月は夜ごと海に還り
(3)
「・・・今日は朝から少し天気が悪いみたいでね・・・波がいつもより高かった。遠くの空で雲が煙の様な色をして浮かんでいたよ。雨が近いんだね・・・」
「・・・雨か」
「もうすぐね」
言葉はゆっくりとふたりの間を通り抜け、そのまま空気に溶けて消えた。
生身の人間には持たざる鋭敏な神経は、鉄塊を通した外の世界の微妙な気配を伝えて来る。
包帯がようやくとれたばかりのリアの背中を009は濡れたタオルで拭いている。
まだ新しい人工皮膚の継ぎ目がうっすら残っている体に、刺激を避けて出来るだけ優しく優しく布を滑らせていく。その継ぎ目が馴染
んで消えてしまうのも時間の問題だろう。 覆う物がなくなった逞しい上半身はライトの光を受けて、さっきまで彼の体を包んでいた
包帯の白さよりも009の目には眩しく映った。
綺麗だ、と思った。適度な筋肉と真新しい皮膚、真直ぐ伸びた背骨と肩胛骨の凹凸が作る淡い影。漆黒の衣服を纏って宙を舞う
姿は禍々しい美を引き摺っていた。けれど衣服を取り去った今は・・・死のイメージなど軽く払い除けそうな、清潔で厳かでさえある
生の息吹。片目になった戦士はこんなにも繊細な体を持っていた。リアの肩に添えた片手、濡れた布を通してはっきり伝わる彼の呼吸、
体温、骨格の確かさ。
死ぬことは無い、ここに居さえすれば・・・君はこんなにも美しいじゃないか・・・
晒された皮膚から感じられる瑞々しさに009の感覚器官は溜め息を吐く。
リアの首が僅かにこちらを向いた。気付かぬ内に本当に息を吐いていたのかも知れない。まるで自分の心を見透かされた様で、009は
自分の顔が火照るのを感じた。
「この時期に雨は珍しい・・・昨日は確か新月だ・・・ここいらではなぜか闇夜の時期は晴れと相場が決まっていたのだが・・・。
・・・その星々もついに命尽きて雨に追い払われたか・・・・」
頭の中から思考を少しずつ手繰り寄せる様なリアの言葉はほとんど独り言らしかった。
元々彼から何らかの反応を引き出すのは非常に難しかった。特に話しかけない限り相手が何も言わないのはいつもの事で、
009はもう慣れっこになっている。抵抗は見せないがそれは何ら心を開いた訳では無く、諦めとも何か違う。ただ自らの
運命に従っているだけ、もとよりその運命にすら関心が薄い様な空虚さが漂っている。
更に009の心を波打たせるのは、リアの目だった。
あの村で独房の中で009が見ていた彼の目は、いつも鋭く引き裂かれそうな青白い刃の煌めきを湛えていた。その切っ先が常に
眉間に突きつけられている、そんな血の凍る覚悟の一瞬を相手から引き摺り出すのだった。
今は違う。凄まじいマイナスのエネルギーは静かで暗い、すべてが呼吸を止める深い深い闇へと変貌した。一見穏やかに見える
様相・・・しかし覗き込んだが最後、足をとられて二度と這上がれない底無しの沼・・・
本来外に向かって放っていたエネルギーを内に引き籠もらせ、無理矢理眠らせているとしか思えない。彼の片目を間近で見る事が、
今では苦しかった。
だが今、独り言めいていたとはいえ自分から話をしてくれた、009はせっせと手を動かしながら、自分の鼓動がにわかに速くなる
のを感じていた。
この船が今いる場所をリアは知っている。鉄塊の外に広がる海の音、空の色、月の律動に至るまで知り尽くしているのだ。
「・・・雨が去る頃には君も歩ける様になっているかもしれない。そうしたら夜の海岸を一緒に散歩しよう。太陽の光は
まだ君の眼に良くないだろうから。また月が輝き出すよ。きっと星も出るだろうね・・・。この島に輝く月や星は本当に
綺麗だものね・・・」
そうだろう?
言外の意味を含ませて、009は心の中で問い掛けた。
「・・・お前はまだそんな事を言っているのか」
その言葉と同時に二の腕を拭いていた手を掴まれた。
動揺して体が小さく跳ねたが、相手はただ前半身は自分で拭こうと意思表示をしただけなのだ。不自然にならないよう
そろりと手を動かして洗面器で一度タオルを濯ぎ、絞ってリアに手渡した。
「・・・『そんな事』・・・」
009は茫然と呟いた。
リアはそんな相手を無視する様に黙々と体を浮く。
終りを見届けると009は立ち上がってタオルを受取り、外していたコードを黙って繋ぎ直す。
無言で続く、流れる様なふたりの動作。
その時。
「・・・あいつはいいのか?俺は一向にかまわないが・・・」
リアの声に、彼の視線の先を辿ると、そこに居たのは腕組みしながらドアの枠にもたれ、片足をもう一方の枠
に掛けて仏頂面の横顔を見せている002。009は飛び上がりそうになる程驚いた。
「ゼ・・・002・・・いつからそこに・・・」
焦ってしどろもどろになる言葉。
002は険しい目でじろりと目の前のふたりを睨んだ。
「いつからだって?俺はさっきからずっと居たけど?」
皮肉っぽく言って嘲るようにふんと鼻を鳴らす。さすがの009も少しかちんときた。
「何で声掛けてくれなかったんだい?黙って見物してるなんて悪趣味だよ」
「なんだか二人だけの世界に入り込んでいるみたいだったからさ。声掛けにくいのなんのって」
009は赤くなった顔を002に見られないように下を向いて、外していたコードを繋ぎ直した。
「・・・で、何か用?」
相手は肘をドア枠に掛けてもたれ直し、無愛想に一言。
「見回り。お前の番」
009はぎょっとして立ち上がった。
「ええ?!もうそんな時間!?」
洗面器やらタオルやらをあたふたと片付け始める。
002はいらいらと指でドア枠を叩いた。さらに009がリアのベッドのシーツを直そうとするのに業を煮やし、つかつかと近寄っ
て彼の腕を引っ張り上げた。
「もういい。行くぞ」
「あ、あリア、後でまた来るからね・・・!」
002に引き摺られるようにされながらも、なお振り返ってリアを気にする009。002は彼をまるでリアから
隠すようにしてドアに押し遣り、振り返った。きつい目で無表情にベッドに座る相手を一瞥する。
「・・・いいか、貴様に何の下心があるか知らねえけど、俺達にはその手は通じねえからな・・・分かったらさっさと基地に帰りな」
「ジェット・・・!!」
音を立ててドアが閉り、009の非難の声は吸い込まれていった。
「ちょっと、002・・・待って・・・!」
大股でずかずか廊下を進む002の後を、009は小走りで必死に追う。
002はそんな009の言葉に後ろを振り返る事もせず、足を緩める事も無い。
「待ってよ、ジェット・・・!」
半分泣きそうになりながら息を切らして追い付いた009は、002の肘に手を掛けた。
「どうして、どうして・・・リアにあんな事・・・!」
一切歩調を緩めない相手に追縋るようにして009は訴えた。
「ひどいよ・・・リアが可哀想じゃないか!」
相手が勢い良く振り向いた。眼が怒りに燃えていた。
「可哀想だと?・・・拉致られた挙げ句目の前でお前を殺されかけた俺は・・・俺達は可哀想じゃないってのかよ!?」
009は動揺した。
002は再び背を向けて廊下を進みだし、009は必死に肘を掴んだ。
「そんな・・・僕は彼がB.Gから出られればって・・・」
引き摺られるようになりながら、いつの間にかコックピットの入り口まで来ていた。
「一人でもあそこから出ることが出来ればって・・・だから僕は今出来るだけの事を・・・」
そのままコックピットのドアを潜った。もつれ合うようにして入って来たふたりにその場にいた仲間達は驚いた。
「002、何でそんなに怒って・・・」
009のこの言葉に、002は再び振り向いた。
「何を、だって? はっ!!」
それだけで殺されてしまいそうな鋭い眼差しに、009は怯んで立ち竦んだ。
「分からないなら教えてやらあ・・・お前の、さんざ利用されてもう一回拉致られなきゃ気が済まないって言うような、そんな所に
な!!」
002は相手の手を乱暴に振り払い、そして振り返りもせず、大股で外に出て行ってしまった。
しんと静まり返る部屋。仲間達はおろおろと動揺し、居心地悪そうに目を見合わせた。
「ジェット・・・」
009はその場に硬直し、呆然と仲間の名を呟くしかなかった。
気まずい空気がコックピット中を満たした。
「009・・・」
004が背後から声を掛けた。
「あいつは命を掛けてお前を助けに行った。だが・・・結局出来なかったそんなあいつの気持ちが分かるか・・・?」
手を振り払われる直前に、耳元で振り絞るように漏らした002の言葉が頭の中でぐるぐる回っている
『・・・俺は004に約束したんだ・・・必ずお前を連れ帰るってな・・・ふたりで一緒に帰って来るってな!!』
胸が痛くて堪らない。
まるで鋭いナイフで抉られでもしたかの様に。
薄暗い廊下。
険しい顔の仲間が歩いて来る。
「こんな事言いたかないけど…あいつ何かヘンだぜ」
すれ違い様独り言の様に、ぼそりと呟いていった。
分からないくらいほんの僅かな間、004の足が止まる。
そのまま歩いて行く相手の背中を目の端で捕らえて、彼もそのまま歩みを進めた。
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