのためであり、この国のためです。」
「神詠の……躾。」
自分が神詠と同じ歳の頃どのような子供だったかなど、覚えていない。
ただ、数年前急死した自分の父は自分に対して厳格で、手の届かない存在だった。
――神詠が王らしく育つかどうかは、私次第という事か? 大きくて強くて厳しくて遠かった、あの人のように、私も?
「分かった。私は必ず神詠を将来の王に相応しくしてみせよう。異論は無いな。」
「とーしゃん! お話終わったのか?」
無邪気に駆け寄る神詠の言葉使いも仕種も、神冥は今まで放任していた。
「神詠、私の事は今後父上と呼べ。」
――幼いからといえ、それではいけないのだ、きっと。
誰にも文句は言わせない、二度とあのような暴言は許さない。
「お前は何度言えば分かるのだ! 一日十冊国政に関する本を読めと言っただろう!」
「ご、ごめん父さん。昨日はどうしても眠くて……」
「言い訳をするな! それに言葉使いを直せ!」
厳しい躾も物言いも態度も、元は全て神詠のためを思ってのこと。
だが神詠はなかなか神冥の思う通りにならず、年が経つほどに苛立ちは募る。
「またですか、神詠様。お父上のお小さい頃は怠ける事などございませんでしたよ。」
「西子………。」
古参世話係の西子が明らかに不機嫌な様子で姿を見せた。
「神冥様も…。王ともあろうお方がご子息の躾くらい満足に出来ぬとは、嘆かわしい事でございますよ。」
古参の四人をはじめとする役人や使用人は神詠だけでなく、ついに神冥の“王らしさ”まで疑い始めた。
――一体何が。何が間違っておるのだ。
この子が変なのか、私の育て方がおかしいのか――既に“私の代から”おかしかったのか?
自らまでを否定しそうになって、この状況が嫌で、とにかく神詠さえ“まとも”になればこの苦しさから逃れられると――
『その結果が暴言か。神詠の否定か。』
冷たい声に顔を上げると、目の前に見えたのは神詠の姿――ではなく。
「お前……私か。神詠が小さい頃の……。」
弱々しく尋ねると、“彼”は首を短く縦に振った。
『忘れたのか。神詠が生まれた時私が……お前がどんなに嬉しかったか。』
「忘れてなどいない。いないが……神詠は普通の王とは違う、だから幼い内から厳しく躾をしなければと――」
『お前のやり方は躾ではない、神詠の全否定だぞ。』
幼い自分の言葉が、神冥に真っ直ぐ突き刺さる。
『お前がしている事は、あの大臣や世話係共と同じだ。神詠の為にあの者達を叱っただろう、もう忘れてしまっのか?』
「違う、私はあの者達とは――」
咄嗟に言い返そうとした刹那、脳裏に浮かんだのは――――傷ついた神詠の表情。
――ああ、そうか。同じだ。
守りたくて厳しくあろうとしていたつもりが道を踏み外し、あんなにも傷付けてきたのか――。
「ちょっと、神冥!」
苛立った椎香の声に我に帰ると、幼い神冥はもう消えていた。
「黙ってないで何とか言ったら!?」
「椎香、ストップ!」
再びつかみ掛かろうとした椎香を、彪砂が制止する。
「神冥、これだけは約束して欲しいの。神詠を頭ごなしに否定しないで。」
彪砂の言葉に神冥はゆっくりと、だが確かに頷いた。
「……戻るぞ。」
そしてバツが悪そうな顔でぽつりと呟き、元いた場所へと足を進める。
「何よそれ。彪砂、あれでいいの?」
「んー、完全な和解には時間が掛かりそうだけど。でも、あれでいいと思うわよ。」
椎香はまだ納得しきっていないようだったが。
「ほら、アタシ達も行くわよ。早く町目指しましょ。」
傾き始めた日が、長い一日の終わりを知らせていた。