会館日誌

2004年01月12日
毎度です!

似たよな内容が多い当会館での新コンテンツです。

会館建設当初は特に何も考えず

「とりあえず作っとけ!」

と正門に案内だけ作っときましが、結局ここは、ノンジャンルで適当になんか書いていくことにしました。
あと会館史に載せられない程度の細かい更新記録も書くかも知れません。

で記念すべき第一回ですが
2004年1月10日の出来事について書いていこうと思います。

この日は真・道場にも書きましたように西宮のえべっさんに行ってきました。
毎年えべっさんは会社帰りに今宮に行ってるんですが、今年は1月10日が土曜日の休日で家に居たこともあり、おとう、おかんとで家族で西宮にも行きました。

でお参りした帰りにおとうが
築地の風呂屋行くか?」
と言いました。
銭湯からソープランドまで
風呂好きな私は即答で

「行く!」と言ったのですが

築地?...東京まで行く気か?...そんな訳ないなぁ...
ペコ姐さんがやってるのか?...ちゃうやろなぁ...」

で結局、ここの銭湯に行ったんですが、

尼崎に築地が有りました!

てゆうか、おとうによれば

「築地(尼崎)に居った船大工を江戸開府の折に家康が連れてって佃、築地(東京)になった!」

んだそうです。築地、佃について検索サーチしたら、おおむねそのようです。
ちなみに『佃』とゆう土地も尼崎と大阪との継ぎ目みたいな所(正確には大阪市西淀川区)に有りますが、こちらもこっちが元祖のようです。

私は東京の築地、佃には行った事が無いのですがテレビ等で見る限りは
『江戸の象徴』ってゆうイメージがあったのですが、そのルーツが尼崎に有ったとは驚きでした。

ただ、ようよう考えたら元々江戸は
『東のほうのクソ田舎』であったわけで江戸開府で家康が人を寄せ集めて開いていった、訳ですから、まぁ不思議はないなぁと納得してしまいました。

で、尼崎築地ですが上のリンクの銭湯紹介でも少し書いてありますが阪神大震災の折に
液状化現象で土地がボロボロになりました。風呂屋自体も震災復興事業で、できたものなんですが、町並みを見たら明らかに新しく整備された事が分かる道路や住宅に震災の爪あとを感じました。

テレビ等の報道では神戸(新開地、長田)のほうは、よく取り上げられてますが、尼崎も被害が大きかった...むしろ
市街地から離れている築地のほうが今でも震災を感じることができます。

もう9年かぁ...


ところで!えべっさんに話を戻すと東京にも
『恵比寿』とゆう土地がありますが、近所に
えべっさんがあるんかな?今宮戎があるから恵比寿町、大黒さんがあるから大国町。
いやそれをいうと弁天町には弁天さんがあるんか???


次項
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