第十章
(3)
「そうだ。苦しめばいい」
穏やかな009の澄んだ声。
「苦しんで苦しんで、僕と同じ痛みを味わえばいい」
009は自分の手首の赤い痕をそっと擦った。
「君に分からせてやる。それが今君が生きる生きる証…そして僕の…」
009の声は徐々に低くなっていく。
「君はなぜ僕を殺さなかった・・・一度ならず二度までも・・・!」
リアが低く息を飲んだ。
「・・・僕は知ってる、あの夜、月の下で僕らは互いに通じ合ったんだ。僕は何も身に付けず、馬鹿みたいに無防備に体をさらして、なのにここに来て僕の目の
前で死のうとするなんて…」
「・・・僕達が今ここに一緒に居るのは、何の為・・・」
「・・・ジョー・・・」
自分の名を呼ぶリア。苦しみと共に上昇する体温。
「俺がお前の中に残したという何かを知りたいと言うのなら」
次に耳に入った思いも掛けない言葉に、009は硬直した。
「・・・キスしてくれ」
「・・・え・・・」
彼はなぜこんな事を・・・試されているのだろうか?
かつて無理矢理奪われた唇ではあるけれど・・・
真赤になった009の顔をリアは恐ろしい程真剣な眼差しで見つめ、少しも目を逸そうとはしなかった。静まり返った部屋に、激しい鼓動が響いて木霊するの
ではないかと思った。
やはり彼が分からない。彼の想いも行動も、言葉さえも何も分からない。
ただひとつはっきりしているのは、彼が本気だという事だけだった。
009は震える手をリアの肩に掛けた。
そのままゆっくりと顔を近付ける。息を止め、ぎゅっと目を閉じ、頬の熱さに自分で目眩さえ覚えながら…
唇まであと数センチという所で、 突然肩をぐいと押し退けられた。
「もういい・・・よく分かった・・・!」
訳が分からず009は赤い顔のまま呆然とした。
「お前はキスさえも相手の言いなりなのだな・・・まして恋人でもない奴に」
心臓に鋭い矢がぐさりと刺さり、 弾かれた様に立ち上がった。
「そんな・・・僕は・・・僕は・・・」
009は後ずさった。
009の手が椅子傍のサイドテーブルにぶつかり、引っくり返った。乗っていた医療器具がトレーごと散らばり落ちて派手な音を立てた。
リアは傷もおかまいなしに素早く身を乗り出して、相手の腕を掴む。引っ張られて009の体ががくんと撓る。リアの肩に繋がれたコードが
千切れんばかりに突っ張り、プラグがシーツの上にバラバラと落ちていった。
嗚咽を飲み込むように息を弾ませ、背けた009の顔は苦し気に赤かった。
「B.Gに居てもどこに居ても・・・お前と共には居られない。お前を殺す事もお前の手で逝く事も叶わず、更にB.Gという忌まわしい生死の束縛
から逃れられない境遇に俺は成す術が無かった・・・。お前は・・・俺と共に死んでくれるか?それとも生きて仲間の元に、004の元に帰るか?俺は賭けた。
共に死んで欲しい、だが生きていて欲しい。そんな相反する想いに俺は・・・俺は・・・」
009の目から、耐えに耐えてきた涙が溢れ出る。リアを見ようとはしない。
リアは追縋る様に、言葉を発しようとした。
・・・閉ざされたドアの向こうから、慌ただしい足音が近付いていた。
ドアが勢い良く開かれ、004が駆け込んで来る。
リアと009はまだそのまま固まっていた。
椅子が倒れ、医療器具が派手に散らばった部屋の惨状、続いてリアが彼の腕を掴んでいるのを目にした004の眉がぴくりと上がった。
「009・・・どうした?」
明らかに異常な興奮状態にいる009に大股で近付き、肩を引き寄せてリアから引き離す。
途端に力の抜けたらしい体は、弱々しく004の腕の中に倒れ込んだ。
「落ち着け・・・もう大丈夫だ・・・」
004は優しく009の体を抱き、息の荒い背中をあやすようにゆっくりと撫でる。
肩にもたれ掛かる009の頭越に、004とリアの目がぶつかった。
「行こう。少し休め」
そう言って004はリアの目から009を隠す様にして抱き抱え、ドアへと誘う。リアの目の前を、ふたりは寄り添って出て行こうとする。
ドアの手前で、急に009はベッドの方を振り返った。
「リア・・・!僕は・・・」
004が肩を引き寄せ、ドアを潜らせようとする。
「僕は君に生きていて欲しいだけなんだ!!」
涙の交じった掠れ声で、009は身体中で叫んだ。
半分引き摺られるようになりながらも、悲しみと苦悩に満ちた目は最後の言葉を伝えようとリアを見つめ、捉えようとする。
「僕は・・・君を・・・!!!」
「009」
静かな声で004が諭した。
廊下で待機していた005が、004を助けて009のもがく体を受け止めた。
ベッドの上のリアをひたと見据えたまま、009の顔は遠くなり・・・閉るドアの向こうに掻き消えて行った。
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