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 偉の運転する黒塗りの車は、はっきりとした目的もないままに、香港の街を走っていた。
 後部座席に座った夜蘭は、両目を閉じたまま、彫像のように微動だにしない。
 だが、多少なりとも魔力を持つ偉には、彼女が刻一刻と己の≪気≫を拡げているのが
 感じられる。
 張りつめられた弦のように、≪気≫に触れるもの全ての中から、手がかりを感じ取ろうと
 しているのだ。
 だが、それはひどく危険なことでもあった。

 様々な強い≪気≫や≪魔≫の気配が充満する香港だ。夜蘭の≪気≫に触れてくるものが
 多すぎる。
 メチャクチャに琴の弦をかき鳴らされる中で、たった一つの音を聞き取るのが
 困難であるように、小狼一人の気配を掴むのは、夜蘭といえど難しい。
 そして、この方法は精神にも肉体にも魔力にも、激しい消耗を強いるのだ。


 「……!」

 ふいに、夜蘭は瞼を開いた。
 黒曜石のような双眸が、ある一点を見つめる。
 行き交う雑踏と、原色のネオンで飾られた大通りの向こうにあるものを。

 「このまま真っ直ぐ。次の角を曲がりなさい」

 偉は黙って主の指示に従った。

 「止まりなさい」

 ≪バードストリート≫に程近い、人の姿もない通りで夜蘭は言った。
 その声と共にブレーキを踏んだ偉は、先に車を降り、夜蘭のためにドアを開けた。

 「ここで、待っているように」

 降り立った夜蘭は、そう言い残して細い路地に消えていく。

 「お気をつけて」

 偉は深々と頭を下げた。


   * * *


 「李くんの、お母さん…!」

 ビルの間から現れた夜蘭に、さくらと知世は驚いた顔をした。
 夜蘭が感じたのは、小狼ではない。クロウカードを持つこの少女と、少女の風変わりな
 衣装の飾り帯に隠れた封印の獣・ケルベロスの気配。そして…。

 「下がっていなさい」

 夜蘭は、さくらの夢に現れたものと同じ、強い≪魔≫の力が創った結界に向き合った。
 紅い光の壁に覆われた向こうには、さくらが小狼と出会った古井戸がある。
 異空間への入り口…。成る程、小狼の気配が感じられないわけだ。

 「あの、どうして…?」

 ゆっくりと気を高める夜蘭は、さくらの問いに短く答えた。

 「小狼の気が、途切れました」

 「それは、わたしが…」

 うなだれるさくら。

 「いいえ、違います」

 夜蘭の言葉に、さくらがハッと顔を上げる。
 大方の状況は想像がつく。
 小狼には、己の身と引き換えに二人の少女を逃がすだけで、精一杯だったのだろう。
 今は、まだ……

 「ただ、あれの魔力(ちから)が及ばなかっただけ…」

 夜蘭は、手にした扇に気を集中させた。
 結界の壁に触れたとたん、激しく弾かれ、押し戻される。
 夜蘭はもう一方の手も扇に添えて、さらに気を高めた。

 他者の張った結界を破るには、相当な魔力を要する。
 爆流に手を突っ込むようなものだ。
 その抵抗に耐え得るだけの精神力と集中力が必要になる。
 ゆっくりと、扇が壁を切り裂いていく。魔力の余波が夜の空気を乱し、彼女の衣装の袖を
 翻す。
 夜蘭はさらに力を込め、踏み込んだ。
 そして、結界を突き破った扇を横に倒し、人一人が通れるだけの隙間を開く。

 「行きなさい…!」

 さくらは小さく頷くと、夜蘭の開いた隙間から古井戸に向かった。
 だが、ふと振り返り、不安そうに見つめる知世に笑顔を見せた。

 「この服、すごく動きやすいよ!」

 薄紅を薄紫とを重ねた、花びらをかたどったデザインの衣装は、さくらに良く似合っている。
 頭の左側には、雪兎からもらった桜の花の髪飾りが揺れていた。
 知世も、さくらの言葉に応えて微笑んだ。

 「完全防水になっていますから、水の中でもだいじょうぶです」

 もう一度ニッコリと笑って、さくらは井戸に飛び込んだ。
 それを見届けて魔力を解いた夜蘭は、足元をふらつかせて知世に支えられた。
 結界の中が、白く眩い光に満ちる。


 ……さくらさん、小狼を…お願いします……。



                                        − つづく −


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 (初出01.5〜8 「友枝小学校へようこそ!」様は、既に閉鎖しておられます。)