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六月二十六日、櫛と手鏡という男には似つかわしくない贈り物をもらった桂だったが、その後予想外に役に立つ事になった。
髪を結う時櫛を使うと手で纏めるよりも手早く綺麗に仕上がったので、僅かではあるが時間の節約になった。
桂が櫛を使っているのを見る度、坂本は分かりやすく嬉しそうな顔をした。時折傍から取り上げて桂の髪を梳こうとしては何度も鬱陶しがら
れた。
手鏡の方は、顔の傷の手当をするのに使い始めたのが最初だが、その内戦闘や偵察中、振り返らずにそっと背後を窺ったり、
光を反射させて仲間への合図にしたりと、中々に便利な事を知った。
自分が贈った艶やかな小間物がそんな武骨な使われ方をするのを高杉は何度も目にした筈だが、それについて彼が何を考えたかは分からなかっ
た。
二つとも本来なら白粉香る女の懐に優雅に忍ばせておくべき品なのだろうが、残念ながら自分は男で、此処は戦場だった。
道具の方も後生大事に眠らせておくより存分に使った方が喜ぶのじゃないかと桂は色気無く考えるのだった。
空は日々青さを増し、草木の緑に木漏れ日眩しく蝉の鳴き声喧しくなった頃、暦を目にしてはっと気付けばもう高杉の誕生日、
八月十日は目の前だった。
自分の時に贈り物をもらっておいて、何もしない訳にはいかないだろう。だが幼馴染とは言えども、男同士の付き合いでは誕生日など特に重
要視して来なかったので、
はて何をどうすれば良いものやらと桂は途方に暮れてしまった。
幼い時、高杉の誕生日となると彼の母親が近所の子供たちを家に招いて御馳走や菓子を振る舞ってくれたものだったが、その当時も贈り物に
は幼いなりに悩んだ事をよく覚えている。
裕福な家の子だった高杉はすでに色々な物を持っていた。結局新しい帳面とか本、駄菓子などを贈って来た様に記憶しているが、
成長するにつれてそんな機会も少なくなった。
この自分の持ち金では高杉がくれた様な品はとても手が出ないだろうし、そもそもこの辺りには店など殆ど無かった。
悩みながら隊の仕事に忙殺され、八月十日は日に日に近付き、困った桂は前日になってやっと今回は取り敢えず握り飯を作る事に決めた。
勿論ただの塩結びではなく、ちょっとした豪華版の。
近くの市場で密かに具材を調達し、食事の支度の時に米を余分に炊いてこっそり取り分けておき、昼食後皆が昼寝などをしている時間を見計
らい素早く握って隠しておいた。
その日高杉は朝から武器調達の交渉に出て一日中留守をしていた。
夜、彼が数人の仲間と帰って来た時、他の仲間達は既に寝ているか遊郭に繰り出しているかで陣を置いていた屋敷は殆ど静まり返っており、
一人待っていた桂は、ようやく高杉が一人になった時、竹皮に包んで籠に詰めた数個の握り飯をそっと差し出した。
「高杉、今日は朝から御苦労だったな。これはたいしたものではないが、俺からの誕生日の贈り物だ。おめでとう」
幾分遠慮がちに差し出されたその籠に高杉はじっと目を注ぎ、
「誕生日・・・・ああそうか・・・・」
と今思い出した様に呟いてから、
「お前、これ、」
と続けたので、桂は急いで付け加えた。
「材料はちゃんと俺の金で調達した。米の方はまた後で補充しておくさ」
「そうじゃなくて、」
彼は言葉を続けなかった。怪訝に思いながら桂は立ち上がった。
「こんなもので本当に済まないが・・・・また今度、何か埋め合わせさせてくれ」
障子の方へ歩き出しもう一度振り向いた。
「早く食べてしまった方が良いぞ。誰かに見つかると面倒だからな」
する高杉はといきなり籠を抱えて立ち上がった。
「来い。一緒に食べようぜ」
ぞんざいに言って桂の手を引く様に早足に部屋を出て廊下を歩きだす。
「いや、それは貴様の為に握ったものだから・・・・・」
戸惑う桂に高杉は振り向きもぜず、
「いいから。こんなに食えねえし」
とだけ言った。
高杉は厨に寄って酒を一本、杯を二個調達し、濡れ縁から庭先に出て、いったいどこに行くのかと思いながら桂は相手について行ったが、
高杉は庭先に立て掛けられていた梯子から桂の先に立って屋敷の屋根に上って行った。
八月十日、その夜下弦の月は山の尾根の頂上にひっそりと輝いていた。蒸し暑さは残ってはいるものの涼しい風が屋根の上に優しく吹き渡
る。眼下には田んぼの畦道と林が広がり、
蛙の野太い鳴き声がげこげことあちこちから引っ切り無しに聞こえて来た。
二人は濡れた様に光る、昼間の熱を吸い取ったぬるい屋根瓦の上に腰を下ろした。
竹籠の中身を広げ杯に酒を注いで、夏の夜空の下、ひっそりと二人きりの小さな宴会が始まった。
高杉は少々不格好な握り飯の一つを掴んで齧り付いた。
「鮭か。なかなか気が利いてるじゃねえか」
「美味いか」
「ん・・・・美味い」
「そうか・・・良かった」
桂は杯に注がれた酒に口を付けつつ濃紺の夜空を見上げた。まだ八月の暑い盛りだったが、夜風は草木のそよぐ音と虫の鳴き声を乗せて秋の
気配を運んで来る。
「しかし間に合って良かった。貴様が帰って来る前に日付けが変わってしまうかと思ったぞ」
「ん・・・・」
高杉は唸る様な呟く様な声で返事をして、やおら籠をぐいと桂の方に押しやった。
「お前も食べろ」
桂は相手の強いとも取れる調子に押されて、遠慮がちに一つを手に取り口に入れた。梅干しの甘酸っぱい風味が口いっぱいに広がった。
「美味いか」
今度は高杉が尋ねた。
「うむ。我ながら上手く出来た」
もぐもぐと片頬を膨らませて答えると、高杉の口元に笑みが零れた。
笑顔だけは昔から変わらずに可愛らしい。元から彼はあまり笑わない子供だったが、最近はとみに難しい顔をしている。
これも戦場だから仕方が無いのだが、もし戦など起こらなかったら、参加などしなかったら、いや、先生があんな事にならなかったな
ら・・・・
彼はもっと年相応に笑っていられたのだろうか。
「・・・・ヅラ、お前握り飯作るの上手くなったな」
「・・・・そうか?」
桂はきょとんとし、その様子に高杉は苦笑いした。一体いつと比べての話なのか分からなかったし、そもそも人が作った握り飯の事なんて彼
が覚えている事が意外だった。
「一緒に食べる事になるならもっと握れば良かったな。銀時や坂本も一緒に、」
「冗談じゃない。今日は俺の誕生日だろうが」
言葉を遮る様にぴしゃりと言ってのけて、高杉は手の中の残りを頬張った。
高杉がこの不格好な握り飯を気に入ってくれた事はどうやら確かな様だった。
最近二人の間で間で戦に関する事以外、私的な会話をする機会が少なく、彼の方など殆ど目も合わそうとすらしなかったのだ。
幼馴染というほとんど兄弟みたいな人間がずっと傍にいる事が鬱陶しいのだろう、そういう年頃なのだ。
なのに彼がこちらを見る時はと言えば、何かに傷つきを我慢する子供の様な目で強く視線を絡ませて来た。
言葉に出来ない、しようともしないメッセージを幼馴染であるこの自分に読み取って欲しいと求めている様で、
桂は時として僅かに重荷に思う事があった。
それが出来るのはきっと母親か恋人だけだろうと思うのだが。
そして今も・・・・・桂はちらと高杉の顔を盗み見る。
暫くして高杉はぽつりと呟いた。
「あの手鏡、使ってんだな」
桂は杯から口を離して微笑んだ。
「ああ、充分役に立っているぞ。少々色気ない使い方だがな」
「・・・・今も持ってるのか」
そう聞くのでたまたま持ち歩いていたそれを懐から出して見せてやった。高杉はそれをひょいと取り上げ、手の中で確かめる様に裏と表を
じっと眺めた。
返す素振りをしたので桂は手を伸ばした。だが、それを素通りして高杉は、その艶やかな鏡を桂の着ていた浴衣の胸元にそっと優しく押し込
んだ。
やがて二人は黙って遠く八月十日の月を眺める。月の真下の幾重にも重なった山々の向こうには幕府軍が息を潜めている。
三日後の進軍で、恐らくぶつかり合って戦闘になるだろう。
彼らの中にも今夜の自分達と同じ様になけなしの握り飯など頬張り、酒を酌み交わしながら、戦の終わりを夢見て語り合っている者達がいる
のだろうか。
もしかしたら、二度と帰らぬ輝かしい日々を共に懐かしむ、きっと自分達の様な幼馴染同士が。
戦場で迎える誕生日、不格好な握り飯で腹を満たして、この日まで生き永らえた幸福を高杉は感じてくれているだろうか。
少なくとも自分は幸福だと、その時桂は強く感じていたのだが、それを彼に伝える機会はその後終ぞ持たなかった。