昨日の憂鬱




 昨日は散々な目に合った。
 今日はその後遺症で、講義のコの字も耳に入らねぇ。
 休憩時間も机に突っ伏したまま、不眠症の人間のように頭を右へ左へと寝返りをうっていると、「おはよう千秋」と、成田譲がさわやかな笑顔と共に登場した。
「……はよ」
「あれ?高耶は?」
「来てねぇよ」
 前から3列目、中央寄りのヤツの特等席は今日は朝から空席だった。それを見るたび「ああ……」と、また複雑な気分になる。
「寝坊でもしたのかな?」
「……そうじゃねぇの?」
 そう力なく答えたオレは、もやもやと浮上してきた見たくもない想像をメッタ斬りにしては、本日何度目になるかわからないため息をついた。



 昨夜オレは、大学のダチ――仰木高耶というヤツと、ゼミの飲み会に参加していた。
 飲み会に高耶のやつが来るのは珍しかったので、みんな嬉しがって高耶のグラスにどんどん酒を注いだもんだから、2時間後にはヤツはソファーの背にぐったりと身を任せるようになってしまっていた。
「おーい大将、大丈夫か?」
 介抱しようと群がってくる女子をやんわりと散らして高耶に冷たい水を手渡すと、トロンとした眼が向けられた。
 ……一瞬、脳天の一部にものすごい攻撃を受けたような気がしたが、深く考えるのはやめて水を飲ませてやる。
「歩けるか?」
 そう言って高耶を立たせようとしたが、足元がふらついて危なっかしい。
 この状態でここにいてもしんどそうだし、ぶっちゃけ邪魔だったので、先に帰らそうと思ったのだが、これだけ酩酊していてはひとりで帰るのは無理だろう。
 付き添い立候補の手が何本も天を突く竹槍のような鋭さでしゅたっと立ち上がったが、高耶のマンションを知っているという理由で、結局オレがその役を押し付けられてしまった。
 もてる男ふたりを追い出そうという、ゼミの男らの魂胆が見え見えだったが、こんな状態の高耶を女子に送らせるのも(高耶の身が)危険なので、しぶしぶ請け負ってやることにした。なんか視界の隅に、鼻息荒い男の挙手もいくつかあった気がしたが、それは見なかったことにしよう。
 あいにくオレと高耶の財布の中にタクシーを使うほどの金はなかったので、公共交通機関を使ってのお持ち帰り……じゃなしに、移動を強いられた。
 その涙ぐましい親切心が、まさかあんな災難へと結びつくことになろうとはこの時は知る由もなく……

 骨無し人間のようなふらふらの高耶に肩を貸しながら、ウォーターフロントの大層なマンションまでたどり着いた時にはオレは汗だくになっていた。ここで任務完了といきたかったが、エントランス前の階段に座り込んで、すーすー寝息を立てる高耶を放置するわけにいかず、オレはあきらめのため息をつく。この分だと終電に間に合いそうにない。
 あとでこの借りはきっちり返してもらわねばと、携帯カメラで証拠写真を撮ったあと、高耶の腕をオレの首にかけ、ヤツの腰に手を回してよいしょと立ち上がらせる。なんだか神輿でも担いでいる気分だ。
 防犯カメラに怪しくないよと愛想笑いで手を振りながら、指紋だかなんだかのセンサーに高耶の指を入れてエントランスに入り、部屋の前まで引きずるように連れて行ってやると、それを見ていたかのように目の前で扉が勢いよく開いた。
「高耶さん……!!」
 現れた男は、ぎょっとしたようにオレらふたりを見たあと、奪い取るようにして高耶を自分の腕の中におさめた。なんか感じ悪いぞコラ。
 重荷から開放されたオレは、やれやれと肩をほぐしながら、高耶をひしと抱きしめる男を改めて見る。
 この男が直江ってヤツか。
 直江というのは、高耶と同居しているという彼の従兄弟だ。高耶の話の中で何度か名前は聞いていたが、会うのはこの日がはじめてだった。まあ、オレほどじゃないが、なかなか見栄えのする男だ。
 高耶の携帯でこいつを呼び出せばよかったなと、今頃そんなことに気づいて、内心舌打ちをする。
「えーっと、オレ、仰木クンと同じ大学の千秋修平というもんです」
 直江に「誰だ?」と敵意さえ感じる視線を向けられ、オレはポリポリと頬を掻きながら、とりあえず自己紹介をすることにした。
「コイツ……じゃなしに、彼が酔っ払ってまともに歩けなくなってしまったんで、(嫌々)送ってきたんですけど……」
 経緯を説明して、ようやく直江の視線が緩んだ。
「そうですか、それはご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「あーいや、ゼミのやつらが仰木君に飲ませすぎたせいなんで、悪いのはむしろこっちの方です」
「……いえ。起きたら高耶さんに注意しておきます」
 『飲ませすぎた』のあたりで、直江の眉がひくりと怒りにひきつった気がしたが気のせいだろうか。注意の内容が気になるとこだ。
 お茶でも飲んでいってくださいと言う直江に、すぐ帰りますからとお決まりのセリフを返して玄関で押し問答していると、直江の腕の中で高耶がぱちりと目を開けた。
「……なおえ?」
「おかえりなさい高耶さん」
 その言葉に高耶は、はっとするようなとびっきりの甘い笑顔で応えた。こんな顔もするのかとオレが驚いている間に、今度は子供じみたしかめっ面へと変わってゆき、またオレを驚かせた。
「……いつもの、しないのかよ」
 直江をじっと見上げながら、高耶が口を尖らせて言った。
 そんなヤツに、直江は困ったような笑みを浮かべて見つめ返す。
「…………」
 この「ふたりの世界」な空気は一体なんだろうか。なんだかすごく嫌な予感する。
 その予感が当たったのを知るのは、わずかこの数秒後。
 高耶が直江の唇に喰らい付いた時、ようやくふたりの本当の関係がわかった。
 おいおいおい。マジですか……
 オレの目の前で、熱烈なラブシーンがおっぱじめられてしまった。
 直江の首に腕を回し、慣れたものだといわんばかりに唇を重ねている高耶。
 あんぐりとそれを見てる間に、気づけばふたりのキスは深いところまで進行していて、ふたつの唇の距離は0どころかマイナスの位置にあり、唇だけでない部分が混ざり合っているのが傍目にも見てとれた。
「んんっ……」
 高耶の甘い声が漏れ、柄にもなくうろたえてしまう。
 これくらいで動揺するほど初心ではないが、相手が相手だけに、どう反応していいかわからない。
 色恋に無縁だと思っていた高耶が、まさかこんな……
 娘の濡れ場を目撃した父親のような心境だ。
 立ち尽くす哀れなオレの目の前で、無慈悲にも事態はどんどん深刻化していった。
 いつのまにか主導権を握った直江が(つーか、素面のてめぇまで何やってんだよ!)、上から覆いかぶさるように高耶にキスを与えていた。それに対して高耶は、甘い息を漏らして悩ましげに眉を寄せると、快感に耐えるように直江の髪に指を入れてかき回し出した。その手はやがて直江のシャツの襟元へと移り、上のボタンを2つ3つ忙しなく外すと、肌蹴たシャツの隙間から逞しい胸へと……
 スパーン!スパーン!と小気味いい音が玄関に響いた。
「おい!そこのバカップル!帰ってやるからタクシー代よこせっ!」
「……あれ?ちあき?」
 ふたりの世界から帰還した高耶が、きょとんと小首を傾げた。
 なんだその小動物のような愛らしい仕草は。
 ムカついたので、その頭をもう一度、握り締めたままの客用スリッパでパコンと叩いてやった。高耶の背後から、ものすごい目で睨みつけられたが知るもんか。被害者はこっちだ。
「ったく、何のプレイだよてめぇら!」
 そう怒鳴りつけてやると、ようやく直江は「驚かせて申し訳ない」と、濡れた唇を拭いながら詫びてきた。……のはいいが、その勝ち誇った顔はやめろ。オレは参戦する気なんてさらさらねぇから。
 この色ボケ野郎からタクシー代と慰謝料をふんだくったオレは早々にマンションを出た。全く今夜は最悪だと毒づきながら。
 その夜オレが最後に見た高耶の姿は、直江に抱き上げられながら寝室へ運ばれていく姿だった。今頃は……と、その先を想像しかけて、あわててそれを打ち消し、空車タクシーに向かって大仰に手を上げた。
 帰ったら酔いつぶれるまで飲んでやろうと心に誓いながら。
 


「はよー、千秋」
 机に突っ伏して悶々と昨夜の出来事を反芻していると、頭上から軽やかな声がかかった。
「……はよ」
 顔を上げると、気が抜けるほどいつもどおりの高耶がいた。
「昨日は迷惑かけて悪かったな。家まで送ってくれたんだって?」
「…………」
「悪ぃ、オレまったく覚えてなくってさー」
「……マジで覚えてねぇの?」
「えと、オレ、……なんかやった?」
 高耶は声を潜めて恐る恐る聞いてきた。その様子に悪戯心を刺激される。
「ほんとに覚えてねぇのか?あんな熱烈なキスかましといて罪なヤツだなぁ」
 高耶の肩がビクリと飛び上がった。かわいそうなくらい顔を強張らせている。
「道の往来でさ、おまえいきなりオレの唇にかぶりついてきてさぁ、そりゃあもう強烈なキスを――」
「い、言うな!特に直江には!!」
 がばっとオレの口を手で封じて高耶が叫んだ。
 オレの嘘にまんまと騙された高耶は「頼む!」と真っ赤な顔で何度も頼み込む。
 ……なんだかとても楽しくなってきた。午後の講義はバッチリいけそうだ。
「まあ、それは高耶クンの心がけ次第かな〜」
「心がけ?」
 とりあえず今日の昼食を奢れと言うと、素直に高耶は頷いた。オレはひっそりほくそ笑む。
 高耶にはかわいそうだが、もうしばらく遊ばせてもらうことにしよう。あんな目にあったんだから、それくらい罰は当たらないだろう。
「あのさ、千秋。その……悪かったな。気持ち悪かっただろ?」
 食堂への道すがら、高耶が気まずそうに聞いてきた。どうやらオレのでっち上げたキスのことを言っているらしい。
「いや?けっこうよかったぜ?おまえ意外に上手よなぁ」
 にやりと笑って言うと、高耶は真っ赤になって口をぱくぱくさせた。
 面白い。やみつきになりそうだ。
「まあ、また酔った時はオレにしとけよ」
「何がだ!!」
「もちろんキ――」
「二度とやらねぇ!!」
 昨日の憂鬱を取り戻せるくらい楽しい一日になりそうだった。



(fin)


Web拍手用に書いてたはずのSS。
途中で暴走させてしまったので、ボツにしました。
キスのひとつやふたつじゃ満足できない熱々直高が書きたくてしかたない病にかかってます。




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