(2)
頬に大きなガーゼと絆創膏を貼付けて屯所の中を歩くのは、どうにも居心地が悪い。
仕事柄、怪我など自分達には日常茶飯事だ。包帯やガーゼを付けた隊員など珍しくも無い。
それでも落ち着かないのは、やはり桂の事が絡んでいるからだ。
「あれ山崎ィ、ここんとこどうしたんでィ」
桂との事があった次の日の朝、食堂で山崎の頬のガーゼに目を止めた沖田に自分の頬を突っつきながら言われた山崎は、
「あ、えーと屋根で足を踏み外して・・・・・・」
と適当な嘘をついた。
ありがちな答えに却って怪しまれないかと内心焦ったが、沖田はフーンと言ったきり味噌汁を掻き込んで、それ以上追求しては来なかった。
あの夜の出来事は秘密にしている。もともと自分の任務外の事を勝手に行ってしまったのだし、傷まで負わされながら結局捕まえる事も
出来なかったのはやはり恥だ。
でも理由はそれだけじゃ無い。
──── 他の理由
あの桂小太郎を間近で見、言葉を交した事。刀を交えた事。
・・・・・・彼が山崎の怪我を労った事。・・・・・・その傷は他ならぬ桂自身が付けたものである事。
・・・・・・それ以上彼は何もせず、月光と闇の中に消えた事。
いつもここで山崎は溜め息を吐く。どう考えても決定的な理由に成り得るだけの条件は揃わない。
洗面所の鏡、磨かれた廊下のガラス窓。仕事に追われ忘れた頃に自分の顔が目に入る。
その度に頬のガーゼが目に痛い。
恐れ。恥辱。自尊心。罪悪感。そして、憧憬。
傷はそれらの物をすべていっしょくたにして心をちくちく刺激する。
ただ分かる事は、群青色の夜を背に月光を浴びた姿と髪を乱し宙に舞う様子、間近で自分を覗き込む、夜空の雫を湛えた
二つの瞳、それらがあれ以来、片時も自分の心から離れないということだった。
十日が経った。頬の傷はかなり癒え、ガーゼは外されて小さな絆創膏だけになった。
日が経つにつれ、あの夜の出来事は完全に忘れている時間が多くなった。こき使われ仕事に忙殺される日々の中では、
過ぎた事を、しかも二度と起こり得ないであろう出来事にそういつまでも思い悩んでいる暇は無いのだ。
元来山崎は楽天的な性格である。悩む事は多々あってもそれを後々まで引き摺らない。心身共に若く健康である証だった。
だから桂との事はひとつの思い出としてひっそり胸に仕舞う事にした。
いつか年を取ったら、若き日の武勇伝になり損ねた笑い話として、孫子に語って聞かせる時が来るに違い無い。
カリスマ的攘夷党首桂小太郎と、真選組下っ端隊員のひとりである自分との夜。普通なら起こり得なかったあの出来事は、山崎にとって
ほろ苦い思い出となったのだった。
ただ、あの時限りだったら良かったのだ。
その日山崎は非番だった。
休みとは言ってもデートの相手が居る訳でも無く、しかし屯所に居てもする事も無く暇である。退屈しのぎに山崎はぶらぶらと街へ出た。
平日の昼日中、雑踏の中の顔はどれも忙しそうな表情をしている。そんな中私服でのんびり歩く自分は、まるで若さと時間を
無為に消費している無気力な若者に見えるかもしれない。泣く子も黙る真選組なのだと言われても、俄かに信じる人は少ないだろう。
そう考えて、なんとなく愉快な気分になる。
映画でも観ようか、ゲームセンターにでも寄ってみようかと迷いながら歩いていると腹が鳴った。時計を見るとすでに正午を過ぎている。
とりあえず腹拵えかと、山崎は丁度目についた蕎麦屋に足を向けた。
緑に白抜きの暖簾をくぐろうとしたその時、店の中から出て来た男と鉢合わせしそうになった。
「すいませ・・・・・・あれ、旦那」
白髪で天然パーマの、よく見知った男だった。
「お?あれ、ジミー君じゃん!今日休み?」
「山崎です!」
理不尽な渾名にきっぱり言い返した山崎だったが、急に相手が慌てた様な表情に変わったのに気付いた。
「急いでるんですか?」
素直に考えて道を譲ろうとした。
「あ、いやあのね、うん、ここ入るの?あーやめときやめとき。ここすっげーマズいから激マズだから蕎麦なんかビロンビロンに伸びちゃってるから!」
そう言ってその白髪の男、銀時は暖簾の前に立ちはだかる。
「え、俺この間も入りましたけど、普通においしかったですよ?」
「・・・・・・あっそ。じゃーんーとそうそう店ん中にね、ヤクザが居るの!そいつが暴れるわ茶ぁぶっかけるわでもう大変なの!
今入っちゃったら命の保証は俺出来ねーなー」
「本当ですか?!大変だ。待って下さいすぐ屯所に連絡しますから!」
山崎は急いで携帯電話を取り出した。
「だーっっっ!!!今の無し!!嘘なの!ゴメン嘘だから連絡はヤメテーッッッ!!!」
相手はわたわたと山崎の手を押し止めた。山崎は訳が分からない。
「旦那、一体何なんです?」
「とにかくね、お前別の店にしろ。蕎麦屋なんて他にも一杯あるだろ?」
そう言って銀時はほらほらと山崎を店の前から追い立てようとする。どうも自分をこの店に入らせたくないらしい。
「でも旦那、」
「あーもう!!しつけーんだよコラ。無駄にしつけー奴ぁモテねーぞ!!」
相手は完全に開き直っている。さらに山崎が口を開けかけた時、暖簾の奥から涼やかな声が聞こえて来た。
「銀時、店先で何を騒いでいる」
あーッッ!!今はダメェェッッー!!!銀時がぎょっとした顔で叫んだ。
暖簾がはらりと捲れて、声の主が姿を現した。
山崎は現れた姿を見て声を失った。
──── 桂小太郎。
あちゃーと銀時が天を仰いだ。
桂は山崎を見て、おや、という顔をした。
山崎は呆然と立ち尽くす。
「銀時、彼は友達か?」
あの夜と同じ柔らかい声音が耳に流れ込んで来る。
「銀時、ボケーっとしてないでさっさと紹介せんか。貴様はそんな基本的な礼儀も知らんのか」
「エエェェェェー!!!紹介ったってお前・・・・・・」
銀時の言葉に被せる様にして口を開いた。
「山崎です──── 真選組の」
相手は笑みを向ける。
「 ──── 桂だ」
「ちょっと!お前ら何きちんと自己紹介し合っちゃってんのォォォ!!ヅラ!真選組と分かって名乗んなオメー!!」
「ヅラじゃない!桂だ!」
「桂さん」
ぎゃんぎゃん言い争うふたりに、山崎は呼び掛けた。
「桂さんは・・・・・・あの攘夷党首の桂小太郎ですよね」
「いかにも」
桂は小首を傾げる様な仕草でおっとりと答えた。 銀時が両手で顔を挟んできゃーと叫ぶ。
「旦那、大丈夫ですよ。俺今日非番ですから・・・・・・休みの日に仕事の続きなんてしたくありません」
「ほら山崎殿の言葉を聞いたか。若いのになかなか合理的な考え、やはり一人前の社会人はこうでなくてはイカン。貴様も少しは見習うがいい」
「え、それでいいのぉ?何かキレーに収まっちゃってるけど、本当にそれでいいのぉ?あ、でも何が間違ってるのか俺にも説明
出来ねーや」
小さな笑みを浮かべて自分を見ている桂の目を正面から見返す事が出来ない。会話の合間にちらちら盗む様にして見た彼の瞳は、
声と同じ様に柔らかい。夜そのままにきりりとした闇色だったそれは、真昼の太陽の元では優し気な明るさを湛えていた。
それに・・・・・・山崎はちらりと目の前の人を見る。
彼の髪がこんなに深い漆黒だったとは。夜に見た時はほとんど闇に馴染んでいた為に気付かなかった。 明るい日差しを受けて
所々虹色に輝き、真直ぐ流れて落ちる様はまるで真昼の滝の如くだ。
自分は知っている。彼がひとたび剣を抜けばそれはたちまち宙を舞い、見事な流線型を描く事を。現実に間近ではっきり見たのだから。
もう一度ちらりと桂にを遣った時、真直ぐに視線が合った。心臓が飛びはねた気がした。
頬の絆創膏は桂の目に入っている。
「さて、会ったばかりで残念だが俺はここで失礼させて頂く。本当は山崎殿に真選組の裏話でも色々聞かせてもらいたい所なのだが・・・・
じゃあ銀時、俺は行くから」
「おいおい馬鹿言っちゃイカンよヅラ君。バイト代多めに入ったからパフェ奢ってくれるっつってたじゃん」
──── ・・・・・・バイト・・・・・・?
「パフェはまた今度だ。いいか、こんな昼間の往来で我々三人が顔を突き合わせているのを誰が見ているか分からん。俺達はどうなっても
良いが、ここは山崎殿に迷惑が掛るのだぞ。ここはお尋ね者の立場であるこの俺がさっさと消えるのが得策だ。 ────ヘイ!タクシー!!!」
桂はさっと手を挙げて通りがかった駕篭屋を止める。
「ちょ、実際そんな風にタクシー止める奴いねーから!そんなのマンガの中だけだから!そもそも古りーから!!」
桂は意に介さず、止まった車にすたすたと近付いた。
乗り込む寸前で山崎を振り返り、涼やかな笑みを浮かべて見せる。
「山崎殿、ここの月見蕎麦は美味いぞ。一度食してみられよ」
「おい!!今日は俺達パフェだろぉ!クリームてんこ盛り、パフェ付きデートだろぉ!!」
「・・・・・・副長殿によろしく・・・・・・」
袖に縋る銀時を後ろ手に追い払い、最後にもう一度桂は穏やかに微笑んだ。
瞬く間に車は走り出す。
銀時は店先に止めてあったスクーターをががちゃがちゃと引っ張って跨りながら叫んだ。
「ジミー君ひどいっ!!俺の甘甘パフェぶち壊してくれちゃってェ!!」
そこのパフェ待ちやがれー!!叫びつつスクーターは桂の乗った車の後を追って発進して行った。
車が角を曲がって見えなくなり、後に続いてスクーターも消えてしまうのを見届けると、山崎はようやく暖簾を潜った。
「いらっしゃい、何にしましょう?」
茶を運んで来た店員に月見蕎麦を注文した。
─────── 夢か幻の様に形を失っていたものが、急に生々しい五感を伴って心に流れ込んで来た。