月は夜ごと海に還り

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(2)





キイッ・・・


  高く軋んだ物音が膜を張った様にくぐもっていた耳に飛込んで、009はそっと目を開いた。

  ぼやけた視界、鉛を纏った様に重苦しい手足、ズキズキと痛む頭。 起き上がろうとして捻った体に激痛が走って、再び固い床に倒れこんだ。
昼なのかも夜なのかも分からない静まりかえった闇がのし掛かって来る。


「気が付いたか」

  耳に飛込んで来た抑揚の無い低い声。それが誰のものか確かめなくても直ぐに思い当たった009は、顔を上げることが出来なかった。
だって彼が怖い。彼の行動は予測出来無い。 彼は全身に『死』を纏っている。
  闇にほとんど溶け込んでいた黒い姿はゆっくり動いて、009のすぐ傍まで来て止まった。相手の身に付けたブーツの固い踵の音が床を   伝わって、頭の奥にまで響いて来る。
 リアはブーツの爪先で009の体をごろりと乱暴に引っくり返し、仰向けにさせた。そして鞘に納められたサーベルの先で009の顎を 上げさせ、そのまま右、左とぐいぐいと顔を乱暴に向けさせて観察する。

「口を開けろ」

「・・・・・・?」

意味を図りかねて、009は相手の顔を眺めた。

相手は焦れたのかいきなり自分の手で無理矢理009の口をこじ開け、指を中に突っ込んだ。掻き回し、舌を押さえ付けられ、歯列をなぞられる。
 009は息が詰まりそうになって暴れた。やがて指が奥歯に被せられていた金属片のカバーを探り当て、毟り取る。
 蹲って激しく咳き込み、床に飛び散った唾液は薄赤く染まっていた。嘔吐感に胸がひくつき、息を弾ませて唇からつたう唾液をようよう拭った。
毟り取られた金属片が相手の指先に濡れて光る。それは部屋の隅に興味無さ気にぽいと投げ捨てられた。
 次に009の右腕を手に取り、繋がれていた鎖を手際良く外し始めた。

「・・・・・・どう、するの?」

カバーが外されたおかげで明瞭な言葉を発することが可能になった009は、今だ荒い息をつきながら恐る恐る尋ねた。

「じっとしてろ。単なる応急処置だ」

リアは力の入らない相手の体を引っくり返し、背中のジッパーを引き下げた。途端にあの恐怖が頭に蘇り、体が跳ねた。

「・・・・・・あ、嫌・・・・・・!」

「・・・・・・じっとしてろ!」

  そう言い放って、躊躇無くくつろげさせる。
 滑らかな背中の皮膚は、一面に散らばるどす黒い内出血、切り裂かれた傷、電流痕で痛々しい程だった。
 息を潜めたままでいると、傷口にひんやりとした物が触れる。人工皮膚の応急処置に使われる接着ゲルと思われた。
ひとつひとつの傷口にゆっくりと丁寧に塗り込まれる。傷を指で直接触られる痛みが最初は焼けつく様だったが、ゲルがじんじんと熱を持って 疼いていた皮膚を次第に心地好く冷やしていった。
 ふと指がぴたりと動きを止めた。瞳を僅かに凝らして、リアは目の前の皮膚、傷の間を凝視する。しかしそれはほんの一瞬の事で、まだ 意識が半分朦朧としたままの009は全く気付かなかった。

(・・・・・・。)

  何も言わずにリアは相手の体の下に自分の腕を差込んで持ち上げ、器用に袖から腕を抜き取らせると、上着を取り去ってしまった。
片手で抱き上げたままその上着をもう片方の手で固い床に敷き、仰向けにさせてその上にそっと体を降ろす。
 裸の胸を晒す格好になった。背中と同様、そこにもゲルが塗られていく。傷口自体の痛みが緩和されたおかげで、苦しかった息が多少楽になった。
 自分を傷付けた敵に手当てされるのは妙な気分だった。乱暴ではない指の感触、冷たいゲルの心地好さが、今の自分の境遇とちぐはぐだと思った。落ち着かな い。でも今はどうしようも無い。

早く終わって欲しい。

 手早く包帯が巻かれていく。息をする度に上下する胸が煩わしい。彼の手を邪魔している様に見えるからだ。相手は素早く巻き終わり の端を歯で噛み切った。
  終わった、と思ったのに、相手の指は止まらなかった。
009の額の髪をさらりとかきあげたのだ。だがそれは何ら不思議な行動ではなく、自分では気付かなかったが顔にも多くの傷があったのだ。
  ここで初めて、009は激しい羞恥におののいた。まだあの記憶が生々しいままで、こんな間近で顔を露にされ覗かれるのは嫌だった。
だがリアはそんな相手の心境を知ってか知らずか、表情ひとつ変えずに傷をなぞっていった。
 薄い瞼に付けられた傷には最大限の注意を払って触れる。目を閉じろと命令する必要はなかった。羞恥に耐えかねて相手の瞳は既に伏せられていたから。こと さら力を抜いて触れると 瞼の小さな震えが直接指に伝わった。

  リアの動きは最初から無駄が無かった。額、瞼、頬と順番に手当てすると、ようやく指が離された。
  009はようやく目を開く。自分でも気付かない内に張り詰めていた息をふうっと吐き出す。

「ありがとう・・・・・・」

リアの横顔に向かって力無く呟いた。

「勘違いするな。お前はこのまま基地へ運ばれた後実験に回される。大切な素体が傷だらけのままじゃ具合が悪いってな ・・・・・・」

実験・・・大切な素体・・・

口の中で呟いてみてはっとした。自分に起った事を思い出し、彼の言葉のもうひとつの意味を嫌でも想像せざるを得ない。
リアは黙々と床に散らばった治療道具を片付けている。

「君も・・・君も・・・僕を犯すの?」

頭に浮かんだそのままを口にしたまでだったが、その言葉にリアはむっとした様子で009を睨みつけた。

「・・・・・・随分な事を言ってくれる・・・・・・」

「・・・・・・・・」

「あの野郎とは一緒にしないでもらいたい。第一、お前は大事な実験体、そもそも俺はお前を攫う様 指令を受けただけだ」

「じゃあ・・・・・・じゃあ何であの時・・・・・・!」

キス、とは続けられなくて、顔を赤らめて黙り込んだ。

「 『キスをしたのか』か?」

「・・・・・っ」
あっさり言われてさらに言葉に詰まる。

「お前を連れて帰れば色んな奴にいいようにされるのが分かっていたからな。・・・・・・まあ、その前に少しだけ味見をさせてもらった までだ」

淡々と話す黒いマント姿を009はただ見つめるしかなかった。

「なぜそんな眼をする?」

一体どんな眼をしているのだろう。
ぽかんとしていると、相手はいきなりバンッと手を009の顔の真横の床に叩き付けた。その音にビクリと身を竦ませる。

「何か他の理由が聞きたいのか?キスして、中に突っ込みたいと言えばいいのか?拷問された上に犯されて、あれだけじゃまだ満足しな
いのか!?」

鋭く低い声が鼓膜を震わせる。じっとり粘りつく様な恐怖を覚えて、今にもくっつきそうな顔を背けた。

「・・・・・・教えてやろう。俺は戦闘用と諜報用のふたつの機能を負わされている・・・・・・それはお前も同じだ。ただ違うのは」


一旦言葉を切り、さらにずいと身を屈めて009の顔に近付く。


「俺はお前と違って諜報活動の経験がかなりあるということだ。お前は実戦に投入される前に逃亡したそうだから、それがどういう 事か分からないだろうが・・・・・・」

リアの唇が耳に触れるか触れないかの距離で動き、脳内に直接ひとつひとつの言葉が注ぎ込まれる。逃げる様に顔を背け眼を閉じ る009の顎を掴んで、強引に自分の方へ向けさせた。

「指令が下る度に、俺はあらゆる情報を引き出す為に色んな奴を抱いた・・・・・・。それこそ女も男も、だ。だが俺は奴等の顔を誰ひとり覚えちゃ
いない。情報が手に入る頃にはそいつらは既に屍になっているからだ。もちろん、それも俺の役目だ。一太刀で首をはねる事もあれば、気の 済むままに臓腑を掻き乱す事もある。その時の気分次第でな。だから俺にとってセックスと殺人は同義語なんだよ。俺はその為にB.Gに作られた。 お前が望むなら何度でもイカせてやる・・・そして二度と仲間には会えない。それが嫌なら、そんな清らかそうな顔で、自己犠牲の塊の、この世の 終わりみたいな眼で俺を見るな。全くイライラさせる!!!」

彼は009の顎を痛い程掴み、ゆっくりと憎々し気に囁いた。009はぎゅっと眼を閉じて震えるしか無い。

「・・・・・・無防備に大人しくしていれば切り抜けられるなんて思うな。セックスは単に快楽と懐柔の手段に過ぎない・・・違うか?」

「・・・・離して・・・」

  弱々しく呟くと、リアはようやく手を床から離し、覆い被さっていた体を退けた。
 今更ながらたったひとり敵の手の中に捉えられ、仲間とはもう会えないかもしれないこの状況を考えて、009は暗澹たる思い に打ち拉がれた。体にまだ残っている痛みと心の痛みがひとつになって、涙がこみ上げそうだ。

みんな・・・・・・・・・
僕は・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・

ここで死ぬ?自分は?
本当に?

今の立場では自分で生死を選択することは恐らく出来ない。
それは希望でもあり絶望でもあった。
これまで何度も死には直面した。自ら命を絶とうとした事さえある。
でも生きている。
今だって、こんな間近に敵がいるにも拘らず。全身に『死』を纏った姿が傍にあるのにも拘らず。
自分は死なない。まだ。少なくとも、今は。生きる理由がある今は。

それは不思議な確信だった。

既にすべてを見、すべてを知られた事。
それが自分に意志を与えてくれるから。
運命の描かれたカードが切られ、『絶望』の場所で完全に止まってしまわない限り。





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