月は夜ごと海に還り

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(2)



 009がB.Gから帰還して意識を失っている間に、ドルフィン号は元の島の同じ場所に戻って来ていた。
 やはりここ以上に適した停泊地は無かったし、何よりもここの美しい自然は皆の心の安らぎにもなっていた。

 ここの渚の声と光の色に日本のギルモア邸を思い出すと言ったのは008だった。
 普段日本から遠く離れた灼熱の国に暮す彼は「水」を同志とする体を持ち、其れ故この島を包む太陽と海が今やふたつ の故郷を愛する彼の心にとりわけ深く響いたらしい。

「太陽と海は最早僕のアイデンティティーだからね」

008は笑って言った。

「生きているって実感するよ。サイボーグなのにね」

 水にしっとり濡れたココア色の肌は木漏れ日を浴びてつやつやと黒光りに反射し、周囲の景色まで映し込んで溶かしていく。 彼から発するむせ返りそうな程の生命の香りに、酔ってしまいそうだと009は思った。
 傍の流木に腰掛けて自分を眺めている009を感じつつ、008は木の枝に引っ掻けてあったタオルで濡れた体をごしごし拭いた。
 拭きながら独り言として呟いてみる。

「何で僕らに生身の部分を残したんだろうね」

「うーん、諜報用としても使用するには人間らしい部分も必要だったから・・・って言うのが僕らの一般的な意見じゃなかったけ」

009は律儀に答え、その無邪気さを008は微笑ましく思った。

「もちろんそれが一番の理由だろう。でもそれだけならB.Gにとってリスクの方が大きい気がしないかい?生身の部分は精神と 密接な関わりがある。表面的ではない心からの怒り、悲しみ、哀れみ、どれもB.Gの様な組織には邪魔なものだ。不満、反抗、裏切り を産み出すものでしかないからね。そしてそれを体現したのが他でも無い僕達だったという訳さ」

 言いながら008は無造作に防護服の上着を身に付け、背中のファスナーを上げた。
 ふたりは並んでごつごつした流木の上に並んで座り、白い波が足元まで打ち寄せるのを黙って眺めた。潮風が互いの頬を撫で、海面 に鱗模様を作る。頭の上で鳥達が啼く度に木漏れ日がゆらゆら揺れ、気紛れにふたりの影の形を変えた。

「それで思いついたんだ。僕らに生身の部分を、心を残したのは、死なせる為なんじゃないかって」

009は目を見開いた。

「生きたいとか死にたいとかの思いは最も人間らしい心情の一つだと僕は思う。 諜報用サイボーグは外の世界と接する機会が多いから、裏切りの可能性もそれだけ高くなる。 裏切り者には死を・・・がB.Gの合い言葉さ。B.Gに背く心を持った者は自然に淘汰されるんだ」

「巧妙だね」
「あくまで僕の思いつきだけどね」
「まだ全員ぴんぴんしている僕らとの違いってあるのかな?」

008は丸い頭を傾げて考える仕種をした。

「やっぱり・・・ありきたりだけど、運命の違いというものかな。同じ世界に生まれても『あちら側』と『こちら側』の境ははっきりしてしまっている んだ。上手く言えないけれど、そう・・・例えば空と海の様にね」

そう言って008は遠くの水平線に目を遣る。溶合いそうで溶合わない、どこまでも真直ぐな線。009もつられて遥か遠くの沖合を見つめた。

「逃亡したあの日から、僕達とB.Gに残ったその他のサイボーグ達との間に一本の線がはっきり引かれたんだ」
「・・・・・・」
「でも時としてその線は曖昧にならずにはいられない。敵同士になったって同じB.G製のサイボーグだからね。シンパシーはどうし ても感じてしまう。それもまた人間らしい心情の一つなのかもしれない」

 水平線は単調すぎて、あまり見つめると目がおかしくなりそうだった。濡れた砂に目を落すと、 足元にある小さな水溜まりが木漏れ日を反射してそこにもうひとつの太陽を作っていた。それが真下から009の俯く横顔を照らして 細かな産毛を金色に染め、両の瞳の中には光の渦が水の揺れに合わせて震えている。

「・・・それはリアと僕の事?」

相手の様に目を奪われていた008は、ふいを突かれて一瞬息を止めた。

「そういうつもりで言ったんじゃないけど・・・考えてみればそうかもしれない」

009は睫毛を伏せて、光の渦に憂鬱の色を落した。

「彼の事がみんなを不安にさせているのは解っているんだ。連れて帰ったのはシンパシーのせいかどうかは自分でも分からないけど、 そうせずには居られなかった。どうしても彼を死なせたくなかった。・・・!」

腹の奥底から息を絞り出したので、009の声は却って擦れて響いた。
彼の輝く真摯な瞳を008は複雑な気持ちで眺めていた。

「僕は彼の中のベクトルが死に向いていることは感じていた。だから、彼に生きる喜びを教え・・・」

言葉が宙に浮いた。
海水の湿り気が残る指で相手の唇を封じている008。
戸惑いの瞳を向けられる。

「そうだな。君の気持ちは分かるし、リアを助けた事は良かったと思っている。だけど・・・」
「・・・だけど?」
「君はやはり何かを隠しているね」
「・・・・・・!?・・・」
「それが何かは僕は聞かない。でも」
「・・・」
「004には言わない方がいい」

今度は009が息を止める番だった。
途切れた言葉は苦い味に変化して、飲み込んだ唾液と共に喉を滑り落ちていく。 足元に寄せる波が大きくなってこのまま自分を連れ去ってくれれば良いと思った。

 008は仲間の肩をそっと抱いた。彼と悩める心を分かち合うにはそれが精一杯だった。
 それでも彼の温もりは今は自分の一部。そう気付いた心に痛みを伴った喜びを感じる。


 これは自分だけの秘密だと心に誓った。




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