『Open Your Heart』
(1)
朝から怪しげな雲行きの梅雨の空だったが、午後になってさっきまでのぱらぱらとした雨粒の音が少しずつ大きくなった。
一人きりで万事屋の留守番をしていた桂が新聞から顔を上げ、窓の外に目を遣ると途端に雨が堰を切った様に降り始め、
屋根や窓を激しく打ち始めた。
少しして忙しなく外階段を駆け上がる音、ガラガラと勢いよく開けられる玄関と共に、銀時の声が飛び込んで来た。
「うっわぁー急に降って来やがった!おーいタオルタオル!!」
急いで桂は立ち上がり、確かここにと襖を開け、中の引き出しの下段を開けたが色とりどりの下着しか見当たらない。玄関に向かって桂は叫
んだ。
「・・・・どこにあるんだっけ!!」
「覚えてねーのかよ、一番上の引き出しだよ!」
上段を慌てて探り、見つけたタオルを引っ掴んで玄関に走った。
「おせーよ。風邪引かせる気かよ」
桂は銀時の頭にタオルをばさりと被せ、ごしごしと拭いてやった。銀時はさぶっと呟いて、タオルの下でくしゃみをした。
耳から首の辺りを包み込む様に拭ってやると、されるが儘にタオルの中でくしゃくしゃの髪になって何となく心地良さそうに銀時は目を閉じ
た。
「湯でも浴びて温まって来い」
「・・・・あーそうして来るわ」
タオルを被って銀時はそそくさと玄関を上がり、桂の脇をすり抜けて風呂場の方へ足早に歩いて行った。
「着替え頼むわ。適当に持って来て」
振り返ってそう言い捨てると、ぴしゃりと洗面所の扉が閉まった。
着替え、着替えと唱えながら桂は和室の箪笥の前に引き返し、新しいタオルとさっき見つけた下着、同時に首尾よく見つけた甚平を一緒に
持って洗面所に届けた。
洗面所にはシャワーの湯の温かな気配、銀時の裸の影が浴室のガラス扉の向こうに映っていた。
和室に戻り、さっきタオルを捜すのにぐちゃぐちゃになった中を整えようと開けっぱなしの引き出しの前に再び膝を突いた。
その時ふとある物が目に入って桂は手を止めた。
引き出しの一番奥の隅に小さく折り畳まれて押し込んである白い布の塊。
他の衣類と比べてざらつき擦り切れ、まるで隠す様に奥に詰め込まれているにも関わらず、小さく丁寧に畳まれてひっそりと眠っている。
特に目を引く所も無いその布に、なぜか桂は見覚えがある気がした。
桂は浴室の方から聞こえるシャワーの音に耳を澄ませる。人様の物を探る事に躊躇しなかった訳ではないが、それに手を伸ばしてゆっくりと
広げた。
手の中ではらはらと広がっていくその古びた布は小帷子、戦の時鎧の下に身につける下着だった。
何度も酷使されたのであろうそれはあちこち破れて擦り切れた無残な姿で、血の跡と思われる茶色の染みが所々に薄らと残ってはいるが、
きちんと洗濯された清潔な様子をしていた。
そっと襟先を捲ってみると、裾の方に縫いとりがほつれたらしい青い糸が何本かぶら下がり、その横に破れかかった空っぽの小さな袋が縫いつ
けられている。
桂はその小帷子を暫く見つめていた。
顔を上げると壁のカレンダーが目に入り、そこに忘れかけた六月二十六日の数字があった。
外の雨の音と浴室からの湯の音が重なって響く。
それらは膝の上で帷子をそっと撫でる桂の元に、過去の遠い記憶を連れて来るのだった。
梅雨前線が列島を縦断しだして既に久しく、その日も朝から単調な雨音が屋根や軒を叩いていた。
この雨の間に昨夜練っていた計画をもう一度洗い直し、もっと激しくなる前に食糧を蔵から運び出しておいて、それから・・・・
軒から吹き込む水を含んだ柔らかい風を頬と髪に受け、降り続く雨を眺めながら、桂はぶつぶつと考えていた。
「おーヅラ、ここに居たか!」
明るい声と共に後ろからがしっと両肩を掴まれた。
桂が振り向くと隠し事をする子供の様な無邪気な笑みを浮かべて坂本が立っている。
「ヅラじゃない。どうした、朝から」
坂本はにたっと笑うと、懐からごそごそと小さな紙箱を取り出し、桂の手を取ってぎゅっと握らせた。
きょとんとする桂に坂本は、
「開けて見てくれ」
怪訝に思いながら箱を開いて見ると、縮緬の布に包まれ収まっていたのは、紫陽花の彫り物が施された美しい柘植の櫛だった。
「今日はおまんの誕生日じゃろ?だからわしから贈り物じゃ。ぷれぜんとというやつじゃな」
「え?」
そう言えば今日は六月の二十六日だったが、自分の誕生日などすっかり失念していた。坂本が知っていた事も驚きだった。
戸惑う様子の桂に微笑みながら坂本は櫛を手に取り、桂の髪にそっと当ててゆっくりと梳いた。元々真っ直ぐな桂の髪だったが、
櫛目を通すと朝の光に目覚めて行く様に艶々と輝いた。
「ほーら余計別嬪になったぞ、こりゃ」
坂本は満足そうに笑った。彼の手で何度も梳かれながら、突然の贈り物、しかも立派な品に桂は気後れを隠せない。
「しかしこんな高価な物・・・・いや、でもありがとう」
「いやーこんなご時世じゃから店にもあまり良い品が無くってな。本当ならもっと色々・・・・」
言いながら坂本はうっとりと何度も櫛を桂の髪に通すのだった。
「おい、坂本」
ふいに障子の向こうから声がして、不機嫌そうに高杉が入って来た。
「お前今朝の飯当番だろうが」
坂本はばつが悪そうに笑って、
「気に入ってくれるといいんじゃが」
桂の耳元で素早く囁きながら櫛を桂の襟元にそっと差し込んだ。
そそくさと厨の方へと去って行くその背中をちらと見送ると、おもむろに高杉は桂の方へ向き直り、小さな紙包みを桂に押し付けた。
「やるよ」
「へ?」
またしても驚きつつ桂は、そっぽを向いている高杉と包みを見比べながら薄紙を開けてみた。それは大小二匹の蝶が戯れている蒔絵の意匠
の、
黒い漆塗りの小さな手鏡だった。
「あー・・・・この前露天のくじ引きで当たったから・・・・それで・・・・」
高杉は目を合わせない。桂はぽかんとしたが、すぐににっこり笑って見せた。
「誕生日の贈り物にしてくれたのだな。ありがとう。うれしいぞ」
「・・・・こんなの持っていても仕方ないし、捨てちまうのも何だしさ・・・・」
口の中でぶつぶつ呟きながら、高杉はすたすたと去って行った。
一人残されて桂は手の中の品を眺める。高杉はくじ引きで当たったと言っていたが、この蒔絵の見事な細工は、
露天のくじの景品などでばらまかれる様な代物ではない事は、素人目にも分かった。
しかし・・・・・櫛と手鏡。あいつら俺の事を本気で女だと思っているのじゃなかろうか。
ああ、もしかしたら意中の女に贈るつもりで買ったものの渡し損ねた品なのかもしれない。そうだとしてもまあいいさ。
仲間が誕生日を覚えていてくれたなんて俺は幸せ者じゃないかと桂の顔には自然に笑み浮かんだ。
そこでふと視線に気が付いて顔を上げると、いつの間にか部屋の入り口の所に、たった今起き出して来たらしい銀時が腹をぼりぼり掻きなが
ら柱に凭れて立っている。
銀時は寝起きのぼーっとした顔で桂の手元を見つめ、
「何、それ」
と尋ねた。
「これか?聞いて驚くな。何と今日は俺の誕生日らしくてな。坂本と高杉が贈り物をしてくれたのだ」
桂はふざけて両手で二つの品を掲げて見せた。
「誕生日・・・・?」
ぼんやり呟く銀時の頭はまだはっきり目覚めていない様だ。
「で、貴様は何をくれるんだ?」
桂は明るく笑って、冗談だ、と続け、
「さあ早く顔を洗って来い。もうすぐ飯だぞ」
と、機嫌良く銀時の傍を通り抜けようした。
「・・・・・お前今日誕生日なの」
「どうやらそうらしいぞ。俺も忘れてい、」
いきなり銀時の体が倒れ込んで来た様に見えて桂は驚いたが、すぐに自分は抱き締められたのだと分かった。
銀時は桂の背中に腕を回し、
「ん、おめでと」
と言って、頬にちゅっと唇をつけた。
「俺ん時は倍返しね」
そう言って背中向けてひらひらと手を振りながら、厠の方へと銀時は去って行った。
桂はこの日三度目に呆気にとられて銀時の背中を見送った。
今のが彼からの贈り物だと気付くのに暫く掛った。
銀時の体は寝起き特有に熱く、頬に触れた唇は少し湿っていた。
自分もそろそろ朝食の席に赴かなくては、と気付いた桂は、縁側から入り込む雨を含んだ風に急かされる様に、部屋を後にした。