「今回の聖火、国内外ともに凄い見物人が出たそうですね。」
「泰にぃにや越ねぇねが教えてくれたのですけど、東南アジアの国々でもみんな聖火をすごく歓迎してくれて、笑顔で手を振って見送ってくれたそうなのです!」
菊とは各国の選手村を周り、困りごとや心配事がないかを確認して回っている。
「日本さーん、ちゃーん!!」
「めっちゃ久々やなー、元気しとったー?」
「エリザさんにベルちゃん、お久しぶりです!」
ヨーロッパの女友達二人に、は笑顔で駆け寄った。
「日本さん、オリンピック開催おめでとう。上司の目を盗んでベルギーちゃんと一緒に来ちゃった。」
「晴れてよかったなぁ。それにものっそいことになっとるやん。何あのアホみたいに速い電車! それにびっくりするぐらい綺麗な町並みに選手村にスタジアム!」
「お褒めに預かり光栄です。」
「ま、これくらいやってもらわんと譲ったった甲斐ないでな。」
「何偉そうに言ってるの、ベルギーちゃん1回目の投票で最下位だったでしょ。」
「ちょ、そんなん思い出ささんとってぇなハンガリーちゃん!」
「あははは、エリザさんはっきり言っちゃいましたね。」
あまり長くは自国の宿泊所を抜けられないらしく、二人はすぐに戻っていった。菊とに笑顔を残して。
「二人とも、菊にぃにを励ますために来てくださったんでしょうか?」
「そうかもしれませんね……皆さんの期待を裏切らないよう、気合を入れなければ!」
「まってください、菊にぃに。」
気合を入れなおし次の選手村に向かおうとする菊を、は呼び止めた。
「頑張るのももちろんですけど、緊張しっぱなしじゃなくてもう少し楽しんで開催したらいいと思います。選手の皆さんにも菊にぃにの緊張が移ったら大変ですよ?」
「……緊張してました? 私。」
「ええ。」
「………なんでもお見通しですね、は。実は夕べも“失敗したらどうしよう”って思ってしまって……。」
「もう、菊にぃにったら。大丈夫ですよ。私もいますし、国民の皆さんも、海外の方々も、みんな一緒にオリンピックするんですから。」
「そうですね。」
菊とが二人でほのぼのとしていたちょうどそのころ―――
「へぇ〜、僕の前はアメリカ君が入場行進するんだ、楽しみだね〜。」
「なんだいロシア、そんなに俺の後ろが気に入ったのかい? HAHAHAHAHA!」
表面上は二人とも笑顔だが、いったい腹の中では何を考えているやら………。
「エ…エストニア、君ロシアさんの後ろに行く?」
「いえいえいえそんな滅相もない! 身長順でラトビアがいいんじゃないですか?」
「ぼぼぼぼぼぼ僕そそそそそそんなロシアさんの後ろなんて怖すぎて歩けないですうううう!!」
「あれ〜、何か聞こえたような気が……。」
振り向いてまっすぐライヴィスを見下ろしたイヴァンの目はすでに笑っていない。
「ラトビアアアアアアアアアアアアア!!」
「だったら私が兄さんの後ろでぴったりくっついて行進するわ。兄さん、それが一番いいのよねえ兄さん。」
「べ、ベラルーシちゃん、くっついたら歩きにくいわよ。」
たまたま散歩中に出会ったアルフレッドとソビエト組が、大会開催前から地味に大変な思いをしていたとか。
先頭、ギリシャ選手団の登場に、競技場の観客席からわっと大きな拍手が起こる。
「、発見……。」
「あれ、ヘラさん? お国の方達と一緒にいなくていいんですか?」
菊の上司達や、その中でも菊に最も近く最も偉い人やその一族が座っている――つまりVIP席のすぐ近くにいるは、意外な人物の登場に驚いた。
「ん、大丈夫……俺達国は入場行進してもしなくてもいいし、俺の家の上司、けっこうバラバラで座ってる…。ここには日本の口利きで入れた。」
「そうなのですか。なら一緒に見ますか?」
「うん。」
ヘラクレスがの横に腰掛けるやいなや。
「おう、嬢ちゃんじゃねえか……って何でギリシャてめえここにいるんだよ!」
オリンピックをよく見るためなのか、いつもの仮面をとったサディクまでがタイミング悪くやってきた。
「うるさい、の隣は俺の席。トルコ死ね。」
「ああ!? 何だとこのくそガキ……。」
「そこまでです! お二人とも、神聖な開会式の場で喧嘩なんてしないでください! それ以上言い争うのでしたらお二人の上司に報告しますよ!」
が珍しく怒り、さっきまでの勢いが嘘のように二人はシュンとなった。
「ほら、せっかくですから開会式をもっと楽しんでください。」
どの国の行進も手足がきちっとそろい、日本の上司にビシッと敬礼をする国、日の丸の小旗を振りながら歩く国など、見ていてとても気持ちがいい。
何十人、何百人という人数で行進する国もあれば、初参加でわずか二人だけの堂々たる行進を見せ付ける国もある。
「行進の仕方とか衣装にも、国ごとの個性ってのが出るもんなんだなぁ。」
「民族衣装で行進してる国もある……ちょっと羨ましい。」
「あ、次は湾ちゃんの家ですよ……わぁ、ちゃんと“TAIWAN”表記なんですね。」
「うわぁ、アメリカとロシア達はやっぱり人数多いから迫力あんなぁ、ったくよう。」
「あ……そろそろ最後じゃない?」
ヘラクレスがつぶやいた次の瞬間、選手入場口からは赤と白の団体が見え、観客席の大部分を占める日本人達からひときわ大きな拍手や歓声が沸き起こった。
「日本だ!」
「日本さーん、格好いいですぜー!!」
ヘラクレスとサディクも周りの客に混ざって立ち上がり、グラウンドで入場行進に参加している菊に向かって声援を送る。
真っ赤なジャケットと白のボトム――日の丸カラーの服に身を包み、手足をそろえ、美しく行進する選手団、そして旗手の後ろを同じ衣装を着た菊が堂々と歩いている。
が座っているエリアの前を通り過ぎたとき、彼女には菊の表情がはっきりと見えた。
ここまで来る道のりを思い出し、また、ここから始まる大会へ思いを馳せ、気合を入れているのだろう――
緊張、うれしさ、感慨深さ、あらゆるものへの感謝、そしてわずかながら確かな誇り……そういった感情が表情に出ている。
「……そうです、菊にぃに。そうでした……ね。」
が何か呟いたのを歓声の中わずかに聞き取った両側の二人は、彼女の表情を見て驚愕した。
「じ……嬢ちゃん!?」
「……なんで泣く? 悲しい? 痛い?」
「あ、違うのです違うのです。」
慌てては手の甲で涙を拭った。
「なんと言いますか…ここへ来るまでの色々なこととか、その……昔のこととかを色々思い出してしまって。」
あんなに滅茶苦茶になるほど負けてしまった日があったのに。国民に石を投げられ、悔しくて家で一人泣いていた日もあったのに。
「あんなに大変だった日々を乗り越えて、こんなに大きな大会を開けることになって。あの人が、再び自信を取り戻してくれて。」
――『今は格好良くないんですか?』
数年前の会話を、ふと思い出す。
――格好いいです。今日の菊にぃに、今までよりももっと格好いいです。世界で一番格好いいです。
あの日あいまいに済ませた返事を、改めて心の中で訂正した。
「こんないい日を迎えることができて、本当に嬉しいんです。だから、なんだか感極まって泣けてしまって。」
「嬢ちゃん……。」
「ってば、感極まるのは早い……。まだ、始まったばっかり。」
「あはは、そうですね。」
聖火の最終ランナーが最後の長い階段を駆け上り始めたころ、ようやくは完全に泣き止んだ。
いよいよやってきた、開会式当日。
時計の針が午後二時を回るとともに高らかなファンファーレが鳴り響き、そしてオリンピック・マーチとともに選手入場が始まった。