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この版木を見ながら、如来院のいわれをお話します。
浅学の為、歴史的誤りや、表現の未熟さを正して頂ければ幸甚に思います。
[T]お寺の歴史
@産 声
版木にお堂があります。お堂の右下角に縦書きで「釈迦堂 今 如来院」と書いてあります。
つまり、如来院の前身は釈迦堂だったんです。
釈迦堂は、今から1,300年前に、行基菩薩が聖武天皇の厄除けを祈願して、釈迦如来をご本尊さんとして、
神崎の地(尼崎市神崎町)に建立されました。
A法然上人とのご縁
法然上人が晩年、四国に旅されます。 旅道中に立ち寄られました。
法然上人は、村人達に、法然上人の教え『 お念仏するなら、必ず、往生できる 』をお話されました。
B再 建(さいこん)
洪水で釈迦堂が流されます。再建に際し、ご本尊さんを 釈迦如来 ⇒ 阿弥陀如来 に替えられました。
よって、お寺の名称も 釈迦堂 ⇒ 如来院 に改められました。
余談ですが、800年前の海岸線は現在の阪急電車神戸線の辺りであったようです。
その後、何度も何度も洪水に遭い、戦国時代には、大物(大物の浦・尼崎市大物町)まで、
陸地が出来上がりました。
C移 転
戦国時代に尼崎城が築城された時に、大物(尼崎市大物町)に移り、
徳川幕府が寺町を作った時に、現在の地(尼崎市寺町)に移転しました。
[U]遊 女 物 語
@ま ず
法然上人(ほうねんしょうにん)は今から約850年昔の方です。
法然上人は、晩年、四国へ旅をされます。法然上人は、京都・淀の地を発って、淀川を下り、
神崎川に入り神崎の泊に着かれます。
京都で布教されている法然上人の教え(お念仏を唱えたなら西方極楽浄土に往生出来る)は、
遠く離れた神崎の地にも伝わっています。
ましてや、法然上人ご自身が釈迦堂に居られるということで、
連日、教えを請うために村人達が集まって来ます。
A法然上人の教え
法然上人の教えは、男女に関係なく、貴賎に関係なく、貧富に関係なく、
誰でもお念仏を唱えたなら、必ず、西方極楽浄土に往生できますとの教えです。
B身分制度
お堂の中央に黒い衣をまとった法然上人がこちらを向いてお話をされています。
法然上人のお話を車座になって聞いているのは神崎村の人達です。
山門の前の5人の女性は遊女です。江戸時代の遊郭の遊女とは違います。
ここに描いてある女性は、芸事をもって楽しませることが仕事です。また、学問を修めています。当時の学問は歌が読めることを指すようです。
白拍子だと思っています。
千両役者と河原乞食って同じ人なんですってね。千両役者は舞台に上がって、芸を行って、拍手喝采をもらえる人達ですよね。
この芸人が舞台を降りて普通の生活になると河原乞食というんだそうです。
今日では、タレントは、世間が認知してますが、50年前は、芸人になるなと言われたらしいです。
当時の生活習慣として、遊女はお寺の中に入らないんです(入れないのではありません)。
C遊女の気持ち
日常生活において身を引いた生活をしている遊女も人間です。遊女たちは、法然上人の教えに縁が無いと聞
き分けます。 しかし、内心ではお浄土に生まれたいと思っています。法然上人のお話をよくよく聞くと、
「誰でもお念仏を唱えるなら、必ず往生できる」と仰っています。「誰でも」と仰っています。誰でもの中
に私も含まれないのか、含まれるのではないかと淡い希望の火が灯ります。居ても立ってもいられず神崎釈
迦堂にやって来ますが、でも、山門をくぐることが出来ません。
D出 会 い
お寺に入れない遊女達は、法然上人が釈迦堂を出られるのを待ちます。
釈迦堂を出られた法然上人に、
遊女達は「私たちは卑しい者ですが、お念仏を唱えたなら、お浄土に生まれることは出来ますか。」
と尋ねます。
法然上人は「一心にお念仏するならば、必ず、往生できます。」とお答えになりました。
E黒 髪
法然上人の「一心にお念仏を唱えたなら、必ず西方極楽浄土に往生できる。」の教えを聞いた遊女達は、感
涙し、頭の黒髪を切り落とし、法然上人に差し出しました。
遊女が頭の毛を切るということを少し考えていきたいと思います。
皆さんは、自分の髪を切れますでしょうか、どうでしょう。
遊女が髪を切るということは、極端かも知れませんが明日の生活の糧はなくなるんです。
Fお か み そ り
髪をおろした遊女を哀れんだ法然上人は、その場で、お剃刀の式をして、遊女たちを仏さまの子として生まれ変わらせました。
その後、法然上人は四国に向かわれます。
G入 水 往 生
仏の子となった遊女達は、声高らかに
お念仏を唱えながら、ゆりあげ橋から
身を投じ、入水往生いたしました。
H追 善 供 養
法然上人は四国からの帰路、再び、神崎釈迦堂に立ち寄られます。
遊女の菩提を弔うために、川施餓鬼を勤められました。
また、村人が遊女の供養のために建てたお墓の前で、数珠繰りをして、遊女の追善供養をされました。
遊女塚は尼崎市神崎町(バス停:遊女塚前)にあります。
Iそ の 後
遊女の追善供養をすまされた法然上人は、箕面の勝尾寺二階堂に行かれます。
勝尾寺は山の中の山の中にあります。
人里離れた生活の不便な所、寒さがきびしい所です。
村人たちは、法然上人に教えを乞うために、必死に引き止めますが、法然上人は
勝尾寺二階堂に行かれます。
身代わりに、法然上人のお像(如来院安置)に、ご自身が魂入れをして、よく拝んで欲しいと言い残され、
『 名残の法然さん 』と呼ばれています。
法然上人像を作ったのは、法然上人の旅のお供をした湛空(たんくう・二尊院の中興)上人と伝わってい
ます。
[V]参 考 事 項
@遊女の名前
「吾妻路や 宮城の原の 露かるも月乃 おくらに歌の 大仁ん」
(吾妻・宮城・かるも・おぐら・大仁ん(だいにん)
A遊女物語 遊女ものがたりは雨月物語(宮城が塚の段)に載っていると聞いています。
ご参拝をいただきありがとうございました。
第一日曜日10:00-14:00、本堂を開放いたしますので、どなたさまもご自由にご参拝ください。