夜に還る
深夜。
遠くで野良犬の遠吠えがする。
暗い海の底の様に、闇が張り詰めている。
小さな宿の一室。
柔らかい行灯の光。溶合った闇と光に体を浸して身動きもせずにいる人は、桂小太郎。
壁に映った影はもう長い時間動かない。
ひとりきり座卓に片肘を付き、ひたひたと音無き音を立てる夜の気配に耳を澄ましている。
彼はただ、ささくれだった畳の目や所々剥がれかかった土壁が虚無の闇に体裁を添えるのを黙って見つめている。
階下で微かな引き戸の音がした。潜めた足音、何やら低く話す声。少しの間しんとしたかと思うと、今度は軋んだ階段の音。
静かに床板を踏む音が、徐々に近くなって来た。
目の前の襖がカラリと開く。
ふっと流れ込んで来る煙草の匂い。黒い二本の脚が目に映る。
「・・・・・よぉ」
顔を上げるとそこに銜え煙草の待ち人、土方十四郎。
いつもこざっぱりしている隊服は、今日は埃に塗れ、あちこちが焦げて破れている。
「・・・・・遅かったな」
桂はガーゼに絆創膏の貼られた相手の顔を見る。
「色々手間取ってな」
悪かった。それだけ言うと土方は部屋に上がって襖を閉め、桂の傍まで来て座った。
ふたりは間近で顔を見合わせた。
「・・・ひどい顔だ」
「お前もな」
土方は軽い調子で答えると、火のついたままの煙草を灰皿に置き、包帯の巻かれた桂の右手をそっと握る。そして静かに体を自分の肩に引き寄
せた。
頬に当たる隊服は夜の冷気を吸ってじっとりと冷たく、埃と煙の匂いがした。
土方の指が桂の耳の傍の髪をゆっくりと梳き始める。桂はぼんやりと指で相手の胸の金ボタンを弄んだ。ボタンは隊服よりも冷たく指先をぴり
りと刺激した。
熱くて冷たい。冷たくて熱い。
今日の昼間の太陽の様に。
──── お前は見たか。
太陽が、嫌に白かったね。
煙が家屋を包み、二階の窓の手摺を赤い炎が導火線の様に走って行ったのをよく覚えている。
外では拡声器で怒鳴る声とざわめきが響き、引っ切り無しにサイレンが鳴っていた。
ガラスの割れる音に混じって部下達が自分の名を呼ぶ。
広くなった視界、真下の道には黒い服の集団と野次馬が、まるで巣作りの蟻の様に群がっていたよ。
無造作に止められたパトカーの一つ、開いた扉の傍にある男が、
彼の瞳はその日の太陽の様に白く、ただ目が眩みそうに白く、
・・・・なのに中に宿した影は漆黒に輝いていて、まるで夜の底無し井戸に投げ込んだ松明の様に・・・・
俺はそこに、ただ吸い込まれて、炙られて溺れてしまいそうだったよ。
這上がって来た炎が視界を狭めたら、彼の姿の他には、
ただ何も無い空が広がっていた。
──── 見ただろうね?
そう、我々は同じ物を見た筈だ。壊れるばかりで何も無い、ただ何も無い世界を。
──── お前は見たか?
真昼の太陽はやけに白かった。
おかげで炎の色は一層赤く、煙は混じり気のない墨色で、美しいとさえ思った程だ。
灰混じりの熱い風が引っ切り無しに頬を打ち、霞んだ目を凝らして俺は・・・・
群衆に溢れた道の真ん中で、パトカーの扉の端を痛い程に掴んだままで、割れ落ちて行くガラスの向こうはさぞかし熱かろうと・・・・、
そんな事をぼんやり考えていたよ。
炎と煙の間に見え隠れするその人は、どんなにか熱かろうと・・・・・
背を真直ぐに伸し、時折たなびく長い髪は煙よりもまだ黒く、
その眼差しの何と静謐な事!
まるで木蓮の花弁に湛えられた夜露の様に、
今にも溢れ落ちそうで、俺は受け止めようとしても、
術は無く、ある筈も無く、
みるみる内に白い世界に侵食されていったことだ。
──── 見ただろうね。
我々は同じ物を見た筈だ。 壊れて行く世界はあんなにも白く、後には何も残らない、そんな場所だと。
放って置かれたままの煙草は小さな赤い炎でジリジリと焼かれ、積もった灰が重た気に頭を垂れ始めてやっと、土方はそれを取り上げて一口
吸った。
壁に映る煙の影は、水底から見る水の影の様に儚く揺れていた。
桂は土方の腕の中からするりと抜けて立ち上がり、壁際に凭せ掛けていた編み笠を手に取った。
「おい、もう行くのか?」
そのまま襖の方に向かう相手に土方は驚いて声を懸けた。
「早過ぎはしないか」
「・・・・遅れて来たお前が悪い」
土方は灰皿に煙草を押し付けると、立ち上がって傍まで来た。
出て行く間際、桂は相手の頬の絆創膏に、包帯の巻かれた手でそっと触れる。
見つめ合うその瞬間だけ、ふたりの間で夜が深まる。
土方はその手を取って顔をずらし、静かに唇を押し当てた。
桂は手をそろりと抜き取った。
「では・・・・」
呟いて背を向けた。相手からの言葉は無かった。
襖を閉めると、闇の冷たさが目に痛い程だった。
キイキイと軋ませて階段を降り、引き戸を開けて往来に出る。
がらんとして風が吹き抜ける夜道、覚束ない足の酔っ払いがひとり。野良犬の遠吠えが、一層近くで聞こえる。
酔っ払いがふらふらと歩いて行った方角に、ターミナルが天を貫かんばかりにそびえていた。
昼間と同じ様に虹色の光を放って、江戸からその巨体が見えない場所は無い。
桂は編み笠をぐっと深く被り直すと、ターミナルを背にして、往来を駆け出した。
夜風を切り、呼吸の音さえ聞かぬ様に、ただ、
走って、走って、走って、走って ────