(11)
「・・・・貴様・・・・山崎ぃぃぃぃぃ!!!」
通り過ぎる列車の轟音、突風と共に夜空を切り裂く、獣の咆哮。
壁に爪を立て引っ掻きながら、土方の体は受け止めた桂の腕の中からずるずるとずり下がる。支えかねた桂も一緒に引き摺られ、
冷たい地面へと倒れ込んだ。
列車の軋みと警笛の悲鳴が、山崎の耳の奥へ奥へと遠ざかる。
音と共に足元の地面もが吹き消したマッチの煙の様になって細く細く、耳の奥、まだ遠くぐるぐると螺旋を描いて吸い込まれ、
やがて聞き覚えのある声となって逆流する。
「土方、しっかりしろ、土方!!」
その声は俺を呼ばない、呼んでもいない・・・・・
突然山崎ははっと意識を取り戻す。
泥と油の匂い漂う倉庫街、見上げた頭上には薄っぺらいばかりの、半分だけの月。
手が赤く濡れている。
「・・・・・!!!」
両手から短刀がカランッと落ちた。
いびつな形の血溜まりの中に横たわる刃。どす黒い赤と鈍い銀、ほとんど色の無い夜の景色の中でその二つの色だけが幽霊の
様に浮かび上がって山崎の脳裏にこびりつく。
「あ・・・・・あ・・・・・」
ふらついた足の下で、石つぶてがジャリッと大きな音を立てた。
「土方!!」
膝に倒れ込んだ土方の体に必死に呼び掛ける桂の姿。
「山崎、何をしている!早く助けを、救急車を・・・・・!!」
桂の言葉は明瞭に聞こえるのに、体はぶるぶると痙攣を繰り返して動かない。
それを見た桂は土方の体の下から懸命に立ち上がって、懐から手拭を引っ張り出しながら駆け寄って来た。
血に濡れた山崎の手を引っ掴み、それを手拭で包み込む様に急いで何度も拭いつつ、早口で桂は言い聞かせる。
「いいか、落ち着くんだ。大丈夫だ。携帯は持っているな?今すぐそれで救急車を呼べ。いいな、今すぐだ。俺が掛けると
却って貴様の立場を危うくするかもしれん。ここいらは浮浪者も多い。誰が見ているか分からん。さあ早く!」
山崎はされるが儘になって、忙しなく繰り返す桂の言葉をぼんやり聞いていた。
桂は素早く傍らに落ちた短刀を拾い上げ、山崎に背を向けると大きく振り被って線路の向こうの川へと放り投げた。
短刀は夜空にくるくると回転して弧を描き、視界から消えてすぐにごくごく小さくパシャンという音が聞こえた。
それが合図になったかの様に遠くから警笛がやって来る。さっきと同じ鉄塊のぶつかりあう音。段々と大きくなって来る。
今夜の貨物列車最終便だ。
桂は再び土方の元へと駆け戻ろうとした。
「・・・・・来るな!」
倒れ込んだ土方が叫んだ。思わず桂は立ち止まる。
「近付くな。お前は今すぐ此処から去れ。逃げろ!誰かに見られない内に・・・・・!!」
「貴様何を・・・・・」
桂は驚き躊躇っている。血溜まりの中、力を振り絞って土方は呆然と立ち竦む山崎にぐっと首を巡らせた。
「山崎、こいつを連れて行け!早く!それぐらい出来んだろ・・・・・!!!お前なら・・・・・!!!!」
白い光が斜めに差し込んで来る。分断されて小道に次々と伸びる影が三人の体の上をゆっくりとなぞって行く。
転がり迫る巨大な車輪、連続した落雷の様なブレーキ音、
押し寄せる音、音、音。
ざあっと旋風が小道に吹き込む。音と風に煽られ突き飛ばされる様に山崎は走り出した。
立ち尽くす桂の体を攫い抱き上げた。抱いて巻き上がる風の中を線路に向けて疾走する。
列車がスピードを落としカーブを切って今まさに通り過ぎようとしているその瞬間、山崎は半ば線路に飛び込む様にして、
列車の最後尾の連結部分に桂の体を乗せて押し込んだ。
山崎は囁いた。
「愛しています」
息を飲み茫然とした桂の顔がスローモーションになって山崎の前を後ずさる。
すぐに列車はスピードを上げ始め、車体にしがみつく様にしてこちらを覗く桂の姿が山崎の目に徐々に小さくなる。
やがてすぐにカーブの影に姿は見えなくなり、列車は再度むせび泣くような警笛を夜空に放って、残響だけを耳奥に残して
消えて行った。
愛しています。
がらんとした線路の向こうへ山崎はもう一度呟いた。
線路に背を向け、土方の元へ駆け寄る。
「・・・・・なかなか・・・・・やるじゃねえか・・・・・」
汗に濡れ息を切らしながら、土方は苦し気にニヤッと笑った。
「何でも着物の袖が刃を邪魔したのと、山崎の咄嗟のガードで致命傷は免れたとかで。でも山崎から電話があった時は、そりゃ
もう一瞬で屯所の中は蜂の巣突いた様な大騒ぎでさ」
明かりのついた病室の開いたドアから沖田の声が漏れ聞こえる。
「近藤さんなんかトシがやられた、死んじまった〜〜!って鼻水垂らしてパニックになっちまって、もうそのまま
すっ飛んで行きそうな勢いで。あんたは此処にいなきゃいけないって何度も宥めて、肝心の土方さんよりもこっちの方が修羅場っ
てなもんでさ。まあとにかく土方さん、あんた何とも悪運の強い男ですよ」
病室のすぐ外の暗い廊下、長椅子で山崎はただ一人俯いて座っている。
『副長が攘夷浪士にやられた』
『その攘夷浪士、偶然山崎が跡をつけて追っていた最中だったらしくて、気付いた山崎が咄嗟に飛び出してガードした。
でなきゃ完全にとどめを刺されてた』
携帯電話の向こう、賑わう病院の廊下、明かりのついた病室、引っ切り無しに繰り返される隊士達の衝撃と好奇心に満ちた
会話の数々が、山崎の頭の中で混線している。
『でも何だって副長はあんな辺鄙な場所歩いてたんだ』
『おいおい、考えるだけ野暮ってもんよ』
ぞろぞろと隊士達が病室から出て来た。
「お、ザキぃ、御苦労だったな。お手柄じゃん。最近のお前の八面六臂の大活躍で局長も鼻が高いってよ」
隊士の一人が山崎の肩をパンッと叩いた。
「・・・・・ザキ、土方さんがお前の口から詳しい話が聞きたいってよ」
沖田が親指をくいと病室の中に向けた。
「今夜のヒーローはお前だからな。滅多に無い機会、せいぜい恩を売っておけよ」
隊士達は山崎の肩や背中を次々と叩き、機嫌良く笑いながら廊下の向こうへと歩いて行った。
「あんま興奮させんじゃねえぞ」
最後沖田は振り返って言い残した。
山崎はのっそりと立ち上がって病室のドアへと歩み寄った。
そこから漏れる光を押しのける様にして入口を潜る。
途端に目に飛び込むベッドの上に半身を起した土方の姿。血飛沫の散った服の姿の儘で、山崎は土方の前に立つ。
「閉めろ」
青白い顔で幾分しゃがれた声が土方の口から洩れた。山崎は震える手でドアを閉めた。
山崎はガクンと勢いよく床に膝をついた。
「すみません・・・・・!!!!副長!!!俺、こんな・・・・・!!!俺は・・・・・!!」
山崎は堰を切った様に涙声で叫び繰り返す。
「・・・・・!!!俺は、何をぉぉぉ!!俺はぁぁぁぁぁ・・・・・!!!!」
土方は鬱陶しそうに顔を顰めた。
「・・・・うるせえよ。誰かに聞かれたらどうすんだ」
ぴたりと号泣が止まる。山崎は真っ赤に泣き腫らした無残な顔を晒し、飲み込んではせり上がる嗚咽をえぐえぐと繰り返した。
しばらく山崎の嗚咽と鼻啜りだけが病室に響いた。
「山崎よ」
「・・・・・は゛い゛・・・・・」
「お前あいつと寝たのか」
「へ・・・・・寝っ・・・・・?えええ!!」
予想外の質問に、山崎は嗚咽も忘れて素っ頓狂な声を出した。
土方はうんざりと投げ遣りに笑った。
「いや、いい」
そしておどおどと動揺する山崎に向かって、素っ気なく追い払う様に手を振った。
「もう、行け」
山崎はぽかんとした。
「え、あの・・・・・」
「分かんねえか。帰っていいってんだよ」
山崎はずるずると立ち上がった。真下の床を見つめ、醒めた土方の視線を感じ、山崎は低く呻く声を漏らした。
「・・・・なぜ俺に刺されたって言わないんですか。あなたは俺を告発して粛清出来る。俺が真選組を裏切る様な事をして、
それをあなたに追求されたからとか、何でも理由は作れるじゃないですか。なぜわざわざ俺を庇う様な真似をするんですか」
「アホか。お前は真選組を潰してえのか。世の中にゃあ余計な鼻が効く奴が大勢いんだよ」
「じゃあせめて責めるくらいは出来る筈だ・・・・・っ」
「責めてどうなるよ。お前が自責の念に駆られて自分で腹を切るのを待つってのか。はっ、お前がそんなタマかよ。あいつの為に、
お前は図太くゴキブリみたいにここまで這い上がって来たんだろうがよ」
土方は座り直そうとして痛ッと呻き、忌々しそうに舌打ちした。
「俺達はただの似た者同士、藁をも掴めずに溺れ続ける馬鹿者同士だ。今夜見事に互いにそれを証明して見せたってだけの
事じゃねえか。・・・・水取ってくれ」
山崎はベッドの傍のテーブルまで進み出て、水差しからコップに水を注ぎ土方に手渡した。
土方は受け取った水を一口含んで、ふうっと息を吐いた。
「副長・・・・・」
「何だ」
「あの人が言うには、俺達は直ぐに答えを求めようとし過ぎるそうです・・・・・」
コップを持った儘土方は斜めにじろっとこちらを見上げた。
「・・・・・ああ、それは俺達に対するあいつの十八番だ。事ある毎に言われたよ。お前はいつも目の前の事しか
見ていないってな。ああ、それが何だって言うんだ。俺達はいつも今を生きてんじゃねえかよ。今を必死で生きて何が
悪いってんだ。自分こそいつも明日やら未来ばかりを見ているから、こうして現実に大馬鹿二人に囲まれちまって焦っているん
だろうが。・・・・・ま、単なる恨み言に過ぎんがな」
言いながら土方は水を飲み干し、空のコップを山崎に押し付けた。
「まあどっちにしろ、さぞやあいつは呆れたろうよ。事もあろうに真選組から次々と馬鹿な男が目の前にやって来るんだからな。
あいつに真選組丸々潰されるのも、もしかしたら時間の問題かもしれんな。いや、案外これがあいつの目的かもな」
傷口をかばいつつ引き攣った顔で、土方はさも愉快そうに肩を揺すって笑った。
「・・・・・ちょっと喋り過ぎたな。そろそろ休ませてくれよ」
さすがに疲れた顔をしていた。土方はごそごそと寝床に潜り込もうとし、再び痛ッと呻いた。
山崎はコトンと空のコップをテーブルに置いた。土方の枕を直し、皺の寄った布団を引っ張って整える。
既に土方は気だるそうに目を閉じていた。
「副長・・・・・」
「何だよ」
土方は目を閉じたまま眉間に皺を寄せた。
「・・・・・俺がまたあなたを刺したらどうするんですか」
「ああ何度でも刺しゃいい。ただお前の中の地獄が続くだけだ。あいつが本当にお前の物になるまで、繰り返し何度も、
永遠にな」
一歩、二歩と後ずさり、山崎はドアのノブに手を掛け、ゆっくりと外に出て行った。
廊下ではしんとした闇に近くの自販機の低いモーター音が低く沈んでいる。息を潜める様にして緑に光る非常口のサインの方へ
歩き出そうとした時、壁に立って凭れかかる沖田の姿が目に飛び込んで来た。
「た、隊長・・・・・」
沖田は山崎の方をじろっと見て、ポケットから何かを取り出すと、ぽいと放って寄越した。
手の中に飛び込んで来た物を見て山崎の背中はすっと冷たくなる。ビニール袋に入った黒く細長い物体、紛れも無いあの短刀
の鞘だった。
「お前これに見覚えは」
「い、いえ・・・・・」
歯がガチガチと鳴りそうだった。沖田は淡々と話し出した。
「現場の近くに落ちていた物で、今回の事件に関係ありそうな物は二つ。一つはまだ新しい煙草の吸殻、これは土方さんの物だろう。
銘柄が同じだ。もう一つはこれだ。多分凶器の鞘なんだろうな。傷口の幅とおおよそ一致する。肝心の刃の方は見つからず
仕舞いだが、さて・・・・犯人が持ち去ったか、はたまた川に投げ込まれたか・・・・・」
沖田は探る様な視線を山崎の顔に、そしてその服に着いた血飛沫の上にさっと走らせた。
「・・・・・お前、何か覚えちゃいねえか」
「いえ・・・・・何も」
下手に反応してはいけない。山崎は平静を貫こうとした。
沖田はふうと息を吐き、背を向けながら顎でくいと指し示した。
「それ、まだ鑑識には回しちゃいねえ。何か思い出したら報告しろ」
そう言い残し、ポケットに両手を突っ込むと、ぶらぶらと沖田は歩いて行った。
山崎はしばらくぼんやりと立ち尽くしていた。やがて廃墟の様に無人の廊下をふらふらと歩き出す。
外に出るまで病院の中を何周も彷徨った気がした。行けども行けどもそこには闇があるばかりだった。
ようやく辿り着いた外の世界、頭の上には真っ暗な空と白っぽい月。
数時間前と何も変わらない夜。
山崎は手の中の鞘をじっと眺め、それを両手で顔を覆う様にして押し当てた。
「・・・・・桂さん・・・・・!」
押し殺し叫んだ声は指の間から零れ落ち、一つずつばらばらになって、終わらない夜の風に散った。