− 12 − 偉の運転する黒塗りの車は、はっきりとした目的もないままに、香港の街を走っていた。 後部座席に座った夜蘭は、両目を閉じたまま、彫像のように微動だにしない。 だが、多少なりとも魔力を持つ偉には、彼女が刻一刻と己の≪気≫を拡げているのが 感じられる。 張りつめられた弦のように、≪気≫に触れるもの全ての中から、手がかりを感じ取ろうと しているのだ。 だが、それはひどく危険なことでもあった。 様々な強い≪気≫や≪魔≫の気配が充満する香港だ。夜蘭の≪気≫に触れてくるものが 多すぎる。 メチャクチャに琴の弦をかき鳴らされる中で、たった一つの音を聞き取るのが 困難であるように、小狼一人の気配を掴むのは、夜蘭といえど難しい。 そして、この方法は精神にも肉体にも魔力にも、激しい消耗を強いるのだ。 「……!」 ふいに、夜蘭は瞼を開いた。 黒曜石のような双眸が、ある一点を見つめる。 行き交う雑踏と、原色のネオンで飾られた大通りの向こうにあるものを。 「このまま真っ直ぐ。次の角を曲がりなさい」 偉は黙って主の指示に従った。 「止まりなさい」 ≪バードストリート≫に程近い、人の姿もない通りで夜蘭は言った。 その声と共にブレーキを踏んだ偉は、先に車を降り、夜蘭のためにドアを開けた。 「ここで、待っているように」 降り立った夜蘭は、そう言い残して細い路地に消えていく。 「お気をつけて」 偉は深々と頭を下げた。 * * * 「李くんの、お母さん…!」 ビルの間から現れた夜蘭に、さくらと知世は驚いた顔をした。 夜蘭が感じたのは、小狼ではない。クロウカードを持つこの少女と、少女の風変わりな 衣装の飾り帯に隠れた封印の獣・ケルベロスの気配。そして…。 「下がっていなさい」 夜蘭は、さくらの夢に現れたものと同じ、強い≪魔≫の力が創った結界に向き合った。 紅い光の壁に覆われた向こうには、さくらが小狼と出会った古井戸がある。 異空間への入り口…。成る程、小狼の気配が感じられないわけだ。 「あの、どうして…?」 ゆっくりと気を高める夜蘭は、さくらの問いに短く答えた。 「小狼の気が、途切れました」 「それは、わたしが…」 うなだれるさくら。 「いいえ、違います」 夜蘭の言葉に、さくらがハッと顔を上げる。 大方の状況は想像がつく。 小狼には、己の身と引き換えに二人の少女を逃がすだけで、精一杯だったのだろう。 今は、まだ…… 「ただ、あれの魔力(ちから)が及ばなかっただけ…」 夜蘭は、手にした扇に気を集中させた。 結界の壁に触れたとたん、激しく弾かれ、押し戻される。 夜蘭はもう一方の手も扇に添えて、さらに気を高めた。 他者の張った結界を破るには、相当な魔力を要する。 爆流に手を突っ込むようなものだ。 その抵抗に耐え得るだけの精神力と集中力が必要になる。 ゆっくりと、扇が壁を切り裂いていく。魔力の余波が夜の空気を乱し、彼女の衣装の袖を 翻す。 夜蘭はさらに力を込め、踏み込んだ。 そして、結界を突き破った扇を横に倒し、人一人が通れるだけの隙間を開く。 「行きなさい…!」 さくらは小さく頷くと、夜蘭の開いた隙間から古井戸に向かった。 だが、ふと振り返り、不安そうに見つめる知世に笑顔を見せた。 「この服、すごく動きやすいよ!」 薄紅を薄紫とを重ねた、花びらをかたどったデザインの衣装は、さくらに良く似合っている。 頭の左側には、雪兎からもらった桜の花の髪飾りが揺れていた。 知世も、さくらの言葉に応えて微笑んだ。 「完全防水になっていますから、水の中でもだいじょうぶです」 もう一度ニッコリと笑って、さくらは井戸に飛び込んだ。 それを見届けて魔力を解いた夜蘭は、足元をふらつかせて知世に支えられた。 結界の中が、白く眩い光に満ちる。 ……さくらさん、小狼を…お願いします……。 − つづく − ≪TextTop≫ ≪Top≫ *************************************** (初出01.5〜8 「友枝小学校へようこそ!」様は、既に閉鎖しておられます。) |