『望むな 祈るな 振り向くな』                      〜 真選組監察山崎退の恋  〜

(1)




 冴え渡る月の光、群青色の夜。


黒々と光る屋根瓦の道が闇を突っ切って、夜の果てまで続いている。

街灯の輝く下の往来とは違って、屋根の上は暗い。月の脆弱な輝きでは、往くべき道を照すには余りにも足りない。


江戸の町を十二時間の夜が覆い尽くす。

明け方にはまだ遠い。





 真選組監察 山崎退にとって、夜は大切な相棒だった。
闇に紛れ、息を潜める。 床下、屋根裏、屋根の上。暗く身を隠せる所なら、彼はどこでも出没した。
目と耳を最大限に活用して有益な情報を盗み取る。
時折携帯電話やトランシーバーで上の指示を仰ぐほかは、誰と話す事も無く、顔を合わせる事も殆んど無い。

一人で行い、一人で帰る。
闇と孤独を共にする。それが組織に於ける彼の役目。


 山崎は基本的に、組織と自分の任務には忠実な男だった。
目立たぬ容貌と地味な性格を持つ自分にとって、監察という仕事はおあつらえ向きだと思っている(時にその考えは自虐的なもの も含まれた)。
そして彼は若かった。それ故の旺盛な好奇心や体力仕事を厭わぬエネルギーが、組織に於ける彼を作っていた。

 しかしそれは結局の所、自分の恵まれた職場環境によるものが大きいと彼自身も知っていた。
むさ苦しい男だらけの職場で華やいだ話などこれっぽっちも無いが、仲間達は皆陽気で明るく、長たる近藤の豪快且つ思い遣りのある性格は、 そこに自分が身を置くだけの十分な理由になり得ていた。
まだ下っ端の身分故叱られる事ばかりだし、無体な命令ばかりでやたら暴力的な副長や気紛れで破壊力満点な一番隊長など気苦労も多いが、 山崎は彼らの実直な人柄が好きだった。
そして皆も、(さんざんこき使いながら)彼の真面目な仕事ぶりや地味ながらも温かな人柄に一目置いているのだった。

詰まる所、彼にとって真選組で働く事は誇りであり喜びに他ならないのであった。


 そんな山崎退の事である。

 任務を終え後は屯所に帰って寝るだけ、報告は明日のところに、偶然屋根の上に第一級指名手配犯桂小太郎の姿を見掛けたらどうだろう。

 無理も無い事であった。神が仕掛けた些細なトラップは、彼にとっては至極当然の成り行きだったのだ。


 目の良い彼はその人物の特徴を一瞬で余す所無く捉え、屯所や町中のポスターで見飽きる程見て来た顔と寸分違わぬ事を頭の中で 確かめると、躊躇する事なくその人物の尾行を開始した。


 長屋の物干し台から樋を伝って素早く自分も屋根の上に上がった。

 群青色の夜空の下に、黒光りする瓦の道が延々と続いている。それらが皆一様に地平線を向いている様は、まだ見ぬ夜明けを待っている様にも
見える。
 煙突や出窓の影に身を隠しながら尾行を続ける山崎は、今夜は月が明るい事に心の中で舌打ちした。

 目の前を行く相手は自分の姿が月光に晒されている事を物ともせずに、悠々と夜の空中散歩を楽しんでいる。
肝っ玉が座っているのか単なる無神経なのか。
それとも屋根の上なので気を遣う必要など無いと考えているのか。もしそうならそれは大きすぎる誤算だ。いつもいつもバズーカ 片手に真っ正面から突っ込んで来るのが真選組だと思うなよ。

今夜は彼の年貢の納め時になるかもしれない。そんな記念すべき事態に自分が関われたら、これほど嬉しい事は無いだろう。
 山崎はポケットから携帯電話を探って取り出した。幸い今夜は、副長や隊長など能力のある者達は屯所に詰めている筈だ。

──── 電話片手に尾行を続け、相手の進路と一緒に隊員を動かし地上で包囲網を作る。それに気付かず地面に降り立った所で「御用」。

 自分の考えたプランに心を高揚させつつボタンを押そうとしたその時、ふと相手が立ち止まった。
気付かれたか、と山崎は指を止め、煙突の陰で怯んだ。


息を殺して見つめる山崎は緊張していた。無理もない。相手はあの桂小太郎である。周囲は闇。吹きっ曝しの屋根の上。
味方は自分自身だけ。
もし気付かれたら、危いのは尾行していたこっちの方なのだ。

 相手が夜空を振り仰いだ。白い横顔が月の光に照される。彼は月を見ている。まるで明日の天気を占おうとでもする様に。
背を真直ぐに伸ばした立ち姿。群青の夜空を背景に、彼の全身が月光の中に浮いて見えた。

今まで遠目に桂の姿を見たことは何度かあった。軽々と猫の様に屋根から屋根へと飛び移って追手をかわし、いつの間にか 消えているのが彼だった。


が、今、初めてこんな間近で彼を見た。

山崎は目を見開いて彼の姿に釘付けになった。これほどまでに美しく、自然の均衡そのままに艶やかな様子があろうか。
まるで月の光がそのまま人の姿に現れた様ではないか。これが本当に、泣く子も黙る我ら真選組を翻弄するテロリストの頭なのだろうか。

 その時半ば呆然としていた山崎の耳に、静謐な調が流れ込んで来た。



「 ・・・・・・こんなに美しい月の下では、その月を眺め讃える事すら恥、と・・・・・・」




山崎の背にすうっと冷たいものが走った。


「・・・・・・なのに下界の茶番劇など、月読様が嘆き悲しまれるとは思わぬか・・・・・・?」


相手はそう言いながら、ゆっくりと顔をこちらに向けた。


 桂の眼差しをはっきりと捉える。見ている。見られている。
 絶体絶命とは正にこのこと。

 怖い、怖い、怖いのか?俺は怖いのか?

 死ぬ、殺される、俺は殺されるのか?


 山崎は一瞬の内に覚悟を決めた。

 そうっと腰から剣を抜く。ごくりと唾を飲み込むと、煙突の陰からゆっくりと出た。



「真選組か・・・・・・」

 姿を現した相手の制服姿を見て、桂は意外そうな声で呟いた。闇夜に紛れた刺客だとでも思ったのだろうか。
ついに桂と対峙した山崎は、落ち着け、落ち着けと心の中で絶えず自分に言い聞かせていた。
攘夷戦争をくぐり抜けたかつての英雄、攘夷志士の暁と、大江戸警察真選組の下っ端隊員。格の違いは改めて感じるまでもないが、 最初から飲み込まれて情けない姿を晒したくない。
抜き身の剣が月光に反射する。正面に敵、手の中に真剣。どっちも恐ろしい、恐ろしくて堪らない。どっちが相手を凌駕しても 自分は死ぬだろう。
ならば。

 山崎は両手で剣を構えた。


「よせ。それを仕舞え」


相手も剣を抜くのかと思いきや、意外な言葉だった。


「貴様はまだ若い。・・・・・・経験も余り無いと見える。そんな奴に危い真似はさせられない」

山崎はむっとした。


「俺は真選組ですよ・・・・・・子供扱いは間違ってます」

自分でも驚くほど、はっきりと自信に満ちた声が出た。

「ほう・・・・・・度胸はあるな。あの副長殿の教育の賜物か?」

桂は面白そうに目元を緩ませた。


 屋根の上を風が吹き抜けて行く。遮る物は何も無い。まるで荒野の真ん中に放り出された様だ。
数メートルの眼前で、桂の髪が、着物の裾が旗めいている。視界をチラチラ動くそれに余計な意識を持っていかれそうだ。
ふたりは風と月光に包まれながら互いの目を、体を見張っている。

 風の流れが変わった気がした。瓦に落ちる光の色が濃くなった様にも思った。

やられる前にやる。ここで生きて帰るにはそれが一番の策。
山崎はごくりと息を飲む。刀を振りかざし、踏み込んだ。

そしてあっと思った時には桂の剣が真正面からを自分の剣を受け止めていた。

ぐっと全身に負荷が掛り、すぐに剣は離れる。

「良い反射神経をしている。まるで忍の様だな」


おかしい。剣を抜く所なんて見ていない。相手から目を外らす事なんてしなかった。


「だが」

戸惑っている間に左横から切り込まれる。


「切り合いには向かぬ。姿を晒すの今宵限りにしておけ」


相手をかわすので精一杯で、相手に切り込む余裕など全く無い山崎とは対称的に、桂は落ち着いた口調でひょいひょいと剣を 操っている。
まるで自身が剣、じゃれつく猫の相手でもしてやっていると言わんばかりだ。
しかもここは狭い屋根の上。

かろうじて桂の剣を受け止めた時、屋根の落葉で足元が滑った。
と同時にふたつの刃先が縺れ合う。軌跡を乱された桂の剣の刃先が山崎の頬を掠め、細く赤い線を残した。

バランスを失った山崎の体が屋根の上に倒れ込む。タンッと瓦が鳴り、一歩踏み込んだ桂は剣で山崎の手から剣を弾き飛ばした。
もう一度瓦がタンッと鳴り、桂が後ろに下がった。くるくると勢い良く回転しながら落ちて来る山崎の剣を自分の剣の刀身で弾き返し、そのまま 力無く落下するそれを空いた手でぱしっと掴み取った。
何とも見事な手業。不覚にも見惚れてしまった山崎が、武器が相手の手に渡ってしまった事を理解したのはその一瞬後の事。

完全に起き上がる暇も無いまま間近に迫っていた桂の剣の切っ先が眼前に迫った。

鈍い振動と共に、脛動脈ギリギリの位置で剣が屋根に突き立てられた。

不様に引っくり返った山崎の体に桂の影が重なっている。冷たい頭の芯で死を覚悟する。


 片膝を立てて彼は自分を覗き込んでいる。憎らしいほど綺麗な顔立ち。嫌でも目に入る彼の涼やかな切れ長の目。
そこには対になった闇夜がある。彼の頭の真後ろから照す月の様に、ぽかりと無垢なまでの静けさを湛えている。
それでも、この澄みきった黒目がちな瞳で始末の段取りをあれこれ考えているのかと思うと、山崎は生きた心地がしなかった。

 しかし桂は意外な行動に出た。

片手に握ったままだった山崎の剣を、動けない山崎の腰に差し戻したのだ。

「・・・・・・済まない。顔に傷をつけてしまったな・・・・・・」

そう言いながら桂は手早く自分の懐から懐紙を取出し、山崎の頬にそっと押し当てた。

「悪いが今は手当ての術が無い。帰ったらちゃんとしておけ」

必ずだ。跡が残ってはいけない。
そんな念押しまでする相手に、山崎は驚き呆然とした。
桂は山崎の手を取り、頬の懐紙にそっと添えさせる。されるが儘の山崎は、その手の冷たさとしなやかさに、背中がぞくんと震えた。


 桂の体が離れ、涼しげな音をさせて剣が鞘に納められる。
始末されるのでは無かったのか。
そのまま背を向けて去ろうとする相手に、山崎はガバリと起き上がって叫んだ。


「ちょっと・・・・・・待って・・・・・・下さい!!」

呼び止めた所で何を言えばいいのか分からない。それでも叫ばずには居られなかった。


桂はちらりと振り返る。山崎をじっと見据えて尋ねた。


「・・・・・・若造、名は?」


自分も若い癖に、やけに年より染みた口調だ。相手の声に釣られる様に答える。


「や・・・山崎・・・・山崎退・・・・・・」


その名確かに聞取ったという様に、桂はもう一度しかと山崎を見る。

そして、

「・・・・・・副長殿によろしく・・・・・・」


その一言を残すと、彼の姿は大きく舞い上がり、月光の中に飛込んだ。長い髪が光の中波紋の様に広がる。

瞬きもせぬ内に、視界から彼のすべてが消え去る。


後に残ったのは静かな夜と冴え渡る月、そして魂の抜け殻の様な顔をした山崎がひとり。





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