モドル | ススム | 009

  隠れ家にて   







 遠くから響いて来る工事中のクレーンの騒音、排気ガスの混じった冷たい空気、足もとに散らばった酒瓶の破片。
 労働者らしき男が疲れた顔つきで時折通る他は、まるでまばらな人通り。
 酒場の錆びた看板が危なっかしく風に揺れ、 ゴツゴツした石畳の曲りくねった通りが迷宮の様な路地の片隅。


 そんな場所でジョーは冷たい石壁に背を凭せ掛け、先程から辺りを注意深く伺っていた。
 腕時計の針は四時半を指している。
 落ち着かない気持ちを持て余し、目の前にコロコロ転がって来た空の酒瓶を戯れに靴の先で止めたり蹴ったりを繰り返した。



 何処からか小さく名を呼ばれた。

 目の前の路地の影からベージュのコートの裾がちらちらし、白い手が自分を手招きしている。
 素早く周囲を見渡して狭い道を横切り、向かいの路地に飛込んだ。

 彼女が買物包みを抱えているのを見てそれを受け取る。彼女はちらりとこちらの顔を見ただけで、すぐにコートの裾を翻した。


────── 行きましょう


────── ・・・・具合は?

先に立って足早に歩く相手の背中を追いながら、低く尋ねた。

────── 電話で話した通りよ。変わってないわ。・・・思った程では無かったけど、何にせよ間が悪すぎたわ

────── 博士達に何とか連絡は出来たけど、時間が・・・


 彼女は答えなかった。ただコートのポケットに両手を突っ込んだまま、高い華奢なヒールで、ごつごつした石畳を物ともせずに、背筋を堅苦しい 程真直ぐに 伸して歩いて行く。


 それきり会話は跡絶えたまま角を幾つか曲がり、石段を登った。ジョーはただ相手の背中を見ながら歩いた。

 日没が近い。迫り来る夜の気配に自然と急ぎ足になる。

 やがて彼女は立ち並ぶ灰色の建物の一件に入って行き、自分もそれに続いた。
 外の灰色を少し濃くした内部の薄闇に、一瞬視界が陰った。埃っぽく狭い玄関の頭上は高い吹き抜けの構造で、儚いばかりの光が差し込む様は、 まるで寂れた 礼拝堂の様だった。
 キイキイ軋る、今にも底が抜けそうな板張りの階段を上って行く。大きな自分達の影が薄灰色の壁をなぞる。上るにつれて、光がぼんやりと周囲 に広がって行き、 踊り場を過ぎると一気に目の前が明るくなった。
 階段を上がりきった所で相手は立ち止まり、目で示した。


────── あそこよ。突き当たりの


ジョーは頷き、彼女は床に視線を落とした。しばらくふたりは黙ったまま向かい合っていた。


────── フランソワーズ


静かに呼び掛けると、彼女はゆっくり顔を上げた。



────── ありがとう


 ふたりはこの日会ってから初めて、真直ぐに視線を交わし合う。
青白い顔に輝く厳しい緑の瞳。僅かな間に若い娘らしい天真爛漫さは消えてしまっている。代わりに浮かんでいるのは、世間を知り尽くし、成熟し た大人の女の 顔だった。

 二人は静かに抱擁し合った。それはまるで祈りの様だった。

 彼女はコートのポケットを探って、一本の鍵と、新聞紙に幾重にもくるまれ麻紐で縛られた包みを取り出し、俯いてジョーに押し付けた。その大 きさと重みから レイガンだとすぐに分かった。彼女はそのまま腕を引っ込めず、背伸びをして素早くジョーの頬にキスをした。

そして瞳がまるで涙を堪える様に歪んで ──────微笑んだ。

次の瞬間彼女は踵を返し、あっと言う間に階段を駆け下りて行った。

 踊り場の壁に大写しの影になって翻る彼女の髪、服の裾。やがて外に出て石畳を踏むヒールの音が耳の奥で徐々に小さくなっていく。やがて彼女 の居た 痕跡は跡形も無く消え去ってしまう。





  靴の音が無くなってしまうと、ジョーは教えられた部屋のドアの前へと真直ぐに歩みを進めた。

 渡された鍵を押し込み、回すと、ドアは音もなくゆっくりと開いた。

 中に入ってドアを閉め、アーチ型の壁の向こうを覗く。

 家具の無いがらんとした部屋。白いカーテンから差し込む夕陽。


 正面の壁の真ん前に彼は居た。



────── 待ってたぞ

そう言って彼はニヤリと笑った。


ジョーは微笑み返した。


 壁に凭れて座る彼の上半身は包帯で覆われ、鋼鉄が剥き出しになった右肩には、白いコードが血管の様に浮き上がり、うねっている。
 ジョーは部屋を横切り、相手の坐る床に直接敷いたマットレスの上に自分も坐った───── ベッドを運び入れる時間さえも持てなかったの だ。



──────・・・・・具合は?

──────そう悪くは無い。何とか自分で動けるし、痛みもまあ・・・これがあったからな。

彼は自分の腕に注射器を打つ真似をした。

────── アルベルト、・・・・・余りそれは・・・・・


────── 分かってる。今回だけな。皆には内緒だ。博士にはばれるだろうが。

 そう言いつつ彼は、相手の表情に気付いてその頬にそっと左手を伸ばした。


────── そんな顔をするな。もう大丈夫だから。


 ジョーは、自分の頬に触れる冷たい手を温める様に自分の手を重ねた。

────── 君が無事で・・・元気なんだって事、僕は一度も疑ったりなんてしなかったよ・・・・。

────── そうか

二人は小さく微笑み合った。


ジョーは傍らに置いた買い物包みを手に取った。

────── これ、フランソワーズが色々準備してくれたんだ

 サンドウィッチの包み、缶詰や果物、水のボトル、包帯などを袋から次々と取り出して並べて見せた。

────── それから、これ・・・・・

 ポケットからそっと先程のレイガンを取り出し、差し出した。アルベルトも手を伸ばして、ジョーが握る反対側を握った。レイガンはしばらく二 人の 手の中に包まれていた。


 アルベルトはさりげなくレイガンを傍らに置くと、その手で今度はジョーの頬に触れて来た。髪をかき上げる様にして何度も撫でると、二人の瞳 が引き合った。
そして二人はお互い吸い込まれる様にして抱き合い、唇を重ねて舌を絡め合った。


 カーテンの外で夕陽はどんどん翳りを帯びて、床に落ちる二人の影を黒く染めた。その間も二人は夢中で唇を求め合っていた。口づけながら アルベルトは両手を差し込む様にして上着をジョーの肩から落とした。続いて鋼鉄の指が流れる様にシャツのボタンを外して行き、ジョーは焦った 素振りを見せた。 だが自分の白い肌が露わにされて暗がりに浮かび上がるのを目の当たりにすると、もう全てを忘れた様だった。
指や舌、熱い息が剥かれた肌の上を這い回る。乳首が舐め上げられ、吸われてジョーの唇から悩ましい声が漏れた。
だが手がズボンの中に差し入れられると、再びジョーは躊躇った。分かっていながらアルベルトはお構い無しに続けている。卑猥な熱い愛撫に体が 砕けそうになり ながら、ジョーは抵抗の声を上げた。

────── 待って・・・・駄目・・・・

────── 何が

アルベルトは不満そうに顔を上げた。


────── だって・・・・君の傷が開いたら・・・・

ジョーは息絶え絶えに、少し躊躇う表情をしてからこくりと唾を飲み込んだ。


────── だから・・・・だから・・・・僕にさせて・・・・・


 ジョーはゆっくりと相手に圧し掛かって押し倒した。
震える手で相手の前を開いた。細い指を絡め、おもむろに口に含まれて、既に熱くなっていたアルベルトのそれは呻き声と共に一層固さを増した。
何度も舐め吸われながら、アルベルトは手を伸ばし、指を彼の後ろに差し込んだ。あっ・・・・と微かな声が漏れたが二人の行為は途切れる事無く 続いた。
 やがてアルベルトは脇に手を入れてぐいと相手の体を自分の上に引き上げた。ジョーはしっかりと白い腿で体を挟んで体を開き、性急に二人は繋 がった。
 陽は既に沈み、部屋は闇に覆われていた。薄いカーテンから漏れる外の街灯の灯りが、部屋の隅の熱い塊をぼんやりと体を照らしていた。
泣き声とも悲鳴ともつかぬ押し殺した声が暗い部屋に響いた。


 ふたりはぐったりとしてマットレスの上に並んで横たわった。


────── 後で巻き直さなきゃ・・・・傷は大丈夫・・・・?

 アルベルトの体の包帯が緩みかかっているのに気付いて、ジョーは囁いた。

────── ああ。お前さんが気遣ってくれたからな。博士やフランソワーズには何とか叱られずに済みそうだ

 含み笑いをしてアルベルトは答えた。ジョーは顔を赤らめ、蹲るようにして一層彼の体に寄り添った。


 とろとろと時間が過ぎて行った。時折下の道を車が通り過ぎ、ヘッドライトがカーテンを照らして行った。それ以外は音も無く、夜が部屋ごと彼 らを包み込んで、 暗い水底にゆっくりと引き込んで行く様だった。
 ふたりは先程から声を殺して闇の物音を聞いていた。しばらく互いの目を見つめ合うと、アルベルトはジョーの体を引き寄せながら、開いた手で 傍らのレイガンの包みを掴んだ。

 歯で麻紐を引いてほどき、銃身を剥き出しにする。ジョーはその間包帯の上から彼の胸に耳をつけ、規則正しい心臓のリズムを聞いていた。

 またヘッドライトがカーテンを照らした。微かに壁が揺れた気がした。水道管の振動の様なそれは真っ直ぐに、ひたひたと壁を上がり、天井へと 動いた。 更にベランダの外から風とも鳥の羽ばたきともつかない音が彼らの耳に届いた。



 そっと口づけて二人は指を絡め合った。  アルベルトは引き金に指を掛けた。カーテン一杯にヘッドライトに照らされた影が大写しになって揺れた。
 





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