榛原さんのお気に召すもの



 もうじき7月が終わろうとしていたその日、連城はマンションへと続く坂道をのぼっていた。
 道沿いの街路樹では蝉たちが人生の春ならぬ夏を声高々と謳歌している。その騒音アーチを通り抜けながら、その煩さに彼は思わず顔をしかめた。
 ここ数日籠りきりで仕事をしていた間に梅雨は明け、本格的な夏に突入していたらしい。北国生まれの彼にとって憂鬱な季節のはじまりだった。

 久しぶりに下のカフェで朝昼兼用の食事をとってマンションに戻った彼は、郵便受けの中に見覚えのある封筒があるのを見つけた。連城は白いシンプルな封筒を手に取る。クレセントカンパニーのロゴが印刷されたその封筒は今では連城も見慣れたもので、特に驚くことはなかったのだが、その差出人名を見て彼の顔は青くなり、中に入っていたメッセージカードを見て蒼白になった。

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 私の誕生日を祝いに来い。
 8月1日午後2時、クレセントカンパニーにてささやかなパーティーを催す。
 それにおいて、何かひとつ私を喜ばせるものを持参するように。
 待っている。

 榛原憂月

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 カードにはそう書かれてあった。
 上から下まで何往復も視線を泳がせたあと、連城は顔を強張らせる。
(これは……嫌がらせなのか?それとも何かの罠なのか?)
 連城の場合、まずそこから考えねばならなかった。
 もう一度カードをよく見てみると、白一色に見えた紙面にはデザイン化された『2007.8.1』という数字が透かし模様でいれられていた。どうやらこの招待状のために特注したものらしい。
 メデュウサの稽古で多忙を極めるあの男が、ひとりの人間のためだけにここまで手の込んだことはしないだろう。複数の人間に宛てた正規の招待状に間違いないと結論を出した連城は、やや顔色を取り戻したものの次なる問題にまた頭を悩ませる。

―――何かひとつ私を喜ばせるものを持参するように。

 自慢じゃないが、これまで集めた榛原に関する情報量は、一ファンとしては随一を誇っている連城だ。だが、それらの脳内データベースを探っても彼の喜ぶものなど検討がつかない。
(いや、ひとつだけある……ケイだ)
 彼は否定しているが、自分のこの目は誤魔化せない。神をも恐れぬあの男を臆病にさせるほどに、彼のケイへの執着心は強い。
 しかしケイを差し出すなど―――たとえ誕生日パーティーの余興であろうとも、そんなこと出来るはずがない。
(だけど……)
 榛原の喜ぶものをケイの他には思いつかず、彼の苦悩はますます深まる。
 もしも手ぶらで行こうものならあの男のことだ、「おまえにはこれしきの発想力も演出力もないのか」だの「はなから諦めてかかるような脆弱な精神で、私を殺すような言葉が書けると思うのか」だの「ナイフのひとつでも持ってきた方がマシだ」だの散々罵倒されるにちがいない。
 かといって的外れなものを持っていけば、それはそれで手ぶらの時と大差ない言葉を浴びせられる気がする。
「このままではパーティーに行けない……」
 シンデレラのようなセリフをつぶやき、連城は立ち尽くす。
 外では相変わらず蝉が、わんわんと鳴きわめいていた。
(ああ、蝉になりたい。この夏が終わるまで……)
 連城は心の底からそう思った。彼らにはこんな悩みなどないだろう。土に埋もれていた間の鬱憤を晴らすかのようにめいいっぱい鳴き叫んで、きっと悔いなく一生を終えるのだろう。ああそうだ、次回作はこれでいこうか。蝉になりたい男の話だ。世の中に埋もれ続けた彼は、ある日蝉を見て悟るんだ。オレは今から羽化しようとする蝉なのだと。彼らのように激しく泣き叫んで、そして潔く死のうと。そして男はある計画を……
 連城の脳は全力で現実逃避に走り出していた。頭の中では、主人公の男が泣いたり叫んだり暴れたり逃げたりと大忙しだ。その脳内劇場が手に汗握るクライマックスに差し掛かる頃、
「こんにちはぁ」
 顔見知りのマンションの住民に通りすがりに声をかけられ、ようやくはっと我に返る。
(こんなことを考えている場合じゃない!)
 連城は額の汗をぬぐい、深呼吸する。すこし頭がクリアになった気がした。
 冷静に考えると、パーティーに行かないのが一番の正解のような気がする。正直なところ行きたくない。いっそ郵便事故で届かなかったことにしてしまいたい。
(だがそんなことをすれば……)
 連城は再びカードに視線を落とした。「待っている」のひとことが、ここにきて最大の威力を発揮している。爬虫類めいたあの眼差しが、さあどうするのかと今の自分をじっと見つめているような気さえしてきた。
「オレは……行かないぞ榛原」
 長い葛藤の末、連城は結論を出した。あとのことはあとのことだ。携帯の電源を切ってしばらくどこかに雲隠れしてやろうと決意したその時、連城の上着のポケットで携帯がブルブルと震え出し、連城の体も一緒にガクガクと震え上がった。
(ま、まさか榛原か?!)
 意味もなく防犯カメラのあるあたりを見回しながら、連城は携帯を取り出す。血走った目で液晶画面に視線を走らせると、そこには榛原ではなく別の人物の名前がはっきりと浮かび上がっていた。
 その名前をみた瞬間、連城の頭に一縷の光が差し込む。
(逃げなくても、この事態を上手く乗り越えられるかもしれない……)
 彼は力強く通話ボタンを押した。


 8月1日午後1時15分。連城はとあるホテルの一室にいた。某ブランドのベージュのサマースーツをびしっと着こなし、手には涼しげな青系でまとめた花束をかかえていた。
 だが、この花束が榛原へのプレゼントというわけではない。彼を喜ばせられるであろうプレゼントは目の前にあった。
「悪いね連城君。もう少し待っててもらえるかな」
「お気遣いなく。まだ時間がありますから焦らなくても大丈夫ですよ」
 台本や演出メモが散乱した室内を、藤崎は車椅子で器用に移動しながら身支度を整えていた。
 そう、連城が用意した榛原へのプレゼントは藤崎――親友からの祝いの言葉だった。
 榛原から藤崎へも招待状が届いている可能性はあったが、聞けばそんなもの届いていないという。ケイにも聞いてみたが彼の元にも届いてないとのことだった。メデュウサ対決を間近に控えたこの時機に、馴れ合う気はないということなのだろう。
 それでも藤崎が誕生日を祝いに来てくれれば、あの男だって嬉しいはずだ。たとえ今は対立関係にあっても、ふたりはかけがえのない親友なのだから。
 幸いにも、榛原の誕生日パーティーに行きませんかという連城からの誘いに藤崎は快く頷いてくれた。
 そのおかげで、今日という日を明るく迎えられた連城だった。
(楽しみに待ってろよ榛原)
 榛原の驚く顔を思い浮かべて連城が密かに心躍らしていると、そこへ意外な来客者が飛び込んできた。
「こんにちはー」
「ケイ?」
 連城は目を瞠る。藤崎がパーティーに行っている間、ケイはひとり自主稽古をすることになっているとそう聞いていた。その彼がなぜこの時間訪ねてきたのだろうか。
 そう不思議に思った連城は、あらためて今日のケイの姿を上から下まで観察して、顔をこわばらせる。
 今日のケイはいつものカジュアルな服装とは違い、茶系のパンツに麻のジャケットをはおっていた。手首にはいつか連城がプレゼントした腕時計がはめられていて、少し大人びて見える。嫌な予感がした。
「連城にもらった腕時計、今日はじめてつけてみたんだけどどう?似合うか?」
 ケイを凝視したまま動かない連城に、ケイは左腕を上げて見せて照れくさそうに笑った。
「ああ……よく似合ってる。それよりも今日はどうしたんだ?」
「藤崎さんに聞いたけど、榛原さんの誕生日パーティーに行くんだって?それならオレも一緒に連れて行ってほしいなと思って」
 嫌な予感は的中した。
「なあ、いいだろ?」
 連城の心境など知らないケイは、期待をこめた目で見つめている。
「ケイ……」
 速攻で断りたかったが、藤崎が行くのに、それと同じ立場にいるケイだけ行くなとは言いにくい。連城は断るための言い訳を口にしようとしては、結局何と言っていいかわからず言葉を詰まらせ黙り込む。あの招待状の一文のせいで、ケイを連れて行くことに抵抗があった。できれば連れていきたくはない。
 黙りこみ、困ったような顔で見つめてくる連城に、ケイの顔から笑顔が引き潮のように消えていった。そしてぼそりと小さくこうつぶやいた。
「オレだけのけ者かよ……」
 それが怒った声だったなら「ダメだ」と言えたかもしれない。しかし、その声は悲しみに満ちていた。伏せられた黒い瞳には涙がにじみ、睫を震わしている。
「ケ、ケイ……わかった、一緒に行こう」
 そんな姿を見せられては連城はもう頷くことしかできなかった。
「やった!」
 ケイの顔がぱあっと花が咲くようにほころんだ。その天使の笑みに連城の頬も思わずゆるむ。
「ありがとう連城!」
(ああ、オレのアンゲロス……)
 あの男はケイのこんな満面の笑顔を見たことなどないだろう。そんな優越感が連城の心を満たし、誕生日くらい多少いい目を見させてやってもいいかと、心までも広くなった。
 もっとも、榛原を喜ばせるためにケイを連れてきたのではないということは、きっちりはっきりあの男に説明しておかなければならないが。
 身支度を整えた藤崎が見計らったかのようにバスルームから出てきて、3人でホテルを出る。今から行けばちょうどいい時間だった。
「もうすっかり夏だね」
「うわあちー。でも宮崎はもっと暑そう」
「うんそうだね。でもあの家は海風があったから朝晩はここより涼しいよ」
 連城は藤崎の車椅子を押しながら、会話を弾ます師弟の姿を、微笑ましさと若干の嫉妬を含めた目で見つめていた。しかしその目は、ふと、ある違和感を見つける。ふたりとも手ぶらだった。
 誕生日に呼ばれたとなれば何か花束のひとつも持っていくものではないだろうか?
 連城が怪訝な顔で見ているのに気づいたケイが、「どうした?」と首を傾げて聞いてきた。
「いや、なんでもない」
(きっと稽古で忙しくて用意する時間がなかったんだな)
 連城はそう考えて、なごやかなふたりの会話に加わった。
 この時彼は失念していた。彼らが天才とも魔物とも呼ばれる(呼ばれていた)役者であることを。
「榛原さん喜んでくれるかなぁ」
「ケイなら招待状がなくても大丈夫だろう」
「きっと喜んでくれるよ」
 3人の笑顔が木漏れ日に溶ける。
 今日は素直にあの男の誕生日を祝ってやろう。そう思えるような穏やかないい日だった。
 そんなことを思って連城は青く晴れた空を見上げる。……その様子をチラチラと盗み見ている、傍らの視線にも気づかずに。

 連城は知らない、ケイと藤崎が一瞬視線を交わして意味深に微笑み合ったことを……
 彼らのポケットに、連城と同じ招待状が忍ばされていることを……
 招待状が届いたあの日、連城が逃げ出さないようにと先手を打って藤崎が電話をかけたことを……

 榛原の喜ぶものを無事捕獲できた師弟は、意気揚々とクレセントカンパニーへと向かったのだった。



(fin)





一週間遅れましたが、榛原さん誕生日を祝ってみました。本人出てませんが。(笑)
一応メデュウサ対決の前という設定ですけれど、パラレル風味ということで。
初の神紋小説、書いてて楽しかったです。

2007.08.08 up

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