月は夜ごと海に還り
(3)
そしてその日は唐突にやって来た。
リアの点滴の為の栄養液を補充しようと、009はベッドに背を向け液体パックを探してを引き出しを漁っていた。ようやく探り当てたパックを掴み、体を
ベッド側に向け直した時だった。
黒い瞳が、静かに自分を見つめていた。
天井のライトを反射して、瞳の中の白っぽい点が真っ直ぐにこちらを射抜いている。
009は立ち竦んだ。手から液体パックがするりと滑り、平手打ちの様な音をたてて床に落ちた。
相手が瞬きをしないので、目を開けたものの意識は無いのではと一瞬頭の隅で思った。彼はその瞳に自分を映してはいないのか。
ふたりは無言で見つめ合う。
沈黙を破ったのは相手の方だった。
「そんな驚いた眼をしなきゃならないのは、俺の方だと思うが」
「あ・・・」
ふいを突かれた衝撃で、上手く声が出なかった。目が合ったのが数秒間だったのか、ほんの瞬間だったのかは分からない。が、相手の静かな声で我に返り、慌て
て床に落ちたパックを拾った。
リアは頭を小さく動かして自分が今いる部屋の中を見渡し、包帯に覆われた自分体肩を眺めた。
「今度は俺が囚われの身って訳だな」
「具合は・・・?」
ぎくしゃくと009はベッドに近付く。リアは何も答えなかった。
009は緊張する手で点滴のパックを交換する。何の心の準備もしていない。こんな早く目覚めるなんて思っていなかった。
彼と話がしたかった。彼の心が知りたかった。だからこそ目覚めを今や遅しと待ち構えていた。なのに。
この瞬間、相手を恐れ、怯えている自分がいる。逆転した立場。戦場ではないこの場所で、初めて正面から向き合い言葉を交すこと。
『敵だから』怖いのではない。相手に拒まれることに対する恐怖だった
ごそごそと半身を起すリアを009は慌てて止めた。
「まだ駄目だよ!」
リアはかろうじて動く右手で相手をきっぱり制すると鋭い声で言った。
「なぜ俺を助けた」
そら来た。
009はベッドの傍の椅子に腰掛ける。ふたりの目線はほとんど同じ位置になった。
息を吸ってゆっくり口を開いた。
「君が僕を殺さなかったから」
リアの左目に、驚き呆れた表情がよぎった。009の真意を推し量る様にして正面から視線を合わせられる。009は僅かな動揺を悟られまいとそれを真直ぐ
に見返した。リアのこの様な反応は予想の範囲内だったから、その分まだ心に余裕は持っていられた。
『僕を殺さなかった』
ドルフィン号に帰って來てから幾度この言葉を口にし、心の中で繰り返したことだろう。まるで自分に言い聞かせ、暗示に掛けるかの如くだった。
「俺はお前を殺さなかった」
リアは静かに口を開いた。
「しかしその事が、お前が俺を救う理由にはならない」
「いいや、君は僕を殺さず救ったんだよ」
「・・・・・・」
「君は僕を殺さなかった。何度もチャンスはあったのに。足の鎖を切り、ドアに鍵を掛けずに」
「その後は?火の海の中でお前は死にかけた筈だ」
「君はドルフィン号が傍まで來ている事は知っていた。僕が脱出して生き延びる可能性を残したんだ」
「何の為に?」
「僕を生き延びさせる為に」
「堂々巡りだな」
「それが真実だから」
相手は溜め息を吐く。ふいに呼吸を詰まらせ、激しく咳き込んだ。
「ほら、起きたばかりなのに無理するから」
009はひくつく背中をさすってやった。
リアは低く息を喘がせ、唾を飲み込む。
ボトルの水を手渡して飲ませる。規則正しく動く喉が心臓の鼓動の様に思え、彼が生きていることを実感する。
息を吐き出し、乾いた体内に新鮮な潤いを得て、リアはようやく落ち着いた。
ここはお前らの船かと問う彼に、微笑んで頷く。
包帯に隠されていないリアの左目が僅かに細められた。
「どうしたの?何処か痛い?」
驚いてリアの顔を覗き込んだ。
「いや・・・」
相手は戸惑ったような表情をし、リアらしくなくためらいがちに009を見る。
「・・・お前が」
009は訳が分からずきょとんとした。
「僕が?」
「・・・この俺の前でなぜその様に微笑む事が出来るのか」
余りに思いがけない言葉だったので内容を飲み込むまで一呼吸の間を要した。
その意味をようよう理解すると009はくすっと笑った。こんな些細なことが彼にとって大きな驚きの種だったのだ。
「君が生きていてくれて嬉しいからだよ」
考えると、実際可笑しくて堪らなかった。今までの間柄では笑顔も何もあったものではなかった。自分達は戦場で鎬を削った敵同士であり、拉致監禁までされ
たのだった。ところがその敵に今こうして自分達の船の中で手厚い治療を施し、殺されかけた自分が看病している。
何気ないリアの言葉に009は心にわだかまっていた何かがふっきれた気がした。今は、少なくともリアが此処に居る間は
敵だの味方だの考えるのは止めよう。ここでは彼に笑顔を見せることが出来る。自分達00ナンバーと彼との距離がそれで少しでも縮まれば。
「なぜそんなに笑う」
「君が生きて、僕の前に居るから」
ふたりの会話は一向に進展しない。だがそれが009には心地良かった。戦場でも独房でもない場所での、この今の穏やかなひとときを大切にしたかった。過去
も未来も立場も関係ない「今」を。
リアの眼の端が小さく震えた気がした。それが彼の微笑みに見えて、009の心に熱い雫がぽたりと滴って広がった。
「とにかく、怪我が治るまではここに居てもらうよ」
リアに優しく、けれどもきっぱり言い放つ。彼ははやれやれと肩を竦めた。どっちにしても今のこの体では逃げ出すことは出来まい。
その態度に009は満足した。
「さあ、体に障るからもう・・・」
促しかけて、ふと相手がぽかんとした顔でドアの方を見ているのに気付く。そちらに目を向けて、009は驚き赤面した。
いつの間にかドアの隙間に縦一列にずらりと並んだ006,002、007の顔、顔、顔。それらが興味津々でリアを見物していたのだった。
「ちょっ・・・君達・・・いつの間に・・・!」
009は慌てた。
「アラ、ちゃんとしゃべってるネ」
「意外とフツーだな」
「もう大丈夫なのかね?」
仲間達はリアを観察しながら言いたい放題だ。彼らは動いて喋っているリアを初めて見たのだった。自分達00ナンバーを翻弄した得体の知れない謎だらけの
B.Gサイボーグ『リア』とやらは一体どんな奴なのかと、皆は目を皿の様にしている。
「もう、みんなお見舞いなら堂々と入って来ればいいだろ。なんでそんなこっそり覗いているんだい?」
009が呆れて腰に手を当てると、皆は顔を見合わせて口ごもる。
「だって・・・」
「なんか怖いもんな」
「ワテらを取って喰わないカネ?」
皆何気なく失礼な事を言っている。
「そんな訳無いだろ!!さあ、リアはもう休むんだからもう皆戻って!お見舞いはまた今度にしてっ」
009はこの光景がなんだか恥ずかしくて、早々に皆を追い払おうとした。
皆はぶつぶつ言いながら頭を引っ込める。
ドアが閉まる寸前に006がひょいと頭を覗かせて叫んだ。
「アンさん、男前ネ!!起きている方がずっとイイアルヨー!!!」
「006!!!」
あっという間に顔は引っ込み、飄々とした声は部屋から廊下まで木霊して遠く尾を引いて行った。
「あ・・・あの、ゴメン、うるさくして・・・」
一連のやりとりを呆然として見ていたリアに、009は顔を赤くしておろおろと謝った。
皆の言動に対するコメントは特にせず、リアは009の助けを借りて再びベッドに横になった。
リアが自分の顔を覗き込んでいるのに気付いて、009は上掛けを直してやりながらにこりと笑う。
『これから笑顔なんて幾らでも見せてあげられるよ』
その瞳はそう語っていた。
───── 同じB.G製でもあっちとこっちとじゃえらく違うものだ
薬による急速な眠りに引き込まれながら、リアはそのようなことを考えていた。
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