(10)−後編




「 ────探した」


ネオンと喧騒の中、 編笠を目深に被った彼の姿を目の前にして、土方は口を開いた。


「情報屋とか、色々使った」

「・・・・情報屋・・・・ああ袖の下か」

「嫌な言い方だな。まあそんな所だが」

「それで此処で張っていたと」

こくこくと土方は頷いた。


「何度も?」

更に頷いた。

「何度も」

「・・・・・何日も?」

「何日も」


桂は力の無い声で笑った。はは、そりゃまた・・・・。

 けたたましい音楽が近付いて来て、一台の派手な車が耳を劈くタイヤ音と共に傍の道を暴走して行った。
 風で二人の髪が大きく靡き、桂は道路にちらりと目を遣りながら編笠を手で押さえた。

 地鳴り様な重低音にしばらく会話を持って行かれた。


「行こう」 

土方は言って、歩き出そうとした。

「何処へ」

土方は答えなかった。

「・・・何処へ?」

桂は抗議の色を示した。
相手は黙ってただ桂の体を誘う様に促す。

「土方、」

 土方は勢い良く振り返った。厳しい表情で、怒鳴りそうな様子を一瞬見せてから、すぐに飲み込んで静かに言った。


「・・・・何処かへ、だ」










 愛し合う、あいしあう。

幸福の暗い海の中を漂い続ける。

振り回され、いなされ、悩まされ、彼の言葉一つ、眼差し一つで、心は簡単に浮き沈みを繰り返す。

繰り返す内に、土方の中からあらゆるものが剥がれ落ち、流れ去って行く。

 結果、彼の前では土方はただの一人の男、地位、立場、あんなに拘った物全て関係の無いただ彼を愛する一人の男に過ぎなくなった。
 そう気付いた時土方は愕然としたが、既に裸に剥かれてしまっては如何とも仕様が無く、悩もうとすれば立ち止まらなければならず、 そんな事はもう不可能で、可愛げの無い口調や、憎らしい程落ち付いた表情にいつも小さな痛みを覚えど、胸の中であの言葉、 『俺を愛する(あいする)のか』を繰り返しては、こんな不自然で不可解な一言に縋らなければならない事実を嘆きつつ、 その都度一人でうんうんと頷いて、自ら進んで更に恋の刃の餌食となる。


 薄氷一枚の恋の道を土方はひた走る。

 今やその薄氷は自分達の立場や状況などでは無く、彼自身の想い一つなのだと土方は思い知る。
 いつかその薄氷を突き破って、彼の瞳に、心に、そのままこの自分のすべてを閉じ込めてしまいたい。頑なな唇に、離れたくない お前しかいないと言わせたい。
 突き破ろうとしてより土方は必死になった。必死に土方は生きていた。








 ネオンの光と雑踏の中を山崎はひた走った。呼び込みの声や派手な車の爆音、店先から垂れ流しされる軽薄な音楽、あらゆる音 がラジオのチャンネルを次々と変えて行くように耳を流れて行った。
 
 彼らはまだそう遠くへは行っていない。焦る心をなんとか宥めながら、人を押しのけ、信号を無視し、鋭い視線で周囲をつぶさ に観察した。
 だが見つけてどうする。彼らを責める事なんて出来ない。・・・・でも、。

 山崎は書きかけだった六通目の手紙の事を思い出していた。彼から思いがけず返事が来た為に、出される事の無かった手紙。
 事が土方に露見して、元々蜘蛛の糸程の細さだった彼との繋がりがこれでいよいよ断ち切られてしまうと、何としてもそれだけ はと、藁をも掴む気持ちで書き続けた。それまでの感情的で拙い言葉を並べていた五つの手紙とは違い、その六通目は丁寧に理路 整然と、今までの出来事の一つ一つに答えを出して行く様に、自分の気持ちを心の奥底を余す所無く伝えていた。この手紙こそ 彼に届けたい。
重なった偶然に今夜がその日だと感じる。今にも割れて砕け散りそうな薄い半月の下、因縁の三人が寄せ集められる。
 文の末尾を今夜ようやく書き込める。いや、書き込まなくてはならない。
 きっと最後の手紙。
 今夜あなたに、本当に届けたかった言葉を。







 季節が何度か入れ替わった。いつの頃からか少しずつ、逢瀬が間遠になっていた。
 彼は江戸からしょっちゅう姿を消してしまう。と思っていると、万事屋の男と一緒に茶店になど居るのを目撃したりする。
万事屋の玄関を彼が入って行くのを見掛けた事もあるし、二人でスーパーの袋をぶら下げて歩いているのをパトカーの窓越しに 見つけた事もある。

 かつての盟友同士と云う。だから彼の周囲にあの男がしょっちゅう見え隠れする訳を土方は漠然と理解はしていた。
 春雨事件や鬼兵隊との抗争など、印象的な事件の背後には、よく彼らが共にいた。
 過去の事に関して気にしたり拘ったりする気は毛頭無い。そんな事はお互い様だったし、何より無粋な男だと思われたく無かっ た。
 元々生きる場所や歩いて行く道が違うのだから、悩むのは始めから意味の無い事だった。

 だがそんな体験は、既に真裸にされていた土方の心を少しずつ汚していった。

 彼と会えない日々は重なった。
 俺はあいつの想いを間違って捉えてしまったのか。
 あの例の言葉の不自然な言い回しの中に、躊躇いや罪の意識が透けて見えなかったとは言わない。だが彼は土方を選んだ。 遊びのつもりなのだったら、土方の心中に気付いた時点で直ぐに逃げ出す事だって出来た筈なのだ。
 一度それと無くあの言葉の真意を探ろうとしてみた時、彼はきょとんとした顔を見せ、ああ、やはり覚えてはいなかったか、 と落胆と共に納得した土方だったが、すぐに彼は真顔になって、あれは自分で自分に問うたのだと言った。更に、昔を思い出すから、と言い、 続けて、迷いたくないから、と呟いた。俺には迷う暇なんてありはしなかったよ。土方が言うと、彼は、そうか、 と言って柔らかな微笑を浮かべた。
貴様のそんな所が好きだ、とも言った。








 すぐに山崎は繁華街の外れにさしかかった。既に閉店した店舗が立ち並び、急に辺りが暗く寂しくなった。
 家路を急ぐ車が時折思いついた様に通り掛るだけの寂れた場所。
 鋭敏な警戒心を持ちながら、山崎は少し歩調を緩めた。急に音も色も少なくなった世界で、抑えきれない早い呼吸がうるさく体 に纏わりつき、汗がじわりと肌を湿らせては、饐えた匂いの風が乾かしていった。
 そこは古い倉庫や空き店舗などがごちゃごちゃと並んだ裏通り、保守用車両や貨物列車用の線路が建物ぎりぎりに走る倉庫街だった。
緩くカーブした線路の直ぐ下は濁った河で、そのせいか付近は余計暗く、寒々として、錆と黴臭い匂いが充満したそこは夜は勿論 、昼間もあまり近付きたくない場所だった。

 遠くからガタガタと重い鉄を引き摺った様な車輪の音と尖がったブレーキ音が聞こえて来る。先の脇道から明るい光の帯が暗が りをぐうっと抉る様に伸びて通りの端を途切れ途切れに照らし始めた。
錆ついた不協和音が耳の奥をきんと打った。線路がちょうどカーブの真ん中の地点で、列車がいつもここ辺りでスピードを かなり落とす為に、毎夜こんなけたたましい悲鳴を夜空に響かせるのだ。


 その時山崎は見た。

 列車の音に釣られ、ふと目に入った線路際の脇道、白いライトに舐める様に照らされ浮かび上がった、着流しの袖、長い髪、

壁際に重なる二つのシルエットを。









 二人は無言で歩いていた。喧騒は耳に届かず、眩いネオンも二人の顔の無表情をちかちかと照らすだけだった。
 沈黙を少しでも埋めたくて、土方は歩きながら新しい煙草に火を点けた。


「桂・・・・」

煙を吐き出しながら土方は呟いた。

「何だ」

こんな時でもちゃんと返事だけはしてくれるのだ。いっそ潔い程の無視なら、悩む事も無かっただろうに。

「やっぱり、いい」

桂は編笠の下からちらりと土方を見た。

「お前の顔を見たら、忘れちまったよ」

土方は肺の底から一杯に煙を吐き出した。

「・・・・もっと責められるかと思った」

 分かってんじゃねえか。独り言様な桂の言葉に土方は小さくかちんとなった。
 それでもぐっと飲み込んで、冷静を貫いた。


「もう、いい。全部、全て、もういいんだよ」

「、だったら、何で、」

「お前に会いたい、会いたかった。それだけだ」



 歩く内に明かりや人影がまばらになった。河の微かな水音が聞こえる。  喧騒が無くなっていた。濁った水と鉄錆の混じった淀んだ匂いが風に乗って運ばれ、町外れの倉庫街まで来ていた事に土方は ようやく気付いた。

 煙草を唇から放し、土方は口を切った。

「なあ・・・覚えているか。前に話してた、あの深見山の麓の茶店の汁粉、」

「・・・ああ、神宮寺の傍の、美味だが一杯千円以上もするとか言ってた・・・」

「そう、それだ。で、花見がてら一度食いに行ってみようかとか言ってただろ」

 そんな事もあったな、という声が聞こえてきそうだった。
 どんな豪華な汁粉なのかと、寺への花菖蒲詣でついでに、ぼったくられに行ってみるかと嘗て話していた事があった。

 ヘッドライトが近付いて来て、信号待ちを終えた車が何台か続けて通った。
 土方は車の音が小さくなるのを待った。

「だから、・・・花の季節は終わっちまったけど、折角だし、今度一緒に行ってみねえかと思ってな」


「土方・・・俺は行けない。分かっているだろう」

 土方は煙草を吸い終わり、吸い殻を側溝にぽいと放り込んだ。
と、いきなり桂の体を引っ攫い、風の様に線路脇の小道に滑り込んだ。

 編笠が背中に滑り落ちた。体を壁に押し付けられ、桂は息を飲んで土方を見つめた。暗がりの中で、周囲の少ない光がすべて土方の瞳に集 まって、静かな熱に揺らいでいる様に見えた。


「俺はどうしたらいい。泣いて見せたらいいのか、党首さんよ」

 土方は半ば挑発する様な鋭い笑みを浮かべて桂を睨んだ。

 桂は流されずに落ち着いた声で答える。

「泣いて解決すると云うなら、俺も幾らだって泣くさ。だが結局、貴様も俺も、泣く前にやらなくてはならない事があるのだ。 そう、土方、」

桂はふっと一瞬視線を落とし、すぐに真っ直ぐな瞳を土方に向けた。


「俺はもう、迷いたくはないのだ」


 土方の目がすっと冷えた。
 二人は見つめ合い、睨み合った。
 睨みながら土方の手がゆらりと動き、素早く細い首元を掴み締め上げた。息苦しさに桂の目の光が一瞬揺らいだ。と、直ぐに その手は離れ、髪へと移った。
 土方の目の中に今度は青い種火が燻っていた。手は確かめる様にゆっくりと髪を滑り、頬に触れた。
桂の体が小さく揺れたが、抵抗せずに耐えた。まるで、これが最後だからと言い聞かせる様に。

 土方の動きが段々と熱を帯びた。もう一方の手が冷たい着物の上から肩を撫で、腕を滑って腰を抱いた。
唇で髪に口づけられ、桂はさり気なく顔を背けた。土方は微かな息を零し、髪を鼻先で探る様にして、熱い唇で今度は 耳に触れた。

「・・・、土方、もう・・・」

 さすがに焦って桂は身を捩った。土方は答えず、細い手首を壁に押し付けて、小さく呻きながら白い首筋に顔を埋め、 怯んだ隙に熱い手を桂の単衣の裾の中へ割り入れた。
 滑らかな腿をゆっくりと、また煽る様に撫で上げられて、体も声も震えた。

「駄目だ、もう、駄目だ」

桂は首を振り、相手の体を何とか押し返そうと必死になった。


 向こうから重い鉄の唸り声が響いて来た。錆びつき軋んだ車輪の回転音、迫るライトが桂の目を打った。眩しい。 周囲の陰影がより濃くなり、目の前の土方の顔も翳った。
 大きな手が髪ごと顔を捉えた。唇に熱を感じる。ブレーキ音の悲鳴が夜空を引き裂く。目の前が真っ白になる。

 眩しい、眩しい。


 突然、何かが体にぶつかる様な鈍い衝撃を感じた。
 土方の喉元から掠れた音が漏れた。
 手が肉を掴む様に桂の肩にぐぐっと食い込む。
 抱いていた腕がずるりと滑り、体が前に揺らいで桂の全身に重みが掛る。
 曲がった土方の指が桂の顔の真横の壁に爪を立て、繰り返し引っ掻いた。

 ぬるい風が小道に一気に吹き込み、鉄塊の轟音が傍を駆け抜けて行く。

 逆巻く砂埃の中で、獣の様にかっと目を見開き、汗の噴き出た首をゆっくりと巡らせ、土方は臓腑を絞るが如き咆哮を上げた。


「・・・・貴・・・・様・・・・・・・・山崎ぃぃぃぃぃ!!!」



 青ざめた顔、異様にぎらつく二つの目、ぶるぶる震える血まみれの両手に、血まみれの短刀をしかと握り締め、血飛沫を 浴びて茫然と立ち尽くす山崎が、そこに居た。






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