(13)



 薄青い風に乗り、突如舞い降りた紗の衣を目の前にして、山崎は半分腰を抜かしていた。

 少し離れた所にいた二人がぎゃっと声を上げて飛び上がり、転ぶようにして逃げて行った。
 桂はそれをちらと見送ってちんと刀を腰の鞘に納めると、直ぐに山崎の方を向いて急き立てた。

「さあ、立て、早く」

 山崎は混乱した頭で立ち上がった。桂は山崎の袖を引く様にして先に立って駆け始めた。

 黒い髪と青い着物の裾が闇を擦る様にひたすら揺れて背後の山崎を導く。静まらない動悸を抱えて、山崎はただ桂の後をついて 駆け抜ける。
 ついと桂は角を曲がり、まるで最初から決めていたかの様に入り組んだ暗い小道を速いスピードですいすいと走り抜け、 狭く長い石段を上り、突き出た民家の屋根に飛び移った。

 しばらく屋根の上を走ってから、入母屋の部分に行き当たった所で、桂はようやく足を止めた。
 山崎も荒い息を宥めながら桂に習って破風の陰に身を潜め、二人は揃って夜の灯りが輝く江戸の街を見降ろした。


「見ろ、輩どもが騒いでいる」

 悲鳴とも笑い声ともつかぬ雄叫びが闇に劈いた。ばたばたと駆ける幾つもの足音、ゴミ箱や看板が転がり倒れるらしき音が 幾つも下から夜空へと響き渡った。

「これは・・・・」

「末端の浪士どもが今夜よからぬ事をたくらんでいると、たまたま耳にしたのだ。もしかしたら真選組副長が入院したと情報が 漏れたのではないかと思ってな。病院の方へ様子を見に行ってみたらば、案の定だ。恐らく見舞いに出入りするかもしれない 幕府関係者を狙おうと張っていたのだろう、そこへ貴様が出て来た。貴様は尾行(つ)けられていたのだ」

桂は眼下を見据えながら風で顔に纏わりつく髪をざっと後ろに払った。

「尾行けられて・・・・」

 何処かから救急車のサイレンが響き始める。段々と騒ぎが大きくなって来る。叫び声も足音もさっきより明らかに多い。 静かな夜の空気があちこちで破れて行く。
 
 山崎は想像もしなかった事態に息を飲み込む。
 夜風が地上の喧騒、ほとんど気配だけの不気味な喧騒を攫って屋根の上の二人の所へ次々と運んで来る。まるで長い夜の始まりを引っ切り無 しに告げる様でもあった。

「貴様を襲ったのは攘夷の名を騙った単なるチンピラの類だ。本来ならそうたいした事にはならぬ筈なのだが、どうやら計画を 嗅ぎつけた他の過激グループも騒ぎに便乗し始めたらしい。どうも騒がしい夜に」

桂が途中で言葉を切る。直ぐ下の道を幾人かの男達が抜き身の刀を手にしてばたばたと走り抜け、続いて後から同じ様な集団が 怒号と共に駆けていくのを、二人は息を潜めて見守った。

「騒がしい夜になりそうだな。さっき二人程取り逃がしたが、かえって好都合だった。桂小太郎が現れたとすぐに情報は回る だろう。これで輩の注意をしばらくは惹き付けられる。その間貴様は一人では動かず、仲間と合流出来るまではどこかに身を隠せ。 その隊服は意外と目立つからな」

「それは・・・・あなたを囮にしろと・・・・?」

桂はふっと小さく笑った。

「そんな大袈裟なものでは無い。機会を逃すなというだけの事だが・・・・そうだな、では、俺なりの多少の罪滅ぼしだと思って くれ。割に合わぬのかもしれんがな」


 山崎は呆気に取られた。罪?罪とは何だろう。罪滅ぼしとは?

 俺は何を言えば良いのだろう。こんなに優しく澄んで、穏やかな彼の瞳に向かって何を語れると言うのだろう。そんな眼差しで 罪なんて言葉を口にする。今日の様な醜く汚い喧騒の夜に、彼の唇から。


「桂さん・・・・・!」

山崎は桂の体に縋りついた。

 「俺は・・・・あなたの為なら誰かを裏切っても殺してもそれは仕方の無い事なんです・・・・・俺を怖いと思いますか。 間違っていると思いますか。でも、それはあなたを愛してしまったからなんです・・・・俺を怖いと、化け物だと思うなら、 今ここであなたの手で殺して下さい・・・・・!!俺をただの敵の一人、あなたが憎む卑しい幕府の狗として、殺して下さ い・・・・・!!!」


 嗚咽と咆哮が混じった掠れた叫びが、ほとんど脈絡の無い叫びが、桂の胸元で迸った。

 少しして桂はそっと手で山崎の髪と肩に触れ、静かに呟いた。


 「──── 可哀想に」



 ──── 可哀想に ──── 






 どこかで花火が破裂する様な音がした。赤い炎がぱっと周囲を連続的に照らして散った。
 その内の一つが二人の居るすぐ真下で弾け、赤い光が屋根の上の二人をさっと照らした。

「あそこだ、桂だ!!」

「桂が居たぞ!!!!」

 次々と叫び声が上がり、ざわめきが一気に眼下へ押し寄せた。
 桂はちっと舌打ちした。

「さあ、ひとまず此処を離れるぞ」

 落ち着いて一言、桂はさっと屋根の反対側へと身を滑らせ、次の屋根へと大きくジャンプした。山崎も必死に後に続いた。
 赤い光の正体は爆竹に似た火薬玉の一種だ。背後から屋根越しにどんどんと投げつけられ、それが背後や頭上でパンパンッと弾ける度に、 赤い光がカメラのフラッシュの様に二人の姿を夜空に浮かび上がらせた。
 二人は破風や看板に身を隠しつつ、屋根に乗り移って逃走した。火薬玉を避けながら、更に道を挟んだ距離の跳躍は至難の業だ。 左右からも敵が詰めて来ていたので、その方向にしか逃げ道は無かった。

 投げつけられた火薬玉の幾つかは破裂せずに地面に落ちた。
 その内の一つが眼下の電柱の下に置かれていた古新聞の束の上に落下して割れ、ぱっと炎が上がった。
 突如上がった炎に一瞬山崎は気を取られた。火薬玉が頭を直撃しそうになって、素早く身を低くし転がって間一髪でそれをかわした。
 その時に山崎の懐から次々と零れ落ちた物があった。
 携帯電話と隠し持っていた鞘だと気付いた時にはもう遅く、屋根の傾斜をするすると滑り、山崎の目の前で、 あっという間に真下の炎へと落下し飲み込まれて行った。

 ざっと炎が高く上がり、見降ろす山崎の顔を赤く照らした。

 「何をしている、山崎、早く!」

 桂が振り返って叫んだ。

 炎の周りで叫びわめく集団、ぱちぱちと弾ける火花。
 熱い風が山崎の髪を揺らした。

 桂がもう一度何か叫んだ気がしたが、耳に入らない。

 山崎は桂の方へと急に足を向け、彼の手を引っ掴んだ。



 屋根の上、白い手をしかと握り締めて、山崎は端の欠けた月が輝く方向へと全力で駆け出して行った。






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