(14)
欠けた月の光が照らす黒い屋根瓦の一本道を山崎は桂の手を取り走った。
待て、何処へ、焦って問い掛ける声が直ぐ後ろから聞こえたが、頓着しない。彼の細い手を益々強く握り締め、
体当たりする様に藍色の夜空の天幕を突き破って行く。
ざあっと潮が押し寄せる様な音と共に熱い風が髪や袖を乱した。振り返ると風に煽られ炎が屋根の高さまで大きく湧き上がり、
植込みや小屋などを飲み込み燃え広がっていた。
山崎に手を取られてそれを見つめる桂の白い横顔の周りに、夜空に散った火の粉が赤い雪の様に降り注いでいた。
静かな瞳の中にも灯した様に小さな炎が揺れていた。
火事に気を取られて慌てる者、屋根の二人を追い掛けようとする者、ただ騒ぎたいだけの者。そんな地上の混乱から少しでも
遠ざかろうと山崎は桂を連れて走り続けた。
屋根の勾配からビルの屋上に飛び移り、小屋の影に身を潜めた。
二人は呼吸を整えつつ片膝をついて注意深く様子を窺う。
地上では多くの足音がビルの周辺を走り回り、周囲の屋根や屋上も自分達を探しているのであろう輩達が物騒に抜き身の刀で
右往左往しているのが見えた。黒々としたそれらの姿は地獄の餓鬼が水を求めてゆらゆら彷徨っている様だった。
「大丈夫ですか」
傍で息を弾ませる桂に声をかけた。
桂は一つ頷いた。
「・・・・・何処へ」
「・・・・・この辺りは土地の高低差がかなり激しい上に、開発が手つかずなので道も細く迷路みたいに入り組んでいます。
行き止まりも多い。追いかけっこには不向きです。刀を振り回しながら遣り合える場所じゃない」
山崎は彷徨う不気味な影から目を離さない。
「土地勘があるのか」
「監察は鼠みたいなもんですからね、取り敢えず江戸界隈なら知らない場所はありません・・・・・・さあ行きますよ」
影が屋根の向こうに消えるのを見届けた山崎はそっと小屋の影から抜け出た。桂も後に付いた。彼はもう何も問い掛けなかった。
取りあえずの信頼を自分に預けてくれたのだと山崎は感じた。
二人は螺旋状の非常階段を途中まで駆け降り、そこから町工場の屋根へと飛び移った。そこでしばし地上の足音をやり過ごしてから、
両側に建物が差し迫った狭い屋根の上をひた走った。
この月の光も街灯の灯りも届かぬ真っ暗な一本道は、山崎の中で目的地が近いと思えばこそ夜の海を泳ぐ様に果てしなく長かった。
息は切れ、流れる汗を初めて感じた。
両側の壁が途切れ、そこに古びたアパートの建物が現れた。
山崎は急に再び桂の手を掴んだ。桂の体は引っ張られる様にして山崎の動きに預けられ、二人はアパートの外通路へと飛び移った。
山崎はスピードも桂の手を握るのも緩めず片手で隊服の中を探って鍵を取り出した。一番端のドアに飛び掛る様にして鍵を差し込み、
ドアを開けて桂の体を攫う様にして抱え中へと滑り込んだ。
二人は縺れ合って壁にぶつかった。
素早くドアを閉めて山崎は桂の体を包む様にしてぐったりと壁に手を付いた。
闇の中二人はしばらくその儘の姿勢で息を喘がせていた。
やがてゆっくりと山崎は桂から離れ、靴を脱ぎ捨てて先に立って部屋に入った。
桂はそろりと部屋を見回した。
「・・・・・此処は・・・・・?」
「俺が一昨日まで捜査で寝泊まりしていた部屋です。今日はあれから此処に片付けに来る予定だったんです」
八畳程の部屋、正面にはカーテンが掛った大きな窓、そこから弱弱しい外の光が差し込み、暗い部屋の中がぼんやりとした
濃灰色に浮かび上がっている。山崎は明かりは点けず、敷きっぱなしの蒲団、着替えやタオルが入った紙袋などの間を素早く
縫って窓際に近付き、膝をついてカーテンの隙間から外を窺った。桂もすぐ傍に来て習った。
「連中はまだあきらめてはいない様だな」
「ええ」
少し離れた屋根の上をさっきと同じ様な不気味な影がちらちら見え隠れしていた。何かを叫び合っている声があちこちから
風に乗って届き、まだ終わりでは無い事を知らされた。
顔を寄せて黙って外を眺めている内に、山崎の呼吸は段々と落ち着き、頭が冷静さを取り戻し始めていた。と同時に
さっきとは明らかに種類の違う汗が体中から湧き出して来た。
暗い部屋、二人きりで体を寄せ合っている。傍にはまるで誂えた様に蒲団が敷かれ、夜はまだこれから長い。
今更ながら眩暈がした山崎は、さり気なく窓際から離れると、隣の洗面所に飛び込んだ。
勢い良く水を流して手を洗い、ざぶざぶと顔を洗った。
顔を上げると、古びた鏡の中に濡れ鼠になったこれと言って特徴の無いのっぺりとした自分の顔と、身じろぎもせずに外を眺める
桂の細い後ろ姿が並んで映っていた。
ゆっくりとタオルで顔を拭き、乱れた髪を何度か手で撫でつけてみた。更にじっと見つめてからふっと洗面台の縁に
視線を落とした。
再び顔を上げて二、三息を整え、意を決して山崎は部屋へと戻った。
「桂さ・・・・・」
「だいぶ静かになったな。この入り組んだ界隈ではさすがに虱潰しという訳にも行くまい。下っ端チンピラは熱するのも早いが
冷めるのも早い。だから何事も成し遂げられんのだ」
桂は山崎の方を振り返った。
「俺は今の内に此処を出る。長く留まったとしても大きく状況は変わらんだろうからきりが無い。貴様は此処に、せめて明け方
近くまでは隠れていた方が良い。それ以上連中に顔を晒すのはやめておけ」
言いながら両手でしゃんと襟元を整え、正に立ち上がろうとした。
「・・・・・駄目です!」
山崎は桂の傍に走り寄った。
「今は静かでもまた直ぐに戻って来ます。今連中が探しているのはあなたです。手柄を得ようとあなたを血眼で捜しているんです。
そんな中にあなたを放り出すなんて出来ない!」
「山崎、」
「こんな所に俺と、真選組である俺と二人きりで居たくないのは分かっています。だったら俺が出て行きます。あなたは行かせません。
そう、絶対に行かせない、絶対に・・・・・!!」
知らず知らずのうちに桂の両肩を掴んで叫んでいた。
桂は目を見開き、困惑に似た色を浮かべて山崎を見つめた。
「・・・・・分かった・・・・・分かったから・・・・」
どこか呆然と、宥める様に呟く桂の肩を離さぬ儘、山崎はぐったりと首を垂れた。
「俺も貴様を追い出すなんて形になっては寝覚めが悪い。まあここは焦らず様子を見るとしようか」
穏やかにぽんぽんと山崎の腕を叩いて見せる桂の、これは譲歩なのだ。
出て行った所で桂があんな下層の輩に易々と捕まる訳は無く、こんな自分なぞに必死に引き止められる謂れなど無いのだ。
先刻屋根の上で桂が言った「罪滅ぼし」の一つなのだろうと、山崎の心は密かに呻き声を上げるのだった。
「痛い」
「・・・・・・」
「山崎、痛い」
「・・・・・へっ・・・・?・・・・・ああっすみません!」
慌てて肩を掴む手を離した。赤面して挙動不審にきょろきょりと辺りを見回し、山崎は傍らの紙袋の一つに飛び付いて
がさがさと中を探った。
「あの、これっ」
顔を伏せ、桂の前に両手で差し出されたのは洗濯済みのバスタオルだった。
「狭くて汚い部屋ですけど、どうか寛いで下さいっ。ちゃんと風呂も使えますっ。だからっ」
数秒の沈黙があり、ふふっと笑う声がした。そっと山崎が顔を上げて窺うと、桂はさも可笑しそうに肩を揺らしている。
「いや、全く貴様は・・・・・」
声を落として穏やかに笑いながら桂は感心した様に何度も首を振った。山崎はばつが悪かった。
「全く貴様にはいつもやられっぱなしだ。貴様は俺の一枚も二枚も上手なのだ。今日も助けたのは俺の方だと思っていたが、
それがいつの間にか助けられる方になったばかりか、こんな安全な場所にまで貴様は連れて来てくれたのだからな」
「いえ・・・・それは・・・・あなたが何も言わずに一緒に来てくれたからです。・・・・あなたが俺を見捨てなかったから・・・・・」
語尾はあやふやになって消え、山崎は畳に目を落とす。
桂はそっと窓に向き直ると、カーテンの合わせ目から再び外を覗いた。
彼はゆっくりと口を開いた。
「貴様、銀時の所に行ったらしいな。俺に会わせてくれと」