第十四章
(1)
真夜中の森を駆け抜ける。
濃い草いきれの道無き道を、息を切らして目指す、一時の魔法の場所。
加速装置は使わない。突然に出会ってしまったら、きっと心が張り裂けてしまうから。
月が隠れてしまわない内に。月の光が周囲の全ての目を眩ませてくれるその間、
すべての始まりの時を、今、確かめる。
滝の水音と細かい霧が夜の空気を冷たく濡らしていた。闇は深く、周囲の木々を黒々と染めて扇形の滝壷を囲んでいる。
息を喘がせた009は、木々の間からあの日と同じ顔をした滝壷を見つめていた。
湿った風が滝からふわふわと吹き降りて、吐き出される荒い息を攫っては、流れる水と濡れた岩場に溶けて落ちて行った。
雲ひとつない夜空に金色の月は掛り、ただ一度きりの今夜を包んで照らしていた。
濡れた岩の上に佇んで滝壷の上の崖を見上げた。目を閉じ、瞼に月明かりと湿った空気を感じながら、しばらくそのままでいた。
何秒か、何分か、経過した。009はそっと目を開けた。相変わらず滝は流れ落ちていた。
一瞬、ほんの一瞬、月が翳った。009は目を見開いた。滝壺の上で揺れる影。まるで大きな黒い鳥、翼の様なマントが夜風に翻る。
黒い影が大きく揺れた。動揺した様な動き。009は足を一歩、踏み出した。次の瞬間、鳥が大きく羽ばたいた。風に舞う様に、ゆっくりと降下
し、滝壺の
ほとり、009から少し離れた所で音も無く着地した。
「・・・・来たのか」
それが黒い鳥の発した言葉だった。
「・・・・・来たよ」
相手は愕然とした様に何度も頭を振る。やがて少し躊躇った様子で一つ岩を飛び越し、009に近づいた。
「まだ君に言っていない事がある。そう思って来た」
水音に掻き消されまいと、009は声を張り上げる。
「・・・・言っていない事・・・・?」
009唾を飲み込んで大きく呼吸した。その間に相手は更に一歩、ふわりと近づいた。
「・・・・僕は君と生きる事にも死ぬ事にも、躊躇いは無いって。・・・だけど、リア、ただ君一人が勝手に死ぬのは絶対に許さない」
声は驚くほど澄んで響いた。
「ずっと言いたかった。それで今夜、走って走って・・・・此処に来たら、やっぱり君が居た」
もう一度息を吸って、009は叫んだ、
「・・・・君が・・・・居たんだよ・・・・!」
リアは黙っていた。何か言って欲しかった。沈黙は滝の音よりももっと009の胸に響いた。
「009、ジョー」
呼び掛けられた懐かしい声に体の奥がじんと震えたのは、それが今までに聞いた事の無い様な深く穏やかな声だったから。そして自分を見つめる
黒い両の瞳が、
この上なく静かに輝いていたから。もう一歩足を踏み出して、リアの青い影が009の体に掛った。
「そうだ、きっとお前が来るだろうと、思っていた。だが本当にお前の姿が見えた時は・・・・」
それは月の光のせいだったかもしれない。それともそれらを反射する、透明な水の流れのせいだったか・・・・・。いずれにしても、それらはこ
の冷えた胸を
満たし、暖めてくれた事に違いは無かった。
水面を反射した光が目を打って、009は、一度瞬きをした。次の瞬間にはもう瞳のすぐ目の前に、リアは居た。まるで魔法の様だった。
触れ合いそうな手と手、ぶつかりそうな瞳と瞳。あの日見つめ合う事も言葉を交わす事も無かった二人が、同じ場所で同じ月の光を浴びている。た
だ距離だけが
違っていた。これはあの日の続きなのだ。
「・・・・さあ、これであの日と同じに戻った。これでお前は俺を殺す事が出来る」
009はぎくりとした。
「今夜俺達が此処で再び顔を合わせた説明が、これでつくだろう・・・・・。俺一人が勝手に死ぬのは許さないと言うのなら、あの日俺に向けた銃
をもう一度
向けろ。今此処で、お前の手でけりをつけてくれ。すべての始まりを打ち消してしまえ。そうすればお前も俺も、苦しむ事など何もなくなるのだか
ら。そう、
お前は解放され、仲間の元に戻り・・・・俺はようやく、本当に生きて、死ねる」
リアの手が静かに伸ばされた。頬まで来て、触れるかと思ったそれは直前でぴたりと止まり、009の体の線をなぞる様に指が空中を動いて、腰
のレイガン
まで来て止まった。手は茫然とする009の体からゆっくりとレイガンを引き抜き、だらりと下がった009の手を取って、両手で握らせた。銃口
は丁度
リアの胸の所にあった。
009は動けなかった。慣れ親しんだ筈のレイガンが、手の中で丸で得体の知れない未知の生物の様に感じられた。リアは一歩踏み出した。銃口
が彼の胸に当たった。
「俺が苦しめばいいと、嘗てお前は言ったな。・・・・苦しんで苦しんで、自分と同じ痛みを味わえばいいと・・・・。この期に及んで俺も充分に
苦しんだと
思ってはくれないのか、009・・・・俺を殺せ、殺してくれ。その為の、今夜だ」
銃口がリアの胸に強く食い込む。殺した息が喘ぎの様になって体が揺れる。
「リア・・・・君は分かっている筈だ・・・・僕達がお互いの中に残したのは苦しみだけじゃない」
リアの肩に顔を埋める様にして、掠れた声で009が囁いた。
「苦しみだけじゃない。・・・・じゃあ他に何があるのか、僕自身はずっと考えていた。だけどね、分からないんだよ。なぜかってね、
結局君は教えてくれなかったからさ。君は分かっていたからなんだろう?いつも何も言わないままで、僕の前から姿を消してしまうのは・・・・。
だから僕は、
いつも君を追い掛けて、手を離さない様にしなければならなかったんだよ。・・・・前に君は言ったんだ、君が僕の中に残した何かを、僕が知りた
いって
言うのなら・・・・・」
009は顔を上げた。互いの瞳がまともにぶつかり、息が掛った。
「・・・・言うのなら・・・・」
見開いた009の瞳から、溢れた涙が頬を滑って行った。リアの目が苦しげに翳った。009が途切れさせた言葉の続きは、他ならぬ自分自身の
言葉であり、
そしてその後どうなったかを、リアは充分に思い知っていた。
滝壺の上から吹き下りた風が黒いマントを靡かせ、佇む二人の体を包み込んだ。
「お前は残酷だ」
丸で独り言だった。
「本当に、残酷な奴だ」
幾許かの時が経った。
009の手からレイガンが滑り落ちた。軋む様な音を立ててサーベルが後に続いた。
月の光の下で嵐が起こった。細く息が零れる音がした。二人の体が一つの影になって揺れ、なぎ倒され、沈み込んだ。
-Powered
by HTML DWARF-