月は夜ごと海に還り

第一章(2)へススム | 009

  第一章  


(1)




 突然の嵐はそのまま数日間荒れ狂い、皆を閉じ込め疲弊させた後、4日目の朝来たときと同じく突然姿を消した。

 さんざん咆哮した昨夜とは打って変わって、眼下の海原はその広い体躯を穏やかに、ゆるやかに、表面を金色と藍色に絶えず変化させながら、一定のリズムで 波打たせて居る。
ぽつりぽつりと点在する小さな島々は、上空から見るとまるで朽ちた寺院の壁にむす苔の固まりの様で、犯しがたく、神秘的で、畏怖すら感じられた。
 島々の中心辺りから時折ぱらり、ぱらり、と黒い粒が飛び出して行き、大きく旋回したかと思うと、今度は一直線に水平線を目指し、たちまち空に飲み込まれ てしまう。そうしてまた入れ替わる様にぱらり、ぱらりと帰って来る。恐らく、遥か太古の昔から途切れる事なく続けられて来た、そしてこの世が滅亡するまで 際限なく繰り返されるであろう、鳥達の儀式。気の遠くなる様な、繰り返し、繰り返し。

 嵐が去った後の空は高く、潮風は清烈な湧水の様に冷たく澄んでいた。

 海の真上、波の飛沫に裾を濡らし始めた夕陽。

 それと同じ場所に、ドルフィン号はいた。

エンジン音の震えや低い波の音に合わせて、長く巨大な影が波にうねる。のんびりした速度が生む海風はすでに夜の甘い匂いを含ませて、ひんやりと頬を撫でて いった。
 夕闇が辺りを包み込んで行く。
日没は近い。まもなく夜が空と海の間に侵入し、同じ一色の闇色に染め上げてしまうだろう。

 ────── そろそろ中に戻らなければ

 肘をついてもたれていたデッキの手摺から,009はゆっくりと身を起こした。

その時、


 ゴウッッ ────── ッツ



 一陣の風が頭上で大きく渦巻いた。
髪を吹きまくられて、思わず手の甲で目を覆う。マフラーが大きくうねってばたばたとはためいた。突風の帯に絡め捕られ、体が持って行かれそうになる。
 咄嗟の事によろめいた009は、片方の手で手摺につかまり、華奢な足で必死にふんばった。
指の間から必死に目をこらす。瞬間、息を飲んだ。

夕陽が溶けて、流れていた。

溶け出した夕日は突風と混じり合って、一気に自分に押し寄せて来る。
赤色と金色の洪水が目の前に一杯にあふれた。

溺れちゃう・・・!

009はその風と水の勢いに押されて、思わず目を閉じる。支え切れずに自分の体が後ろに倒れ込んでいくのが分かった。
そうして洪水に攫われ、押し流されようとした 瞬間息を飲んだ。

それは突然大きな鳥へと姿を変え、
赤色と金色の、目も眩む様な光が瞼の裏をよぎったかと思うと、
一瞬でその翼に絡め捕られて、
体が大きく宙を舞った。

「わああっっ!!」


落ちる・・・!!



 ビュウビュウと強い風が鼓膜を突き抜けて行き、視界が大きく波打つ。
しかし、いつまでも水が触れる気配は無い。
 翼に捕らえられたまま、猛スピードで自分は飛んでいるのだ。
 009は目をぎゅっと閉じながら、風の音に負けじと、自分を攫った大きな鳥に向かって、声を張上げた。

「───── 002!!近づく時はスピードを落してよっっ!!」
「───── いやあワリイワリイ。ついつい空が気持ち良くってよぉ──」

 張上げた声に反して、のんびりした声が頭のすぐ上から返って来る。
一瞬の間に自分は、002と言う名の鳥に背中と膝裏へ腕を差し込まれ、しっかり抱き抱えられていたのだ。
 009は信じられない、と言った体で宙に浮いた脚をバタバタさせた。

「戦闘速度のまま突っ込んで来るなんてっっ! 海に落っこちそうになったじゃないか!」
「だーからこうやって抱き上げてやってんじゃねえかよ」

彼は009の体を軽くゆすりながら、名残惜しそうに、ゆっくりとスピードを落した。
顔を真っ赤に怒り心頭の009とは裏腹に、002は悠々と言い放つ。

「ほーらしっかり掴まってろって・・・ホントに落ちるぞ」
「偵察はどうしたのさ!終わったんなら早く報告しなきゃ・・・!」

相手の首に下げられた双眼鏡が、揺られて自分の胸にゴツゴツ当たるのに少し顔をしかめて、009はまた叫ぶ。
002は凧の様に,優雅にくるりと舞った。

「4日も狭苦しい船ん中にカンヅメだったんだぜえ?のんびり散歩くらいしたくなるってもんだ。そうだろ? お前も付き合え・・・!」
「駄目だよ!もう日が暮れちゃうし・・・」
「じゃあ夕暮れの空中散歩だ!ふたりっきりでよ!ぱーっと気分転換しようぜ!!」
   一方的に言い放つと、002は無理矢理攫った仲間をさらにしっかり抱え直し、ぐーっと急上昇した。

「わわっ ジェットぉ!」
思わずナンバーではなく名前で呼んでしまう。
ぐん、とドルフィン号の白い機体が小さくなる。と同時に一気に同じ位置まで降下する。上へ、下へ、綺麗な放物線を繰り返し描きながら海の上、空の真下、
ドルフィン号を中心点にして、ふたりは何度も何度も旋回する。
 両腕で002の首にしがみついた。機内に閉じ込められて体に溜っていた澱みを、海風がどんどん吹き飛ばして行く。
 その心地好さ、ジェットコースターに乗った様な思いがけないスリルと快感に、さっきまでの不機嫌はどこへやら、009はいつの間にかキャアキャアと声を 上げ、脚をバタつかせて笑っていた。
  相手のその様子に気を良くした002は、さらに大きく円を描いて大サービスをする。   
 あいつら、何やってんだ?ドルフィン号のコックピットの窓際に、他の仲間達のあきれた顔が並んでいるのは目に入らない。
 少年達の笑いさざめく声は、溢れる夕日に次々吸い込まれては消えていく。
嵐に塩気が洗い流された海風。爪の先まで太陽の色が染み渡る。
 009の長い睫毛が瞼に落す淡い影のはかなさに、002は見惚れた。吹き捲られる彼の髪が自分の顔をくすぐると、堪らず彼の露になったこめかみに唇を掠 めさせる。風のせいだと、偶然を装って。


 『・・・02・・009!いつまで遊んでいる?・・002、ただちに偵察内容の報告を・・!』

突然ふたりの脳内に、無愛想な声が響いた。
一気に笑顔が固まり、マズイ、と顔を見合わせる。
・・・相変わらず目敏いオッサンだぜ・・・002は心の中で毒付いた。
「くそ!」
 嫌々スピードを落し、大きなU 字型に空を迂回すると、眼下の白い機体に向けて降下を始める。
さっき009を攫った時にはなかったはずのデッキに立つ人影が、徐々に大きくなっていく。

我儘な鳥はそっと舌打ちした。



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